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「だからオレは待っている……。待ってるだけなんて利口なことできてないけどな」  芦屋は新しい煙草を吸いながら曖昧に笑った。火災の喧騒から離れて、俺と芦屋は人のいない公園を歩いていた。下宿先に帰るにはこの公園を通るのが近道だ。落ちている枯れ枝を踏むとぱきりと乾いた音を立てて折れた。 「あいつがオレに待てと言ったんだ。できるだけ応えてやりたいさ。でも……ずっとあんなのを黙って見ていられるわけないだろ」  碓氷が包帯を取ったのを見たのはあの一度きりだ。毎晩折檻を受けているわけではないが、傷が治る前に新しい傷をつけられて、虐待は断続的に続いている。碓氷が言う「その時」は、一体いつ来るというのだ。 「あの男に罰をくれてやるのはもちろん碓氷が自分でやるのがいちばんいい。でも何かあってからじゃ遅いんだ。それなのにあいつはいつまで経っても……」  先月の碓氷と芦屋の会話を思い出す。碓氷は芦屋を愛しているからここにいると、そう言っていた。都合よく解釈すれば、あの男の元から離れないのは芦屋のためであるということだろう。そしてその後、こんなことをいつまで続けるのかと尋ねたらはぐらかされた。きっと終わらせるつもりがないのだろう。  あの男に罰を与えることは、芦屋のためにならない。そういうことになる。 「……何考えてんだ、あの人」  小さく呟いたが、芦屋には聞こえていたようだ。芦屋は煙草の煙を吐き出しながら俺に同意するかのように薄く嗤った。  下宿先の木造アパートが見えてきた。一階に大家の老夫婦が住んでおり、二階の一番右の部屋を俺と芦屋で折半して借りている。今にも腐り落ちそうな階段を上がると、老夫婦が飼っている黒猫が玄関の前で丸くなっていた。  ふと、扉の隙間に封筒が挟んであるのに気がついた。階下の郵便受けではなくここにあるということは、直接本人が届けたということだろう。宛名も差出人も書いておらず、封もされていなかった。 「誰からだ? なにか知ってるか?」  芦屋に訊くと首を振る。そういえば渡が俺に言伝があると言っていた。おそらくそれだろうと思って手紙を開くと、見慣れない殴り書きの字があった。  芦屋、乾へ  申し訳ないが、しばらくうちには来ないでほしい。あの夜から先生の怒りがおさまらず、最近は特にひどくなってしまってどうにも手がつけられない。この状態でお前たちと顔を合わせてしまったら、あの人は何をするかわからない。  芦屋、お前は特に先生に嫌われているから、絶対に近寄らないでくれ。  しばらくすれば鎮まると思うから、ほとぼりが冷めたころに私から訪ねるよ。  ではまた、あとで。  碓氷  手紙を芦屋に見せると、冷め切った目で一読した。舌打ちをしながらぐしゃりと握り潰し、屑籠に放り投げた。 「アンタ今なにを考えてる?」  俺は溜め息を吐きながら屑籠から手紙を拾い、皺を伸ばして広げる。芦屋は苛々した様子で煙草に火をつけた。 「……オレはどうすればいいんだ。何が正解なのかわからない。このままあいつの言う通りに大人しく待ってるだけじゃ駄目だ。本当はオレがあの男を殺してやりたい。でも碓氷の方があの男を憎いと思ってるに決まってる。あいつがケリをつけるのを、オレが邪魔するわけにはいかないんだ」  芦屋の話を聞きながら窓を開けると、微かに煙臭い空気が漂っていた。芦屋は苦虫を噛み潰したような顔で灰皿に灰を落とした。紫煙が昇り、蛍光灯に絡みつく。  芦屋直史は確かに碓氷の魔性によって狂わされている。この男が碓氷に抱いている感情は、もはや幼馴染の友人に向けるものではない。愛と呼んでいいのかもわからない歪んだ感情を抱いている。  先程渡は、このままだと碓氷は死んでしまうと言っていた。俺もそう思う。しかし俺は、それと同時に芦屋も死んでしまいそうだとも思った。碓氷の身に何かあれば、芦屋はきっと後を追うだろう。そして俺はひとり、残される。  それはつまらない。俺は俺のために二人と肩を並べたい。芦屋と碓氷がいなくなれば、俺はもう二度と自分のままで生きられない。 「……あの人はもういつ何があってもおかしくないよ。明日には殴り殺されてるかもしれないし、今この瞬間にも絞め殺されてるかもしれない。でも今はまだあの人は生きてる。アンタが下手に手出して、アンタのせいであの人が死ぬかもしれないんだったら、今は大人しくしてた方が上策だ」  芦屋にもわかっているのだろう。下手に手を出せば碓氷の身が危ない。芦屋は溜息と煙を吐き出した。 「くそ、わかったよ。お前の言う通りだ、乾。だが、待つのは一週間だけだ。一週間経ってもあいつが顔を出さなかったら、オレが直接あいつのところへ行く」  今は慎重に動いた方がいい。あの男の凶暴性がどれほどのものかわからないが、碓氷がわざわざ手紙を寄越してくるということは、相当危険な状態にあるということだろう。俺たちが大人しくしていれば、そのうち男の怒りも収まる。  碓氷が何を考えているのかはわからないが、碓氷はおそらく芦屋のためにあの男の元に留まっている。芦屋の手を汚させないためなのか、それとも他の理由があるのかもしれないが、そう簡単には碓氷はあの男の元から離れないだろう。碓氷が何かを企んでいるというのなら、俺はそれを邪魔しない。   ただ、完全に放っておくわけにはいかない。男が寝た深夜に様子を見に行くくらいならできるだろう。生きてるかどうかを見て、帰ってくるだけ。余計な面倒は起こしたくない。  窓から黒猫が部屋に入ってきた。芦屋は煙草の火を消して猫を愛らしそうに撫でた。猫は喉を鳴らして、心地よさそうに芦屋の膝の上で丸くなった。
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