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 夜が更けるのを待ってから、俺と芦屋は碓氷の下宿先の庭に忍び込んだ。碓氷の主人は無名の作家ではあるが立派な家を持ち、碓氷は一階の日の当たらない部屋を自室に貰っている。  カーテンが閉まっていて中を見ることはできないが、わずかに漏れ聞こえてくる音からこの部屋で何が行われているかは察せられる。どうしてこんな胸糞悪いものを盗み聞きしなきゃならないんだ。芦屋はじっと俯いたまま微動だにしない。部屋から聞こえてくる声をひとつも聞き漏らさないように、拳を堅く握りしめて立っている。  碓氷は、雇い主の男に虐待を受けているのだ。気に入らないことがあればすぐに殴られ、蹴られ、傷をつけられる。碓氷はいつも体中傷だらけにしてただ耐えている。先程言っていた「用事」というのは、これのことだったのだ。  不意に、大きな怒鳴り声が聞こえた。碓氷の声ではない。 「誰だ、誰がこれをやった? あいつか、またあのクソ餓鬼が! 俺のものに手を出しやがって!」  碓氷を雇っている作家の男だ。ひどく激昂している。彼に答える碓氷の言葉は聞こえてこない。ただ黙って、主人の罵声を浴びているようだ。 「お前もお前だ、碓氷! お前を拾ってやったのは誰だ? お前を生かしてやってるのは誰だ。お前は誰のものなのか忘れたとは言わせねえぞ!」  反吐が出る。耳を塞ぎたくなる。  碓氷は十五の時に家族を亡くしてからこの男に拾われた。碓氷は男に恩義がある。男はそれを盾に取って従わせているのだ。  男は碓氷を自分の所有物だと思っている。自分のものに知らない傷がついていれば、当然激怒するに決まっている。芦屋もそれを予想できなかったなんてことはない。こうなると分かっていて、碓氷に噛み付いた。何がしたいんだ。 「……クソッ」  芦屋は顔を歪めて俯いた。部屋の中では暴行が行われ続けている。俺はここから去ることもできず、かと言って男の虐待を通報しようというつもりもなく、碓氷が殴られているのをただ呆然と聞いていることしかできなかった。  どれくらい時間が経っただろう。気がつくと部屋の中からの声は聞こえなくなっていた。徐に窓が開いて、傷だらけの首元を晒したままの碓氷が顔を覗かせた。顔だけは相変わらず傷ひとつなくて、碓氷は綺麗な顔に笑みを浮かべた。 「遊びに行くんじゃなかったのか? 二人ともそんなに顔を真っ赤にして……寒かったろう?」  碓氷は両手を伸ばして芦屋の頬に触れた。 「触んな!」  芦屋は乱暴にその手を払い除ける。狼みたいに鋭い目付きで碓氷を睨んだ。 「そんな顔をするな、芦屋。私は大丈夫だから、心配しなくていい」 「お前がずっとそんな態度ばっか取りやがるから! いつまでこれを繰り返すつもりなんだ……クソ! お前がただ一言『助けて』と言えば、あいつを殺してやるのに!」  その言葉で気がついた。なぜ芦屋は碓氷に傷をつけたのか。激昂した男の手から、碓氷を守ってやれる正当な理由ができるのだ。碓氷が助けを求めれば、芦屋は手を出すことができる。芦屋はあの男を殺し、碓氷が逃げ出せる状況を作ろうとしたのだ。 「ふふ、今日ばかりは危なかったな。これのおかげで酷い目に遭った」  碓氷は冗談めかして笑いながら、長い髪を掻き上げて頸を見せた。その仕草が妙に艶かしくて俺は目を逸らす。 「でも私はまだ大丈夫だよ。芦屋、気持ちは嬉しいが、私のためにそこまでしてくれなくていいんだ。こんな寒い夜に何時間も外にいて、風邪でも引いたらどうするんだ。私のことはいいから、自分を大事にしてくれ」  珍しく、碓氷の横顔に憂いが現れる。芦屋を気遣う言葉は本当に心の底から出たもののようだ。振り払われた手を再び伸ばしたと思ったら、芦屋の胸ぐらを掴んで引き寄せた。鼻先が触れるほど顔を近づけ、碓氷は凛とした声で言う。 「私を信じてくれ、芦屋。私はお前を愛している。だからまだここにいるんだ」  芦屋が今どんな顔をしているか俺からは見えない。冷めた目をしているのか、力強く碓氷を見つめ返しているのか。芦屋はしばらく黙っていた。 「……意味わかんねえよ」  小さく呟いた。その言葉を聞いて、碓氷は穏やかに目を細めた。 「わからなくていいさ」  俺は碓氷のことも芦屋のこともよくわからない。この二人がどんな関係で、どんな感情を抱えあっているのか、俺には踏み込める余地がない。お互いに愛していると言うが、本当に二人が言う愛が同じなのか、俺には愛がわからないからどうにも判断できない。 「さあ、今日はもう帰れ、二人とも。先生に見つかったら今度こそ殺されてしまうかもな」  笑えない。俺は溜息を吐き、芦屋は舌打ちをして踵を返した。碓氷は小さく手を振ってそれを見送る。俺は芦屋の姿が見えなくなるのを待ってから、碓氷に話しかけた。 「アンタさ、いつまで続けるの。可哀想じゃないのかよ」 「……可哀想?」  碓氷は変わらぬ笑みを浮かべて聞き返す。表情が読めない。 「あんな間抜けな男、その気になればいつでも殺せるだろ。芦屋が手出ししなくとも、アンタはあの男を殺せる。それなのにいつまで経っても愚図愚図して、芦屋を弄んでる。違うか?」 「ああ、そうかもしれないな」  何が可笑しくて笑っている? この男は、何もかもを愉しんでいるように見える。芦屋が自分の挙動に振り回されているのを、俺が軽蔑の目を向けているのを、あの作家が自分を犯すのを、すべて愉しそうに見ている。  その笑みでこれまで一体どれだけの人間を弄んできたのだろう。自覚があるのかないのかわからないが、この人は他の人間にはない質を持っている。魔性とでも呼ぶべきそれのせいで、今までに何人の人間を狂わせたのだろう。 「すまないな、乾。芦屋のこと、お前がしっかり見ていてくれないか。あいつにはちゃんとした友人が必要だからな」  クソ、苛々する。自分が何を言ったのかわかっているのか。それを言われた俺がどんな反応をするのか想像できないというのか。いやきっとこの男は、すべてわかった上で言ったのだ。あの笑みを浮かべながら!  これ以上彼と話していると気が狂いそうだ。俺は何も言わずに背を向けた。 「またな、乾。今日はありがとう」  無視して足早に庭を出る。碓氷は最後まで笑顔を浮かべていた。
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