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 今日の俺は浮かれていた。教授に治験を頼まれたので協力し、ついでに研究室の掃除を手伝って、報酬として臨時収入を得たのだ。何のためなのかわからない怪しい実験だったが、貧乏苦学生にとっては有り難い話だ。  俺は浮ついた気分のまま裏通りの薬屋に立ち寄った。いつもは店主の婆さんがひとりで経営しているのだが、体でも壊したのか最近になって若い男に変わった。婆さんの孫と思われるその男はいつもつまらなそうに欠伸して、自分が何を売っているのか興味がないと見える。俺は安心して店で薬を買い、コートの内側に見えないように仕舞い込んだ。  俺は浮かれていた。だからすれ違った男に気がつかなかったのだ。 「乾、偶然だな」  振り返ると新聞屋の軒先に碓氷がいた。隣には知らない男。あの小説家ではない、狐顔の胡散臭そうな男。 「そんじゃ、ワタシはここらで。先生にもよろしゅう伝えといてくださいね」  二人とも長い間外にいたのだろうか、耳や頬が赤くなっている。別れを告げる男に、碓氷は深々と丁寧にお辞儀をして、小さく手を振った。 「ええ、こちらこそ。今後ともよろしくお願いします」  男は俺を一瞥して首だけで会釈し、身を翻して歩いていった。男の姿が見えなくなったところで問いかける。 「……誰?」 「今度先生の小説が新聞で連載されるんだ。今のはその新聞社の編集の方」 「ふーん」  なんとなく厭な感じの男だった。軽薄そうな態度だとか、違和感のある訛り口調だとか、どこか信用ならない気配を感じた。と言っても、もう二度と会うことはないだろう。不審な男のことはさっさと頭の片隅に追いやった。 「えらく機嫌がいいな。何かいいことでもあったのか?」  碓氷は俺の後をついてきて隣に並んだ。浮かれていたのを見られて、恥ずかしいというより少し腹立たしさを覚えたのはなぜだろう。 「……なんもねえよ」  俺が薬を買っていることは芦屋も碓氷も知っているが、なんとなくバツが悪くて素っ気なく言葉を返した。どうせ碓氷には見透かされているのだろう、彼はそれ以上詮索してこなかった。 「ちょうどよかったよ。これからお前たちのところへ行こうと思っていたんだ」 「何の用だよ。芦屋なら今日は帰ってこねーよ」 「ん、そうなのか。先月の埋め合わせをしようと思ったんだが。せっかく誘ってくれたのに無下にしてしまったから」  碓氷は小さな紙袋を抱えていた。袋に印字されているのは駅前の和菓子屋のマークだ。俺がそれを見ているのに気づくと、碓氷は嬉しそうに笑った。 「お礼と詫びも兼ねてな。芦屋は甘いものがあまり好きではないけど、これはお前に。好きだろう?」  そう微笑まれてカッと頭に血が上る。どうして誰にも話したことはないのに、俺の好物を知っているんだ。  俺はこの人について何も知らないのに、碓氷は俺を知っている。  悪いのは俺だ。踏み込めないで知ろうともせず躊躇している俺が悪い。それなのに無性に腹が立つ。この人の優しさが、もしかしたら罠なのではないかと思うのだ。その優しさに惹かれた愚かな人間を、嘲るように堕とそうとしているのではないかと。  碓氷の持つ魔力は、甘く苦く、ひとを魅了する。 「……本当にむかつく、アンタ。何が礼だ、俺はあの夜アンタが殴られてるのを聞いてただけだ。何もしてない。殺されるかもしれないのを黙って見てたんだぞ。馬鹿じゃないのか」 「でもお前たちはずっと居てくれただろう? 見て見ぬ振りもできたのに、あの夜ずっと私を見ていてくれた。その優しさが嬉しかったんだ」  この人はきっと何も悪くない。わかっているのに、俺は苛立ちを抑えきれない。なぜこんな気持ちになるのだろう。俺はこんな風に他人に左右される人間じゃなかった。きっと俺もこの人に狂わされているんだ。どうしたらこの気持ちを鎮められる。どうしたら俺はこの罠から抜け出せる。  そこでふと思い出す。ああ、薬があるじゃないか。 「乾?」  碓氷は突然立ち止まった俺を心配して顔を覗き込む。艶やかな黒髪がさらりと肩から流れるのを強く掴んで引き寄せた。俺を狂わせた悪人に、復讐してやろうと思った。  髪を掴んだまま人目につかないような路地裏に連れ込んだ。抵抗しない碓氷を壁に押しつけて、俺は今しがた買ったばかりの薬を出して封を切る。 「いぬ、い、待ってくれ」  俺が何をしようとしたのかわかったのだろう。碓氷はようやく制止の言葉を口にした。しかしもう遅い。 「優しいだって? ふざけてんのか」  悪いのは俺だ。俺は屑だ。もう二度と俺にその笑みを向けるな。俺を狂わそうとするな!  小瓶から錠剤を摘み出し、唇に挟んだ。そのまま碓氷の唇に押しつける。二人分の熱で薬が溶けて、舌の上に苦味が広がっていく。この苦さが気持ちいい、堪らない。  碓氷はその苦味に顔を顰めているが、拒絶はしなかった。 「は、これでわかったかよ。俺はアンタを心底軽蔑してるんだ。アンタも俺を軽蔑しろ!」  たった一錠で酔えるはずがない。それなのにひどい酩酊感に襲われてクラクラする。きっと薬で酔っているのではないのだ。  碓氷はほんの少しだけ眉を顰めて唇を舐めた。そして俺の瞳を真っ直ぐに見る。やめろ、見るな。どうせまた笑うんだろう。何事もなかったかのような顔をして、笑って俺を赦すんだろう! 見たくない。碓氷の腕を掴んだまま、俯いて歯を食い縛る。 「苦いな。いつもしあわせそうな顔をしているからどんなものかと思っていたけど、こんな味だったのか」  碓氷の口から紡がれる言葉は期待外れだ。俺を嫌え、罵ってくれ。最低な人間だと蔑んでくれ。 「乾」  碓氷は笑って俺の名前を呼んだ。ただそれだけだ。  それなのに、その顔を見た瞬間頭が真っ白になった。 「俺は……っ!」  俺はこの人の本当の顔が見たいだけなのだ。無理矢理貼り付けた笑顔をぐちゃぐちゃに引き剥がして、ただの人間であることを明らかにしたいのだ。優しさなんていらない。俺を堕とそうとする笑みはいらない。本当の顔を見せろ。  無意識のうちに拳を振り上げていた。傷一つない綺麗なこの顔に、俺が一番最初に傷をつけてやろうと思った。あの男が顔だけは大事にしているというなら、俺が台無しにしてやる。そして今度こそ殺されればいい。  碓氷は一瞬怯えた表情を見せたが、抵抗はしない。黙って目を瞑り、少し傾いで頬を差し出した。 「クソ!」  理解できない。なぜ俺がこんなことするのかわかっているくせに。どうして受け入れる。俺はただ拒絶してほしいだけだ。悔しさに喉が締まって泣きたくなる。
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