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 次に碓氷に会ったのはそれから五年後だった。オレはこの時にはすでに実家を勘当されて地元を離れていた。  兄貴が重い病気に罹って実家の呉服屋を継げなくなり、親父や祖父はオレに家を継がせようとした。弟も戦で死んでしまったからオレが断ればこの家は終わりだ。姉貴が婿を取るという手もあったが、親父たちはどうしてもオレに継がせたかったらしい。しかしオレはこの家を継ぐつもりで生きてきてはいないし、早く家を出て独り立ちしたいと思っていた。案の定親父は大激怒し、怒りのまま熱湯を浴びせてオレは顔の左半分に大火傷を負った。火傷が治らないうちに絶縁を言い渡され、オレはそのまま故郷を出た。  引っ越したこの街で碓氷に再会できたのは僥倖だった。  駅前の大通りですれ違った時、最初は碓氷だと気づかなかった。不意に腕を引かれて振り返ったら碓氷がいた。あの頃みたいに笑うのかと思ったが、何故か少し苦しそうに眉を寄せていた。 「直史、本当に直史なのか? ……どうしたんだ、その傷」  優しい手つきでゆっくり頬に触れられる。ひんやりしていて冷たく気持ちいい。勘当された経緯を話すと、碓氷はひどく哀しそうな顔をしながらオレの話を聞いた。 「もう痛くはないから大丈夫だ。家は多分姉貴がどうにかしてくれる」  オレはそれよりも碓氷の姿に驚いていた。短かった髪は肩まで伸びていて、相変わらず背は伸びているようだけどなんだか少しやつれて見えた。特に目を引いたのが首に巻かれた包帯だ。オレの火傷痕なんかより酷い。 「オレのことはどうでもいい。それより螢一郎お前……」  言いかけると、碓氷がわずかに身構えて振り返った。咄嗟にオレの腕を掴んで早足で歩き出す。訳のわからぬまま後ろを見遣ると、あの小説家の男がこちらに向かって歩いて来ていた。幸いにもオレたちに気付いた様子はなかった。 「おい、螢! その包帯、お前あの男に何かされてるんだろ!」 「違う、違うんだ! 先生は何もしていない。……ただ、お前には会わせたくないだけだ」  それが答えなんじゃないかと、じわりじわりと腹が立つ。あの作家の男にも、頑なに男を庇う碓氷にも。やはり碓氷はあの男の元に行くべきではなかった。オレのそばに置いておくべきだった。オレのものにしておくべきだった。  町外れの橋まで来るとようやく碓氷は手を離した。前を向いたままでこちらを見ようとしない。オレは手を伸ばして碓氷の首を掴む。包帯の上から、その下にある傷を触って確かめた。 「どうしてあいつを庇う? あいつにやられたんだろ、これは」 「……違う、先生は何も、何もしていない。悪いのは私なんだ」  声が揺れている。泣いているわけではなさそうだが、オレはもう頭の中が怒りで埋め尽くされて、それ以上何も考えられなくなった。  わずかに緩んだ包帯の隙間から指を潜らせて、まだ治っていない傷に触れた。それほど深くはないが、浅い傷ほど痛みを鋭く感じるものだ。わざと爪を立てて傷口を広げる。白い包帯に小さく赤い染みが浮かんだ。 「痛いかよ、螢一郎。それともまさか、こういうのが好きなのか?」  碓氷は何も答えない。わずかに肩が震えているが、じっと痛みに耐えている。長く伸びた黒髪を掴んで無理矢理振り向かせると、碓氷は苦しそうに眉を顰めて、おそらく痛みによる生理的な涙を浮かべていた。 「直史、やめてくれ、痛い……」 「痛いだろ。やめてほしいだろ? それをあいつにも言えよ。オレじゃなくてあいつに言え。どうしてあの男に従うんだ! あんな奴を庇ったところでお前に何の得がある?」 「……聞いて、聞いてくれ、直史」  碓氷はオレの手を振り払って肩を強く掴んだ。解けた包帯の隙間から痛々しい傷跡が見えて吐き気がした。オレは何をしてるのだろう。 「私はちゃんと終わらせるつもりなんだ。庇っているのではない……今はまだその時ではないというだけ。あの人にはしっかり裁きを受けてもらう。でも、まだなんだ。今じゃない」 「……今じゃないって、だったらいつなんだよ」  首を振る。 「まだ、わからない。でもその時が来たら、私が責任を持ってあの人に罰を与えるつもりだ。だからそれまでは私に騙されておいてくれないか。悪いのは私で、先生は何もしていない。お願いだからお前はあの人に関わらないで、私の傷なんて見なかったことにしてくれ」  碓氷の目は揺らぐことなくオレを貫いて、ただの言い逃れなんかではないというのは明白だった。隙を見てあいつを告発するつもりなのだろうということはわかった。オレの肩を掴んだままの手は力が強くなり、僅かに骨を軋ませた。 「お前にもう一度会えてよかった……もう少しだけ、あと少しだけ、待っていてくれ」  この時、碓氷は本当に泣いていた。オレに会えて嬉しくて? 初めて見る碓氷の涙の理由がオレであるという事実に優越感を覚えた。  オレは碓氷の手を取って、彼に抱きついた。オレにとっては兄であり、親友である碓氷の体は、思っていたよりも冷たくて驚いた。 「お前がそう言うなら、わかった……。だが、これだけは言っておく」  碓氷がオレに願ったのだ。相手が気持ち良くなることだけを望み、自分のことなどどうでもいいという碓氷が、自分の気持ちを優先してオレに願った。その願いをオレは無碍にしたくない。だが、オレにだって譲れないものがある。 「お前のためならなんでもする。なんでもだ」  その言葉に碓氷は笑った。今まで見てきた笑みとは違うような気がした。違ったらいいと、オレが思っただけかもしれないが。
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