沈華

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地獄のバーベキューから二カ月以上が過ぎた。 バーベキュー後に麗奈と二人で飲み会をして、酒の勢いで悠一の不倫疑惑について話したものの、それ以降理香子は、謎の人物ゆきの存在はすっかり忘れていた。いや、忘れようとしていたのかもしれない。 だって、自分が浮気されているかもしれないなんて考えたくもないじゃないか。  理香子は長い溜息を吐いた。講習会で県外に出張すると二日前の朝家を出た悠一が、今日帰ってくる。 悠一がいない二日間は思う存分のんびりできた。 掃除なんてたまにしかしないし洗濯物も溜まってから片付けるから、夫がいようがいまいがあまり普段と変わらない。 でも、朝晩の食事を作らなくてよかったのが楽だった。夫の出社時間にあわせて起きる必要がないので寝坊できるし、夜更かしもできる。夫がいないのはいいものだ。 だけど存分に羽根を伸ばしたぶん、洗濯物を携えて夫が帰ってくるかと思うとうんざりする。暑いから台所に立ちたくないのに、夕飯も作らなくてはいけない。  窓の外に目を遣ると、もくもくと巨大な入道雲が滲むような濃い青を覆っていた。もうすぐお盆だというのに、夏らしいことなど何一つしていない。毎年七月の第四土曜に開催される夏祭りには行かなかったし、窓から花火を眺めることさえもしていない。海にもプールにも行ってないし、かき氷だって食べていない。  主婦になってから季節の感覚が薄れた。クリスマスにはケーキを食べ、正月にはおせちは作らないもののお雑煮を作る。でも、子供がいないから子供の日も運動会も七夕も関係ない。時間の流れが曖昧で、六月十一日の四回目の結婚記念日は互いにすっかり忘れていたぐらいだ。 毎日同じことの繰り返し。ひたすら家事に勤しみ、息抜きで習い事や友達とのランチや遊びに没頭する。働いていた時よりは楽だけど、家事を毎日するのもなかなか苦痛だ。毎日遊んでばかりいられたら最高なのに。旅行だってもっと行きたい。 でも、お金は無限じゃない。夫だけしか稼いでないからなおのことそうだ。だからといって、もう二度と働きに出たくない。  買い物に行かないと。ああ、外は暑そうだ。やっぱり買い物はやめて、冷蔵庫にあるもので適当に夕飯を作ろう。カレーの材料ならある。楽だしカレーにしよう。  冷蔵庫から人参と牛肉を取り出している時、ふと、先月珍しく喧嘩したことを思い出した。面倒くさいから毎日パスタやオムライスなどの一品料理ばかり作っていたら、悠一にとうとう文句を言われたのだ。 「たまにはさ、ご飯とおかずと汁物みたいなちゃんとした献立にして欲しんだけど」  悠一が真顔でそう言ったので、むっとした。 「忙しいのよ、文句言うなら自分で作りなさいよね!」  声を荒げると悠一は珍しく怒った顔になった。 「働いてないんだから、家事はもうちょっと頑張ってくれよ。掃除機ずっとかけてないだろ、壁に埃の玉がついてるぞ。家計簿や使った絵の道具も放りっぱなしじゃねぇか。洗濯物だって、寝室に取り込んで山積みだろ。もっとマメに片付けろよ」  掃除も洗濯も嫌いでつい溜めこんでしまうのは事実だ。だけど、怒ることないじゃないか。あたしは自分なりに頑張っているつもりなのに。 被害者意識がこみ上げて、悠一に対して声を荒げて切れまくった。何を言ったかは覚えてないけど、悠一が冷たい顔をして黙り込んだ顔だけは今もはっきり覚えている。それから暫くは朝の挨拶すらかわさなかった。 いや、それ以前から挨拶は悠一からしてくるだけで、あたしから「おはよう」や「おかえり」と言っていたのは結婚したての頃ぐらいだ。 だって、家族じゃないか。いちいち職場みたいに他人行儀に挨拶する必要はない。あたしの母だって、娘のあたしにいちいち挨拶なんてしなかった。  カレーにしたら、悠一はまた怒るだろうか。ふと不安がよぎる。  しかし、すぐ思い直す。文句があるなら食べなければいい、自分で用意すればいいんだ。働いているからと偉そうにする悠一が間違っている。 