幕間 「愛を渡る」

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幕間 「愛を渡る」

 乾を最初に見たのは大学に入ってから最初の実習授業だった。彼を一目見て、僕は彼と友達になりたいと思った。この世の何もかもを見下すような目をしていた彼のことを面白いと思ったのだ。声を掛けてみると乾は鋭い目つきで僕を睨んだが、正直に友人になりたいと言ったら、彼は僕を変な奴だと言って笑った。僕は乾と友人になった。  乾は本当に面白いやつだった。世の中の全てを斜に見ているくせに外面だけはよくて、教師からの評判はとても良かった。彼の周りには僕の他にも何人かいたけれど、彼の本当の性格を知っていたのはおそらく僕だけだっただろう。  乾は自分こそが一番で、他のことは全てどうでもいいと思って生きている。本人はその考えを隠しているようだが、僕にはお見通しだった。  しかし、ある日を境に、乾は少しずつ様子が変わっていった。いつも上の空で何かを考えているようで、僕と遊ぶことも少なくなった。そして何より一番変わったのは、あの見下すような目をしなくなったことだ。以前と比べて、乾は機嫌がいい時が多くなった。 「乾、最近何かいいことでもあったのかい」  それとなく探りを入れてみるが、 「別に、何もないけど」  返ってくる言葉は素っ気なかった。明らかに嘘であるというのはわかったが、僕はそれ以上彼のプライベートな部分にまで踏み込んでいいものかと躊躇した。友人と言えど節度は弁えるべきだ。僕は彼の深いところに潜り込めるほど器用ではなかった。    それからしばらくして、夜の繁華街で乾の姿を見かけた。随分酒を飲んだようで、ふらふらと足元が覚束ない。そんな彼の肩を支えていたのは、二人の知らない男たちだった。 「……んん? 渡か。珍しいなあ、こんなとこで」  乾は上機嫌で頬が赤らんでいて、滅多に見せることのない満面の笑みを浮かべて楽しそうにしていた。彼は下戸だからここまで呑み潰れるまで飲むはずないのにと、隣の男たちを訝しんだ。 「ちょうど良かった、あんた乾の友人か? オレは芦屋で、こっちが碓氷」  軽薄そうな男はその印象とは裏腹に礼儀正しく会釈をして、黒髪の男も柔和な笑みを浮かべて挨拶をしてくれた。 「碓氷だ。初めまして」  碓氷を見た瞬間、背筋がぞくりと粟立った。美しい男だが、何か得体の知れないものを腹の中に飼っている、そんな気配がした。礼儀正しく誠実そうな男だというのは雰囲気で感じ取れたが、どうしてかこの男に気を許すべきではないと本能で感じた。 「渡、だったか? 悪いがこいつを連れ帰ってくれないか。酒弱いくせにこんなになるまで飲んじまって、もう先に帰れって言っても聞かなくてな。せっかく碓氷がいるんだから、もうちょっと上手く飲めばいいのになあ」  すると乾は芦屋を睨め上げ、 「ふざけんな、俺も連れて行け! まだ飲めるっての」  と声を荒げた。  酔っているとはいえ乾のこんな姿を見るのは初めてで、驚くと同時にこの男たちは一体何者なのだという疑問が湧いた。乾とどういう関係なのか、どうして乾がここまで心を許しているのか。ただ、乾の様子が変わったのは彼らが原因だというのは明らかだった。 「お前そんなベロベロに酔ってるくせに、これ以上飲ませられるかよ」 「また会いにくるから、今日はもう帰ったほうがいい」  芦屋と碓氷は乾を宥めるようにそう言って、僕に乾を預けた。 「渡くん、だったね。悪いけど、乾をよろしく頼むよ」  ふらついている乾の肩を抱くと、二人は僕に礼を述べて歩いて行ってしまった。  置き去りにされてしまった乾は僕の肩に頭を預けて少しの間黙っていたが、ややあって溜息をついた。 「離せ。いいよ、渡。自分で歩けるから、アンタは帰って」  乾は強引に僕の手を振り払うと、ふらふらと歩き出した。僕は慌てて後を追いかけた。 「着いてくるなよ」 「ねえ、さっきの人たち本当に君の友人なのかい? 結構歳が離れているように見えたけど、どこで知り合ったんだ?」 「アンタには関係ないだろ。あの人たちのことは忘れろ」  ジロリと睨まれて、その威圧感に口を噤んでしまう。彼とは仲良くなれていたと思ったが、僕の片思いだったのだろうか。彼との間に冷たい壁を感じるが、このまま引き下がるのは嫌だった。このまま彼を放っておけば、もう二度と彼と話せないような気がした。