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 渡の家を出て、真っ直ぐ下宿先に帰らず町をぶらついた。渡と話したことで少し熱が冷めた。俺は碓氷が嫌いだ。しかし俺は、どうして碓氷がそんな生き方をするのか考えようとはしなかった。あの人はそういう人なのだと思えば終いだが、それでいいのか? このまま放っておけば、もしかしたら碓氷は死ぬかもしれないのに。  歩きながら、俺はどうするべきかと自問した。自己犠牲を続ける碓氷の目を覚まさせるべきなのだろうか。俺なんかがやめろと言ったところで、あの人の生き方を変えることなどできやしない。あの人の中で俺はその程度の存在だ。碓氷の心にいるのは芦屋だけだ。それならば、芦屋なら碓氷を変えられるのかと問われれば、それは否だ。芦屋はすでに散々言い続けている。それなのに碓氷はちっとも変わらないのだ。  もう放っておけばいいじゃないか。どこかで声がする。俺は碓氷が嫌いなんだ。あの人がそういうつもりなら俺が頭を悩ませる義理もないだろう。 「……違う」  小さく呟く。俺はあの人が嫌いだけど、俺が本当に嫌いなのはあの人の上辺だけの笑顔だ。碓氷が本当の姿を見せてくれるなら、俺はあの人を軽蔑することなどない。許してほしいとか嫌ってほしいとか、そんなのは本当はどうでもよくて、あの二人とただ隣にいることだけを望んでいる。碓氷の目を醒ましたいのは、碓氷のためではなく俺のため。  あの二人の前では自分を偽る必要がない。本当に気持ちがいいのだ。嘘をつかなくていい、利口でなくていい。俺の本来の性格を知っているから、俺はそのままの俺でいられる。  二人とは対等な関係でいたい。最初から、俺は碓氷と友人になりたいだけなのだ。  気がつくと町外れの橋の方まで歩いてきてしまっていた。乾いた風が強く吹きつける。一羽の烏がヒビ割れた声で鳴いて飛び立っていった。  不意に厭な気配がして振り返ると、曇天に黒煙が広がっているのが見えた。どうやら街のどこかで火事が起きているらしい。遠くから騒めきが聞こえてきた。ここからだとどこが火元なのかはわからないが、煙が上がっているのは碓氷の家の方角だった。そんなことがあってたまるかと身を翻す。逸る気持ちを抑えながら火災現場へ足を向けた。  轟々と燃え盛る民家の周りには多くの野次馬が集まっていた。幸いにも火元の民家は長らく空き家となっていて、巻き込まれた人間はいないらしかった。 「あ、」  人垣から少し離れたところに、芦屋が立っていた。きっと彼も俺と同じ理由でこの火事を見に来たのだろう。芦屋は俺の姿を認めると少し眉を顰めたが、何も言わなかった。 「乾、火くれ」  どこで調達したのか、芦屋はコートのポケットから煙草の箱を取り出した。一本取り出して口に咥え、もう一本を俺に寄越した。 「早く」  マッチの箱を貸してやると、静かに火を点けて大きく息を吐いた。紫煙を燻らせながら、芦屋はずっと火事を見つめている。あまり見ない表情をしていた。 「もっと寄れ、乾。ほら」  新しいマッチを出して火を点けようとしていた俺の手を引いて、芦屋は少し屈んで顔を寄せた。煙草の先端が押しつけられる。芦屋の呼吸に合わせて息を吸うと、じわりと熱が移った。 「放火だってよ」  紫煙を吐き出しながら小さく呟いた。芦屋はいつになく哀しげな目で、静かに煙草を喫んでいる。ここ最近放火事件が相次いでいることは知っていた。そしてまだ犯人が捕まっていないことも。しかし芦屋が憂慮しているのは目の前で起きている事件のことではないようだ。 「……昔、あいつの家が焼けたのも放火だった」  ゆっくりと煙を吐いた。飛んでくる火の粉が目に入らないようにわずかに顔を伏せる。そういえば、昔の話はあまり聞いたことがなかった。碓氷がすでに家族を亡くしていることは知っていたが、俺が知っているのはそれだけだ。二人は話してくれなかったし、俺も無理に聞き出そうとは思わなかった。 「あの火事がなければ、こんなことにはなってなかった」  煙草を落とし、爪先で踏み潰した。 「なあ、芦屋。聞きたいって言えば、話してくれるのか。アンタたちの、昔の話」  芦屋の顔が見れない。どんな顔をして俺を見ているだろう。芦屋は黙っていたが、ややあって静かに笑った。剣呑だった空気が和らいだのを感じて顔を見上げると、芦屋はいつもと同じ顔で笑っていた。 「はは、珍しいな。お前が踏み込んでくるのは。なんかあったのか」 「話したくないなら無理にとは言わない。ただ……聞いておきたいと思っただけ」  芦屋にはそんな嘘もお見通しなのだろう。僅かな笑みを浮かべたままくるりと踵を返した。 「帰ろうぜ、乾。ここはうるさいからな」  くるくると態度が変わる。やや色素の薄いガラス玉のような瞳は、見るたびに違う感情を宿している。本当に猫みたいなやつだなと思った。
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