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 眩しくて目が覚めた。地獄にでも堕ちたかと思ったが、視界に広がったのは見覚えのない天井と瀟洒なシャンデリアだった。ここはどこだ。肌触りのいいシルクの毛布に包まれながら、俺は記憶を手繰り寄せる。  残念ながら、眠る前の記憶は鮮明に残っていた。綺麗さっぱり忘れられたらよかったのに、激しい頭痛と共にしっかり覚えている。  視線を彷徨わせると、俺の寝ている寝台に腰掛けて分厚い本を読んでいる男の姿があった。シンプルな装丁の本は表紙を見るにおそらく聖書で、俺の知り合いにそんなのを読むやつは一人しか思い当たらない。男は俺と同じ黒の制服を身に纏い、一番上の釦までしっかり留めている。溌溂とした大きな瞳がこちらを向いた。 「……渡」  彼は大学の同級生で、それなりに親しい友人だ。ここは客間ではなく彼の自室だろう。机の上に俺が大学で使っているのと同じ教科書が開きっぱなしで置いてある。本棚には医学書や英語の本が几帳面に並んでいる。生活感に溢れていながらもそれらの調度品は豪華な螺鈿が施されていて、俺はどうにも落ち着かなかった。 「ああ、よかった。目が覚めたんだね。具合はどう?」  言いながら傍らに本を置き、腕を伸ばして俺の額に触れる。意外にもひんやりとしていて気持ちがよかった。冷え性なのだろうか、暖房の効いた室内で渡の手は氷のように冷たい。 「なんでお前が」 「教授から君に言伝を預かってね。治験の件で伝え忘れていたことがあるって。それで君の下宿を訪ねたんだけど、誰もいなかった。諦めて帰ろうとしたところに、偶然君を見つけた」  偶然で見つかるような場所にいた覚えはないが、嘘をつくなと詰め寄ったところで、それを責めるつもりはない。嘘なんかどうでもいい。問題は、あの有様を見られたことだ。 「一体どうしたのさ。あんなところで倒れてて本当に驚いたよ。あと少し見つけるのが遅かったら死んでいたかもしれない。手荒だと思ったけど無理矢理吐かせたよ、ごめんね。その首の痕もひどいし……何があったの?」 「首?」  渡は部屋の隅に置かれていた鏡台を指さした。ズキズキと痛む頭を抑えながら鏡の前に立つと、思わず眉を顰めた。 「もしかして、何か事件に巻き込まれた、なんてことはないよね? 通り魔とか放火とか、最近物騒な事件多いし……どっちもまだ犯人は捕まってないって聞くけど、まさか」  勝手に一人で盛り上がる渡に首を振る。言いながら彼も本気でそう思っているわけではなく、俺の身に何が起きたのかを知っている様子だった。物寂しそうに目を伏せ、柔らかな声音で言う。 「……ねえ、乾。僕は君が大事だから、君には幸せになってほしいんだよ。あの人たちと会うことで君が傷つくなら、僕はあの二人を許せない」  渡は芦屋と碓氷のことを知っている。とは言っても何度か会ったことがある程度なのだが、渡は俺があの二人と連むのを快く思っていない。俺と渡はただの学友で、それ以上でもそれ以下でもない。誰と居ようが、どこで死にかけていようが、どうでもいいだろう。 「お前には関係ないだろ」  どうしてみんな俺の邪魔ばかりする。俺の人生なんだ、俺の好きに生きて何が悪い。俺の生き方に他人が口出しする権利などない。  睨みつけると渡は少しだけ怯んだが、それで引くような男ではなかった。 「関係なくないよ。友人が傷つくのを黙って見ていろとでも言うのかい。僕にはできない。僕は君が大事だ。もちろんあの二人のことも嫌いではないんだよ。でも、君があの二人のせいで傷ついているのなら許せない」  あの夜、俺は碓氷が殴られているのを黙って見ていた。それしかできなかった。助けたいとか許せないとか、そんな感情はどこかに忘れ去られて、無力なまま突っ立っていた。そんな俺に向かって当てつけのように、渡はご立派な正義心で相対してくる。ふざけるなよ、何だっていうんだ。どうして俺が惨めな気持ちにならなければならない。 「クソ、もうそれ以上喋んな! 殺すぞ」  渡の胸ぐらを掴んで怒鳴った。怒りに支配された頭の片隅で、冷静な自分が自分を見て嘲笑っている。愚かだと思いながら、俺は愚行を止めることができない。 「……乾、ねえ、お願いだから。自分を一番にしてよ。他の誰でもない君が、この世界で一番なんだから」  渡の綺麗な目が真っ直ぐに俺を見て、その正しい眼差しが俺を貫く。憐れみも侮蔑もない。むしろ俺を罵ってくれる方がよかったのに、渡は俺の持つたったひとつの支えを肯定した。  俺は、俺自身がこの世界で一番なんだと思い込まなきゃ生きていけない。  そうやって生きてきたのに、あの二人に会ったせいで俺の人生は狂った。 「お前に何がわかる!」  しかし、これは俺だけの問題。何も知らないくせに、他人に口出しされるのは許せない。芦屋と友達になったのも、かつて碓氷に惚れたのも、全部俺が自分の意思で選んだこと。俺自身が否定されたようで腹立たしい。  渡の胸ぐらを掴んだまま強引に寝台に押し倒す。どうして俺はこんなことをしているんだろうと思いながら、机の上にあった鋏に手を伸ばした。 「知ったような口を利くな! 何なんだよ、お前……っ!」  喉が焼けそうになりながら叫ぶ。