それにカレーなら料理が苦手な自分でもルーがあるから美味しくつくれる。味付けに失敗して不味くなることはない。 理香子は玉ねぎを大雑把にくし切りにし、一口サイズに切った人参とジャガイモと共に鍋に放り込んだ。そこに適当に水を注いで火をかける。沸騰したら牛肉を入れて火を少し緩め、あとは野菜が柔らかくなるのを待つだけだ。  ソファに戻ってファッション誌を手にした。素敵な洋服に見とれていると、玄関が開く音がして悠一が無言でリビングに入ってきた。 「ただいま」  こちらに気付いて挨拶した悠一を、雑誌を手にしたまま横目で見た。ネクタイを緩める彼は疲れが滲んだ顔をしていたが、目には生気が宿っている。いつもは死んだような覇気のない目をしているのに。  不審に思ってじっと横顔を見詰めていると、視線に気付いた悠一が眉間に軽く皺を寄せた。 「なんだよ、理香子。オレの顔に何かついてるか?」 「べつに、なにもついていないわよ。それより、洗濯物はさっさと洗濯機に入れておいてよね。鞄はちゃんと自分で拭いてから押し入れにしまってよ」 「ハイハイ、わかってるって。ったく、帰ってくるなり小言ばっかりだな」  ぶつぶつ言いながら洗面所に向かう悠一の広い背中に向かって溜息を吐くと、悠一は足を止めてこちらを振り返った。 「なんだよ、その溜息。なんかあったのか?」 「べつに、なんにもないわよ!夕飯作ってて疲れちゃったのよ」 「ああ、そう」  投げやりに答えて部屋を出ていく悠一の横顔に違和感を覚えた。顔が少し焼けている。 車で出勤する夫は色白ではないものの、平均的な日本人の黄色い肌をしていたはずだ。それが帰ってきてからは健康的な少し焼けた肌をしている。 可笑しい。車で出かけたし、一日中講習会に参加していたのだから日焼けなどするはずがないのに。 忘れようとしていて、実際さっきまですっかり忘れていた「ゆき」という名前が脳裏で明滅する。やっぱり悠一は浮気しているのだろうか。 悠一が風呂場に入っていったことを確認すると、理香子は旅行鞄に入ったままの彼のスマホを手に取った。 ロック解除が面倒だと言ってスマホをロックしていなかったのに、いつの間にか彼のスマホには指紋認証がかかっていた。画面をスライドさせると、パターン入力の画面がでてきた。 まず、四角になぞってみるが開かない。今度はZになぞってみた。すると、あっけなくロック画面は解除された。 単純な悠一のことだ、どうせそんなことだろうと思っていた。 理香子はほくそ笑みながらラインのアプリをタップする。 悠一は人付き合いが嫌いで極端に友達が少ない。学生時代は一人で過ごすことが多かったそうだ。 彼が結婚式に親族以外で招待したのは、会社の上司と同僚が数名、あとは長年の友人の近藤功(こんどういさお)だけと片手で数えられる程度しかいなかった。 それなりに規模の大きい会社に通っているのに、式に呼んだ会社の人間があまりに少なくて驚いたくらいだ。 予想を裏切らず、ラインの友達もかなり少ない。妻である自分、式にも来ていた会社の同僚の喜多川亮太(きたがわりょうた)、近藤功、汐崎麗奈ぐらいしか登録がない。 いや、あと一人いる。問題の「ゆき」という人物だ。電話番号だけじゃなくて、やっぱりラインも交換していたのだ。 落ち着け、まだ浮気相手と決まったわけじゃないんだから。 震える指で、トークの上から二番目にきている「ゆき」に触れる。現れた文字をじっと目で追っていく。 旅行楽しみにしています。 その言葉が見えた時点でもう黒であることが決定した。走った後みたいに心臓が早くなり、息が上がる。あまりの動揺に頭の中がぐらぐらと回って、文字がうまく見えない。小刻みに震える指をスライドさせてトークを遡る。 悠一とゆきのトークは、近所の子猫が可愛いとか、昨日読んだ本が面白かったという、ゆきからのどうでもいい報告が多い。 それほど多くない文字での交流のなかには、肉体的な浮気を決定づけるものは一つもない。それでも食事や映画を約束するやり取りや、それに行ったあとのお礼のやり取りがいくつもある。 