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「芦屋から話は聞いているよ。初めまして、私は碓氷だ。いつも芦屋が世話になっているな」  芦屋の紹介で初めて碓氷に会った日のことは今でもよく覚えている。そんなに昔のことでもないのだが、それ以前の記憶はなかったことにした。  初めて碓氷を見たとき、俺はあの人に見惚れた。それは確かだ。  律儀に頭を下げて、切長の瞳を細くしてにこりと笑った。肩から長い黒髪が流れ落ちるのを見て、綺麗な人だと思った。単に顔がいいというだけではなく、確かに顔は綺麗なのだがそれだけではない。存在というか雰囲気というか、この人の佇まいが綺麗だと思ったのだ。 「ええと、いえ。よろしくお願いします……」  彼の言葉に応えて頭を下げると、碓氷は嬉しそうな目で微笑んだ。その笑顔を見た瞬間、俺は生まれて初めて抱く感情に困惑した。この俺が、俺こそが一番上であるというのに。どうしてだかわからない。俺はこの人の「特別」になりたいと思った。それは本当に俺自身がそう思ったのだろうか。今はもうどうでもいい。  俺は確かに碓氷に惚れた。これを恋と表していいのかわからないが、おそらくこれは一目惚れというやつだ。初めて会ったあの日、俺は碓氷に狂わされた。 「なにボーッとしてんだ、お前」  目を奪われて惚けているのを芦屋に揶揄われても気にならなかった。  そしてその恋と呼ぶべきものが打ち砕かれた日のこともしっかり覚えている。  夏の初めの頃だった。初めて会った時からずっと碓氷が首に包帯を巻いているのが気になった。夏が近づいてきて汗ばんで、その包帯は暑いのではないかと問いかけた。 「ああ、これは……。そうだな、お前になら話しても大丈夫だろう」 「おいやめろ、碓氷」  碓氷の隣で何故か芦屋が制止した。碓氷はそれを無視してゆっくりと包帯を外す。この人の白い首筋が露わになるのを見て、じくじくと心臓が熱くなった。しかしそれも束の間、包帯の下から表れた夥しい数の傷跡を見て、俺は腹がずんと重くなるのを感じた。 「ずっと治らないんだ。こんなの見苦しいだろう?」  火傷痕、切り傷、索状痕、鬱血痕……なんだこれは。誰がこれをやったのか。芦屋はこの傷を知っていたらしい。それなら芦屋が? 睨みつけると芦屋は機嫌が悪そうに眉を寄せて俺を睨み返した。 「オレじゃねえよ。いや、ひとつくらいはオレのもあるかもしれねえけど」 「じゃあ誰が」  ほとんどは古い傷で治りかけているものの方が多かったが、ひとつふたつ、ここ数日の間につけられたとわかるものがあった。碓氷は日常的に、この傷を受けていることになる。俺たちの他に、この人とずっと一緒にいる人物……というと。 「まさか、アンタ」  碓氷は何も言わず、代わりに芦屋が答えた。 「そーだよ。こいつはあの男に虐待されてる」  碓氷は慣れた手つきで包帯を巻き直す。冬なら襟巻きで隠せるんだがな、と呑気なことを言っていた。 「は、なんでそんな……警察は? いや、なんでアンタら……おかしいだろ」  当たり前のように被虐待を話すこの二人の気が知れない。警察に通報するとか、もう子どもではないのだし逃げることだってできるだろう。どうして当然のようにそれを受け入れてそのままにしているんだ。 「私は大丈夫だよ。先生には世話になっているんだ。これぐらいどうってことない。先生には恩があるし、恩を仇で返すわけにはいかないよ」  何も言葉が出なかった。なによりも綺麗だと思ったこの人が、こんな傷だらけの体で笑っていることが許せない。この人は多分、最初から綺麗ではなかった。 「だからやめろって言っただろ。いくらこいつでも軽蔑するに決まってる。もう誰にも見せるなよ、こんなもの」  俺の沈黙を軽蔑と受け取ったのか、芦屋はあからさまに機嫌を悪くして舌打ちをした。碓氷は他人事のように曇りのない笑みを浮かべている。  芦屋の言う通り、俺はこの瞬間に碓氷を軽蔑していた。この人が醜いからではない。俺にあんな気持ちを抱かせたくせに、その優しさは俺にだけ向けるものではない。碓氷は誰にでも優しい。しかしその優しさが狂っている。異常なほどの献身が気味悪くて、どれだけ酷いことをされようと笑って受け入れているのが怖いのだ。  きっとこの人は誰に対してもそうなのだろう。誰もがこの人の「特別」になりたがる。碓氷の狂気的な献身は、そういう魔力を持っている。  この男の本当の顔が見たいと思ったのはこの時だ。優しい笑みなどいらないから、本当の姿を俺に見せろ。そうしたら俺は一番になれると思った。
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