鋏の切っ先を渡の首に向けた。  俺も芦屋もあの作家も、結局は同じ側の人間なのだ。いくら軽蔑したところで俺も同じ醜い生き物。直情的に怒りをぶつけるしか能がない。 「い、いぬい……」  渡は少しだけ驚いて目を瞠ったが、抵抗はしなかった。それどころか、腕を伸ばして抱きしめてくる。 「いいよ……、乾」  ぶわりと鳥肌が立つ。似ている、こいつは碓氷と似ている。あの人ほどではないが、こいつの笑みには魔力がある。殺されかけているのに、笑ってそれを赦し、受け入れる。俺をさらに破滅させようと、笑っている。 「黙れ!」  鋏を押し当てる力を強くしても、渡はひとつも抵抗しない。刃先が皮膚に沈み、血が滲む。  渡は嬉しそうに笑って、俺に殺されたがっているようにさえ見えた。  それならば、その願いを叶えてやる。  ぐっと力を込め、渡の顔が痛みで歪む。これ以上先へ行ったら戻れない。そう思った時、部屋の扉をノックする音が響いた。 「宗甫様、お食事の用意ができました。ご友人の具合はいかがですか?」  鈴の鳴るような若い女の声だ。ようやく俺は我に帰って手を離した。渡の首から血が流れ、真っ白なシーツを赤く染める。 「宗甫様?」  侍女が訝しそうに再度扉を叩く。渡は首を押さえながらよろよろと立ち上がった。扉を細く開けて女の声に応える。 「すみません。まだ目を覚さないので、後で僕が取りに行きますね」 「し、失礼しました。煩かったですよね、申し訳ありません!」  女は慌てて何度も頭を下げて、早々にその場を立ち去った。渡の首元には気づかなかったらしい。ヒールの鳴る音が聞こえなくなると、渡は振り返って俺を見た。 「乾」  やめろ、見るな! お前もあの人のように笑って俺を赦すんだろう!  「君の生きてきた全部が正しいし、これからもずっと君が一番正しいよ。君がしたいようにするのがいい。……でも僕は最低なやつだから、君のしたいことを否定してしまう。君に生きていてほしい。自分を大切にしてほしい。だからあの二人とは関わらないでほしい。僕の我儘なんだ、これは。全部僕のために、君には無事で生きていてほしいと思う。ごめんね、僕はそういうやつなんだよ」  流れる血を押さえることもせず、渡はゆっくり近づいてくる。鋏を持ったまま呆然としている俺の手を取り、切っ先を自分の胸に押し当てた。 「もう二度と、死のうとなんてしないでくれよ、乾……」  どうしてあんたが泣くんだ。泣きたいのは俺の方だというのに。  ただ、渡は笑わなかった。それだけが救いだ。ゆっくりと心が凪いでいくのを感じ、渡の手を振り払って鋏を床に投げ捨てた。  清らかで正しいこの男が、こんな俺の隣に並びたがるのが不思議で堪らない。自分の為だなどと宣うが、俺を赦すのがこいつにとって何のメリットがあるのだろう。  手を伸ばして首元の傷に触れる。幸いにも傷は思ったよりも深くない。傷跡は残らないだろう。  渡はクローゼットから救急箱を取り出して、手際よく止血した。清潔な布を傷口に当て、その上から包帯を巻く。その姿があの人と重なって少しだけ胸が疼いた。  用意されていた食事を渡が持ってきて、二人で食べた。雑炊はすっかり冷めてしまっていたがなかなかに美味かった。 「あのさ、これを言うと君はまた怒るかもしれないんだけど……」 「あ?」  食事を終え、これ以上長居するわけにはいかないと身支度を整えた。綺麗に畳まれていたコートの内ポケットに、例の薬が入ったままでいるのを確かめる。渡は言い出しづらそうに口籠もり、うろうろと視線を彷徨わせる。 「何だよ」  先を促すと渡は逡巡する素振りを見せたが、ややあって口を開いた。いつもは真っ直ぐ目を見て話すくせに、この時だけは俯いていた。 「僕はね、碓氷さんの気持ちが少しわかるよ。僕とあの人は似てるから」  そんなのわかってる。散々痛い目を見たばかりだ。 「でも、同じじゃない。似てるけど違う」  渡の首元の包帯は真っ白で緩みもなくきっちり巻かれている。碓氷の包帯は使い古されていて簡単に解かれるほど雑に巻かれていたのを思い出す。 「僕が大事なのは僕だけ。僕のしてることは全部僕のためなんだ。でもあの人は、自分以外の全てが大事なんだと思う。みんなに喜んでほしい、相手の望むことを最優先にしたい、それを叶えるためなら自分のことはどうでもいい……そういうつもりで生きてるんだよ」  昨日の碓氷の顔を思い出す。頭に血が上って彼を殴ろうとしたとき、碓氷は怯えながらも従順にその身を差し出した。大人しく暴力を受け入れれば、俺が喜ぶと思ったのだろうか。あの人の顔をぐちゃぐちゃにしてやりたいという汚らしい願望を、碓氷は受け入れて叶えようとしたのか。 「このままだとあの人どうなるかわからないよ。もっと自分を大事にしてほしいって、誰かがあの人に願わないと」  渡の言いたいことは理解した。だが、それを願うのは俺の役目ではない。 「……世話になった。あとで借りは返すからな」  コートを羽織り、身を翻す。渡は少し悲しそうな顔で頷いた。  渡の机の上に和菓子屋の紙袋があるのには気づいていた。気づかないふりをしてそのまま扉を閉めた。
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