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走入益世は今、白いワンボックス車の荷台の中にいる。荷台の隅に設置した小さな椅子に腰を下ろし、走入は部下たちの背中を見つめている。四人の部下のうち、ふたりが走入に背を向けて車窓に張りついている。ふたりは一眼レフカメラのシャッターを連続して切りまくっている。ワンボックス車は前の座席の部分を除いたすべての窓が濃いスモークフィルムで覆われている。それに運転席から後ろの部分は特別な仕切りで遮断されているから、外部から荷台の様子を伺い知ることは絶対に出来ない。
外界――県庁前の広場では市民集会が繰り広げられていた。知事の不正を糾弾する市民たちの集まりだ。知事の殿田三郎には公費の流用疑惑があった。そればかりか複数のクラブホステスとの二股不倫疑惑まで沸き上がり、市民の怒りは頂点に達しつつあった。
走入益世は四名の部下を率いて市民集会にいちいち出向き、集会デモに参加している市民たち全員の顔写真を撮影する。参加者すべての写真を撮り終えたら一般企業に偽装したアジトへ戻り、撮影したひとりひとりの身元を確認してすべてをファイルにまとめ上げる。ファイルしたすべての人物は顔とプロフィールをすべて記憶する。これを面識という。実働部隊――末端の公安警察官は、この面識の能力によってのみ評価されると言っても過言ではない。
ふたりの部下は無言でシャッターを切り続けている。他の部下ふたりは離れた場所に停めた別な車両から市民たちを撮影している。走入も一眼レフカメラを手に取り、窓ガラス越しに市民たちを四角いファインダーの中に収めた。
市民たちがシュプレヒコールの声を上げている。市民たちは警察署長の許可を得ていない。無許可のシュプレヒコールは違法だ。だが走入益世以下五人の公安警察官は無許可デモに割って入って中止命令を下すような真似はしない。ただ粛々と撮影をこなしてゆく。
「殿田三郎は直ちに知事を辞めろーっ!」
デモ参加者たちが気勢をあげる。ベビーカーを押した主婦と見られる若い女が迷惑そうに顔をしかめながら、集団の後方を通り掛かった。右手を振り上げたデモ集団の一部が人の波となって動き、ベビーカーを押し倒した。走入が見たところ、赤ん坊は無事のようである。倒れたベビーカーの脇で赤ん坊を抱き抱えた主婦が踞るそのすぐ脇で、ヒステリー化した市民たちが揃って右手を振り上げながら足踏みしている。
「女性が倒れてます。赤ちゃんを抱いたまま起き上がれずにいます」
部下のひとり、青井恵梨香が上擦った声をあげた。青井は二十八歳。巡査部長。公安警察官としては新入りのまだ一年目。新米。乳飲み子も同然。走入の部下の中で唯一の女性だ。青井は今、撮影の手を止めている。
「そんなもんにいちいち構うな。撮影作業を続けろ」
蜂谷が言った。巡査部長。公安警察官になって十年目。こちらは青井よりもほんの少しばかり年長だ。青井恵梨香が走入を見つめた。走入は言った。「作業を優先するんだ」青井は不服そうではあるが、それでも軽く頷いてから再び一眼レフカメラを構え、殿田知事辞任を叫ぶ市民たちをファインダーに収めてシャッターを押し続けた。
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