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「いやいや大強院さん、それは」
「邪姫子、ですわよ猛」
「だ、だが……」
頑なに言い淀む俺をしばし見上げていた彼女はこれ見よがしに深い溜息を吐いた。
「はーあ、悲しいですわー。わたくしには名前で呼んで良いと仰っておきながらご自分は距離を保ちたいとー。貴方の好敵手としてわたくしの如き姑息な卑怯者はやはり本心からは認められない、相応しくないと思ってらっしゃるのですわねー涙が出てしまいそうですわー」
「いやそういうわけではないのだが」
思わず弁明しようと口を開いた矢先に彼女が顔をずずいと寄せてにんまりと笑みを浮かべる。
「では呼んでくださいまし。ほらほらどうぞご遠慮なく」
「どうしても、か」
「はい♪」
「じゃ、き……こ、さん……」
なんとか捻り出すように口にした言葉を聞いて、彼女は両腕で大きなバツを作って満面の笑みを浮かべた。
「はいダメ! でございますわー! “さん”は要りませんでしたわねえ残念!」
「なん、だと……」
「そもそもこれから名前を呼ぶたびにそんな恐る恐るなさいますの? ありえませんわね! 気を取り直してもう一回! ご心配なく恥ずかしいのは最初だけと申しましてよ!」
「その割には君は何気なく呼んだような……もしかして君も実は恥ずかしかったり、したのか?」
「……」
ひとからは朴念仁だなんだといつも言われるものだが、完全に余計な質問だった。質問というより失言だった。実はよほど恥ずかしかったのだろう。彼女の顔が火を噴きそうなほど真っ赤に染まりちょっと涙目になってしまった。
「なあ、あまり無理はしないほうが……」
「わ、わたくしは呼んだのに! もう二回も呼びましたのに! わたくしだけ呼び損なんて絶対に許しませんでしてよ!?」
親切のつもりで火に油まで注いでしまった。俺は観念すると深呼吸して心を鎮める。
「すまなかった邪姫子」
「~~~~~~っ!!」
その一言で彼女は両の拳を握りしめてもの凄いにやけ顔で身体を震わせた。
「よ、よろしくってよ猛」
どうにか納得はしてくれたようだが、少し息が上がっているその様子が不安を煽る。
しかし特に親しいわけでもないクラスメイト女子を呼び捨てにする日が来るとは思わなかった。彼女の強引な話術に振り回され過ぎている気がする。
そうだ、俺の発言や行動はそのたびに絡め取られ振り回されっぱなしだが、では彼女の勝利がどこにあるのかと言えば、それについてまだ一切聞いていない。
それに気付いた今この瞬間こそが絶好の機会かもしれない。俺は意を決した。
「ところで邪姫子」
「ふゃい!?」
噛み気味の返事から虚を付けた手ごたえを感じた。流れを変えるならここだと幾多の戦いで磨かれた勘が告げている。
「結局のところ君の目的はなんなんだ。君にとってこの場での勝利とはなんだ?」
「あ、そ、それは……ええいっ!」
一瞬狼狽えたものの、自分の頬を両手で叩いて我を取り戻す。一筋縄ではいかないか。やはり手強いな。
彼女は俺に指を突き付けて堂々と宣言した。
「わたくしの勝利とは猛、貴方にくちづけをすることですわ!」
なにか幻聴が聞こえた気がするな。
「……すまんが、もう一度、出来たらゆっくりと言ってくれないか」
宣言ポーズのまま固まってまたしても真っ赤になって震えていた彼女は、そのままもう一度口にした。
「わたくしの勝利とは……猛にくちづけを、することですわ。ご理解出来まして?」
「い、いや……なにもわからないんだが。くちづけってキスのことだよな? 果たし状を送り付けて吊り天井の罠にかけそれらの行いを全身全霊の果し合いと言い張って目指す勝利が俺とキスをする、なのか?」
「全然違いますわ! 貴方“と”くちづけをするのではなく貴方“に”くちづけをするのでございますわ!」
「え、ええ? 違……う、のか?」
「ちーがーいーまーすーっ! 全然違いますー! トモサンカクの岩塩炙り焼きと岩塩くらい違いますわー!」
「それはだいぶ違うな」
「おわかりいただければよろしいんですのよ」
敢えて言うなら俺にはトモサンカクがなんなのかわからなかったが、それは大事なことではないし口にすると長くなりそうだったので止めた。それは止めたのだが、別の疑問が頭の片隅に浮かんでしまいそちらをぽろりと口にしてしまった。