ゆきという平仮名でしかしらなかった名前が、由希という漢字の名前であることをはじめて知った。 二人きりのトークのなかにはオレや私という一人称はでてこないのに、由希、悠一さんと互いの名前はよくでてくる。 その中に何故か、由希から悠一に対して「先生」という呼びかけがたまに混じっているが、悠一はしがない商社の営業マンで先生と呼ばれるようなお偉い立場ではない。 どうして由希は悠一をたまに先生というのか。なにかのプレイの一環だったりして。破廉恥な想像にはらわたが煮えくり返りそうになった。 トークはそれほど多くはない、決定的な浮気の証拠もない。それなのに、このラインは肉体的な浮気をほのめかす以上に親密な空気が漂っていて、不快な気分が募った。 気分が悪くなって、理香子はラインを閉じてスマホを鞄に戻した。 それとほぼ同時に、風呂場のドアが開く音がしたので肝が冷えた。 慌てて立ち上がり、キッチンへ引き返す。カレーの具材はとっくに柔らかくなっている。急いでルーを放り込んで混ぜた。 混ぜながら、さっき見たものを思い出す。 浮気を疑っていなかったら、悠一の肌の色のわずかな変化など気付きもしなかっただろう。夫に関するありとあらゆる情報に敏感になった今だから、気付けた些細な変化。 紫外線除けの入った窓ガラスの車で出かけ、講習会で一日ホテルの会議室に缶詰めになっていたはずなのに日焼けした肌は、仕事と偽って彼が別の場所に行ったことの動かぬ証拠だ。 ラインからも彼が会社の講習会と偽って、この二日間に由希と泊りがけで出かけていたのは明らかだ。 それでも信じられないという思いが強くある。あの冴えない夫が、並み以上の美貌と抜群のスタイルを持つあたしを裏切って、浮気なんて。  相手は職場の人間だろうか。どうせ、冴えないブス女に違いない。並み以下の醜女と腕を組んで歩いている悠一を想像すると多少は溜飲が下がるが、とうてい許せない。浮気自体が悪だ。 十人並みの容姿の女なら結婚生活数年を経て、劣化と共に夫からの愛情が薄れて浮気されてもしょうがない。世間では男女の仲でなくなった夫婦はごまんといて、浮気などそこかしこで耳にする話だ。 だけど、よりによってこのあたしが浮気されるなんて。 悠一は安全パイだと思っていた、そこが一番の魅力だったのに。 とにかく、誰かに相談したくてしょうがない。真っ先に思い浮かんだのは幼い頃からの親友である愛弓だけど、理香子はすぐに彼女の姿を打ち消す。 あの子は駄目だ。自分よりも下のあの子に浮気されているのを知られるのは憤死に値する。せめて、自分より優れて知的な女友達に相談したい。もちろん、両親にも知られてはいけない。幼いころからあたしの頭を押さえつけ、可能性の芽を悉く摘んできたあの母親にはとくに。 理香子は知らず知らずのうちに奥歯を強く噛み締めていた。顎の疲れでそのことに気付き、息を吐いて脱力する。 目の前ではカレーがグツグツと煮詰まっている。 ぐちゃぐちゃにかき混ぜたせいで、ジャガイモが潰れて小さくなっていた。まずそうな出来栄えだけど、食べてしまえば味は普段通りのカレーだ。 ルーを使っているので、そんなに味の変化はない。  悠一がツンツンした黒い髪をわしわしと乱暴にタオル拭きながら、ダイニングの椅子に座る。 理香子は火を止めると、カレーをよそってダイニングに戻った。つとめて平然とした顔をする。浮気に気付いたことはまだ知られてはいけない。決定的な証拠を掴み、突き付けてやるまでは。  夕食を食べて珍しくすぐに皿を洗うと、理香子はお風呂場に向かった。 暑い日はシャワーで済ませてしまうことが多いが、ずっと洗っていなかった浴槽を洗って久しぶりに湯船に浸かる。湯船にはローズの香りの入浴剤を入れた。丹念に髪と体を洗い、紅に染まった湯に肩までつかる。  まるで血の色だ。若さのために処女の生き血の風呂に入ったという血の伯爵夫人エリザベート。 あたしも血を浴びれば若さを取り戻せるのだろうか。まだまだ若いつもりでいても、肌のハリは確実に二十歳の時よりも衰えている。皺だってでてきている。 若々しくなりたい。 