あの二人に、乾が取られてしまうと思った。僕は彼と友人になりたくて、彼に声をかけた。僕は彼の『特別』になりたかった。 「送っていくよ、乾。最近は物騒な事件も多いし、こんな状態のままの君を一人にさせるわけにはいかないよ」 「アンタも俺をガキ扱いするつもりか? もうほっといてくれよ」 「何言ってるんだ。僕は君の友達だよ。友達だから心配なんだ」  乾は僕をじっと見つめて、ふいと目を逸らした。 「勝手にしろ」  しっかりした足取りで踵を返す乾の半歩後ろを着いていく。後ろから見える彼の耳は、酒のせいで少し朱に染まっていた。    乾の様子が変わってしまったのは、明らかにあの二人と関わったことが原因だ。あの二人の影響を受けて、乾は性格が変わってしまったように見える。乾は二人に心酔していて、二人と肩を並べようとして必死になっているように見える。本来の彼はこんなじゃなかった。乾は自分の世界をしっかり持っていて、他の誰にも彼の世界は穢せない。それなのに、あの二人と出会ったせいで、彼の世界が壊れてしまったみたいだ。  僕は乾があの二人と遊ぶのが嫌だった。優しそうな人たちだとは思ったけど、どこか危ない雰囲気があった。僕とは生きている世界が違うような、そんな気がした。特に、碓氷というあの男。あの人は特に油断ならない。きっといい人だっていうのはわかっている。でも、あの人の目は少し恐ろしかった。 その後碓氷と再び会ったのは季節が二つ巡った後だった。芦屋は乾の下宿先に住んでいるらしく、一緒に遊んでいる姿を何度も見かけたが、碓氷が一緒にいるところはあれから一度も見なかった。  大学の教授から乾宛てに伝言を預かり、彼の家に向かっている途中だった。どこか不機嫌そうな芦屋と、彼に腕を引かれて歩いている碓氷を見かけた。彼らなら乾がどこにいるか知っているだろうと思ったが、自分から彼らに声を掛けるのは少し躊躇われた。僕はそのまま通り過ぎようとしたが、碓氷が僕に気づいて立ち止まった。 「ああ、君……ええと、渡くん。久しぶりだね」 「あ?」  碓氷は僕を見て優しく微笑んだ。その声に立ち止まった芦屋は僕をきつく睨んだ。 「すまない、芦屋。先に帰ってくれないか。渡くんと少し話をしたいんだ」 「はあ? 何だよ、後にしろよ」  こんなに不機嫌な芦屋は初めて見た。いつも愛想よく僕に接してくれていたが、今は嫌悪感を隠そうともせず僕を睨んでいる。 「すぐ終わらせるよ。また後でな、芦屋」  碓氷は有無を言わせず、芦屋の背中を押して手を振った。芦屋は納得していないようだったが、舌打ちをして踵を返した。あっという間に人混みに紛れて消えていく。芦屋の姿が見えなくなってから、恐る恐る碓氷に話しかけた。 「あの、話って何ですか? 僕は乾に用があって……」  碓氷はにこりと笑った。綺麗な笑顔だけど、僕としては少し恐ろしい。 「君ならおそらくわかるだろうと思って……。君は乾の友人なんだろう? 君にしっかり見ていてほしくてね」  僕は乾の友人なのだろうか。友人なんて親密な関係ではない。せいぜい少し仲の良い知り合い程度、なのではないだろうか。芦屋と碓氷に対する乾の態度を見ていると不安になる。 「乾は……多分僕のことを友人とは思っていないと思いますよ。僕は彼の友人になりたかったけど、乾の友人は貴方たち二人の方だ。僕は……貴方たちが羨ましいです」 「そんなことはない。乾の友人は君だけだよ」  碓氷は深い瞳で僕を見た。吸い込まれそうな怖い目をしている。 「私は乾に嫌われているから」 「……え?」  驚いて見上げる。乾はあれほど二人に心酔しているのに、嫌われているだって? 「何言ってるんです、乾が貴方のことを嫌っているだなんて……。そんなことありませんよ」  碓氷は笑った。どんな感情をその瞳に宿しているのか、何もわからない。全てをわかった上で敢えて言っているのか、それとも本当に気付いていないのか。碓氷の考えがわからない。 「でもこれで正解なんだ。私は自分じゃどうにもできないから、向こうから拒絶してくれないとどうしようもないんだ」 「何のことですか?」  碓氷がじっと僕の目を見た。深い深い海の底みたいな色をしている。落ちてしまいそうだ、と思った時、僕はようやく彼の微笑みの不気味さの正体がわかった。 「わかっているんだろう? 君は私と同じ質だよ」
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