「もしかしてこれも間違っていたらすまないんだが、もしかして邪姫子は俺と男女交際をしたいのか?」
「そんなことはあ! 一言も申し上げておりませんけれども!?」
「そうか、俺は恥ずかしい勘違いをしてしまったようだな、すまん」
「おわかりいただければよろしいんですのよ」
弾けるような勢いで真っ向から否定してきた彼女に謝罪したものの、そうなると交際したいわけでもない男とキスしたい彼女の気持ちはますますわからない。
まあ正直なところ思い返してみれば彼女のことは最初の一手目からなにもわからないので、もう理解しようとするのは止めたほうがいいなと思い始めている。
考えるな、感じろ。
彼女にとって俺にキスをすることがこの戦いの勝利であり、そこにあれやこれやと外野から理屈を持ち込んだところでなんの意味もなさない。
まあ、俺は当事者だが彼女の内心の問題なので敢えてこれ以上の言及はするまい。
しかし、勝利には敗北が付きものだ。彼女の敗北条件はなんだ? ここから俺を逃がせば敗北、というのはありそうだ。
もし逆に機先を制して俺からキスをした場合は彼女の敗北となるのだろうか。いや、これは彼女次第だからわからないな。最終的に彼女から俺にキスすればそれで勝利、という可能性もあるからこの方向は考えるだけ無駄か。
そして、俺はまた新たな疑問に気付いてしまうのだ。
「なあ邪姫子、君が俺にキスすれば君の勝利という話だが、ひとつ疑問がある」
「質問ばかりですわね猛。けれどもよろしいでしょう。わたくしなんでも答えて差し上げてよ」
もはや勝利を確信し俺の頬に両手を添えた彼女の目を正面から見据える。
「君の勝利、ということは俺の敗北でもあるのだろうか」
「えっ?」
「戦うとはそういうことだろう? 君が勝ったのであれば、俺は負けたということじゃないのか?」
「ええとそれは、そうですわね」
これを言えばまた彼女の強い反発を引き出すのではないだろうか。軽薄な男だと軽蔑されはしないだろうか。いやしかし、これを言葉で確認しないのはあまりにも不誠実、例え恥をかこうとも聞かねばならぬと己に言い聞かせる。
これは俺と彼女の全身全霊の戦いなのだから。
「邪姫子、君のような美少女にキスされても俺にとってはご褒美のようなものでむしろ勝利と言っても誤りでは無いように思えるのだが」
もしなんらかの方法で彼女のキスを妨げられたとしても、それはある意味俺の勝利だろう。なんなら本当に本気を出せばこの状況からでも首の筋力だけで彼女の拘束を脱してキスを避けることは可能だ。
別にキスされるのが嫌なわけではない。
得るものはあれど失うものはなにもない。これは果たして敗北と呼べるのだろうか。そして敗者なき果し合いには勝者もまた存在し得ないのでは。
彼女は一瞬考える素振りを見せてから微笑みを浮かべて顔を寄せてきた。
「なるほど……けれどもそれについては、わたくしに一案ございましてよ」
彼女は覚悟を決めるようにごくりと喉を鳴らすと、柔らかなくちびるがそっと触れる程度に俺の厚いくちびると重なり、すぐに離れた。もう少し問答が続くと思っていた俺はすっかり不意を打たれてしまい、今にも心臓が飛び出しそうなほど動悸が脈打っている。
彼女の吐いた切ないような甘い吐息に眩暈がするほど意識をかき乱されるなか、落ち着く間もなく二度目のくちづけ。次は啄むように優しく、繰り返し。
それをどれだけ繰り返したか、再び離れて上目遣いに俺を一瞥して、次はくちびるを重ね合わせる行為そのものを楽しむようにじっくりと押し付けてくる。
三度目のキスのあと、彼女はようやくその一案というものを口にした。
「猛、貴方が参ったと言うまで続けますわ」
なるほどこれは酷い妙案もあったものだ。しかしそろそろ俺も限界だった。これ以上は耐えられそうにない。
「参ったよ、君の勝ちだ邪姫子」
俺は素直な気持ちを口にする。
「だから、その……そろそろ吊り天井を、なんとかしてくれないか」
不本意ながら天井に圧し潰されて両者引き分けになりそうだった。
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