理香子は紅い湯を両手ですくい顔や肩にかけた。 それから湯船の中で、重力に負けはじめている乳房や、脂肪がつきはじめた腹部、たるんできた二の腕を、湯を擦り込むようにマッサージした。 大丈夫、あたしはまだ若くて魅力的なはず。 風呂を出ると、リビングはすでに電気が消えていた。悠一は早々に寝室に向かったようだ。 まだ十時を過ぎたばかり、寝るには少し早いけど久しぶりに睦みあうにはちょうどいいかもしれない。化粧水と乳液をぬって、寝室に入った。  ダブルベットのすみっこ、窓から注ぐ淡い月の光を浴びて悠一は丸くなって寝ていた。そっと足音を忍ばせて悠一が眠るベッドに潜り込み、壁を向いている彼の背中に体をくっつける。悠一の広い肩がピクリと反応した。 悠一の耳に唇を寄せて、甘えたような声で囁く。 「ねえ、しようよ」  こうやって彼をセックスに誘うのは久しぶりだ。まだ結婚していない頃はデートの度に甘い声で悠一を誘ってホテルに入った。でも結婚して三カ月もすると急激に彼への愛情が萎んだ。 もともと、そんなに愛していたわけじゃない。ただ、結婚して仕事を辞めたくて、外見が合格ライン、稼ぎもそこそこ安定していて、酒や女や金のトラブルを起こさなさそうな相手をてっとりばやく選んだだけだ。 だから、セックスへの情熱はすぐになくなった。 テクニックも女の悦ばせ方も知らない体力馬鹿なだけの悠一に抱かれるより、玩具を使って自慰に耽った楽だし気持ちよかったので、二年前くらいからは彼に抱かれるのを頻繁に拒否するようになった。 子作りももう少し年を取ってからでいいと思っていたので、体を繋げる回数は激減した。彼に最後に抱かれたのはいつだっただろう。 半年前ぐらいだった気がする。 このあたしから誘ってあげたんだから、むしゃぶりついてくるに違いない。そう思っていたけど、現実は違っていた。 「悪い、疲れてるから」  悠一につれなく断られて、プライドがズタズタに傷付いた。このまま引き下がりたくないと、パジャマのボタンを外して悠一の肩を掴む。彼を仰向けにして、上に跨った。 「やってあげてるって言ってるのに、なによその態度!」 「明日、仕事あるから」 「だから何だって言うの?さっさと抱きなさいよ。あんただって本当はやりたいんでしょ」  白けた双眸がこちらを見上げた。無防備に晒された乳房を見ても、悠一は男の顔になりはしなかった。 いつものやる気がない表情のまま、気だるげに自分を見ている。 「悪い、眠い」  悠一は短く断ると、そっと理香子の体を自分の上から退けてまた壁に顔を向けた。そのまま身じろぎ一つせず、寝息を立て始める。  そうか、彼は昨夜あの由希という女とお楽しみだったのだ。だから何度も抱いた妻の体に欲情しないに違いない。  そんな馬鹿な、来年三十歳になるとはいえ、まだまだ女の魅力があるはず。胸はもともと大きな方だし、お尻もまだ垂れていない。腹に肉がついてきたのは認めるがまだくびれはあり、痩せてギスギスの若い子よりムチムチしてセクシーじゃないか。 悔しくて頭が可笑しくなりそうだ。理香子はベッドから出ると、乱暴に寝室のドアを閉めてリビングのソファに身を投げた。 部屋の電気をつけないまま、テレビのスイッチを入れる。 区切られた四角い世界の中では、恋愛ドラマがクライマックスシーンだった。興味がなくて見ていないドラマだったからあまり内容は知らない。 かっこいい若い男の俳優が、目が大きくて痩せた体のヒロインを雨の中抱きしめている。 「すべてを失っても、君には俺がいる。俺が一生君を守る」  ドラマの中でしか聞いたことのない甘い台詞を吐き、男がヒロインの唇を奪う。濃厚なキスシーンを見ているうちに、苛立ちと虚しさが募った。  あたしもあんな風にかっこいい男に情熱的に愛されたい。あたしにならその権利があった。それなのに、どうして冴えない男と結婚して、浮気までされているのだろう。  気分が悪くなってきた。理香子はテレビを消し、そのままソファに寝転がった。
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