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8月17日
8月17日
昼過ぎ。道の先に目を向けると、陽炎が今日の暑さを物語っていた。蝉の鳴き声が鼓膜を震わせ、木漏れ日がチラつく歩道歩いていると、ポケットのスマホが通知を知らせた。信号で足止めをくらい、画面を確認すると彼からだった。
【やっぱりザーザー降りだよ。】
【もう着いたの! こっちはもう少しで着く!】
指先で文字を確認するが、日差しが強く、画面が見えにくい。
【じゃあ翠さんの家の方に向かっても大丈夫?】
【うん! いいよー! ありがとう!!】
返事を返したタイミングで交差点に足を踏み入れ、自然と歩行速度を上げた。日焼け止めクリームを塗ってもジリジリと焼けてしまうような感覚に、日傘を忘れてしまったことを後悔する。せめて麦わら帽子でも被るべきだったと、どうにもできないことばかり考えてしまう。
橋が見え、階段の前に立つと彼が重そうな足取りでゆっくりと階段を上っていた。
「颯君!」
彼が顔を上げ、見下ろす私と目が合うと、涼しげな微風が私の白いワンピースを髪と共に揺さぶった。
「ごめんね、遅くなっちゃった」
花火大会以来の彼に、少しだけ緊張していた。
「……顔真っ赤だね、もう焼けた?」
「や、焼けたかも!」
階段を下り、彼の顔を覗き込むと、赤く染まった頬を背けられた。
「日焼け止めいる?」
肩に提げる鞄からクリームを出そうとすると拒まれた。男の子はやはり抵抗がある物なのだろうかと特に気に留めることはしなかった。
「そう、じゃあ行こっか」
私達は以前と同じようにバスで駅へ向かった。バスが走る道の脇には、木陰の隙間から伸びる光が追い抜かされるように過ぎ去っていく。
ロータリーに到着したバスから降り、今日はどうするの? と彼が尋ねた。私はどこかへ遊びに行くわけでも、何かを探しに行くわけでもなかった。親の仕送りで生活している私にとって、そんな余裕はなかったのだ。
「今日はお買い物ツアーです」
普段から基本一人で色々と済ませてしまうため、友達と買い物、ましてや男の人と店に出かけることなんてあるはずもなかった。私は誰かと共に生活感ある事ができるとワクワクしていた。さらにその相手が彼になるなんて、こんなに嬉しいことは無い。
バスのロータリーから少し歩いて、アウトレットに到着した。
「始めてきたけど、広いんだね」
あちらこちらと目を向ける彼もどこか胸を膨らませていた様子だ。平日にもかかわらず、夏休みということもあり人が多い。
「そっか、アウトレット初めてなんだ。私は家からそこまで遠くもないから、たまにここに来るの」
時々ここに来る事は確かにあったが、滅多に何かを買うことは無かった。いつも店に並ぶ服を眺めては、それを着て歩く自分を想像して終わる事ばかりだ。
「アウトレットは安いって聞くし、なんでも揃いそうだもんね」
他店と比べると確かに安いかもしれないが、実際は仕送り暮らしの高校生には厳しい金額ばかりだ。それは黙っておこうと胸に秘めた。
「うーん、安いかどうかは何とも言えないかな。まあそんなことは置いといて、本日は8月も残り半分ということで、お買い物ツアーとなりました!」
一人で小さく拍手をする私を見る私に対し、彼は逆だった。
「けど、僕あんまりお金なくて……」
罪悪感を抱いていそうな表情が目に映る。
「え? 私もだよ?」
私の顔を見た彼が不思議そうな表情を浮かべた。
「まあ、少しは買い物するけど、後は見て回るって感じかな。つまり、『お金持ちになった時にこれを買えたらいいねお買い物ツアー』です!」
私の堂々とした態度に彼は吹き出した。
「いや買わないんかい!」
彼の素で現れたツッコミに、私達は笑いあった。こんなに笑える日が来ることが、1年前では思ってもみなかったと、一人でアウトレットを彷徨う過去の自分が脳裏に思い浮かんだ。
その後、二人で多くの店を回った。その多くは洋服店で、こんな服が似合う、この組み合わせはどうだろうかと、買わないなりにそれなりに楽しんだ。誰かとこんな風にできることが、私にとっては大きな喜びだった。
「大人になって、たくさん買い物ができるようになって、そしたら翠さんとまた買い物に来られたらいいなぁ」
数店舗回った辺りで彼がそっと呟いた。照れくさそうな表情が愛おしく、限りなく嬉しいのは確かだった。しかしこのまま彼が私の事を思い出さずに時間が流れてしまうと、その願いが叶うことは難しいのだ。なぜなら私は今年で……。
「……あ、あの服なんて翠さんに似合いそうだよ!」
深く考えすぎてしまっていたようだ。彼の言葉に現実へ引き戻された。ここ最近、悪いことを深く考え込む癖がついてしまっていた。
お店を出て、外のベンチで一休みすることにした。日陰でも暑さが残り、お店の方が涼しいねとたわいもない話が盛り上がる。
「今日のこの後はどうするの?」
誰かとアウトレットに行く事ばかりに気を取られ、その後のプランなど忘れてしまっていた。
「え、うーん、考えてなかった」
口角を軽く上げた私は笑われた。私は自分の間抜け具合に呆れてしまい、笑みが零れた。
「じゃあ、また映画でも観る?」
顎に人差し指を乗せて考え、澄んだ空を見上げて思いつく。
「そうだ、お散歩しようよ」
顎から逸らした人差し指をピンと立てて言うと、了解してくれた。その時私の胃袋が縮小するように動き、鈍い音を響かせた。クスクスと笑われる私はどこかに隠れてしまいたかった。
「笑わないで!」
いつの日かの金魚のように赤くなった顔を向けると、彼はダムが崩壊するように大きく笑った。早いけどご飯食べようか、その一言に私は黙って目を逸らし、頷いた。
スマホで近くの飲食店を探そうと、カバンに手を突っ込むと私は一つ提案する。
「大手イタリアンレストラン、S社行っちゃう?」
固まる彼を見て失笑する。
「口開いてるよ」
ゆっくりと口を閉じる表情が自然と広角を持ち上げさせる。
「だから僕そんなに持ち合わせが……」
「大丈夫! きっと高校生ならみんな行ったことがあるから!」
彼は疑う目をしたまま、私の道案内に従った。
アウトレットを出て、バスのロータリー近くにある崩れそうなデザインのショッピングモールへと入った。そして言った通りの店に指を差す。
「サイゼかい!」
彼は顔に笑みを浮かべていた。
「そうだよ。大手イタリアンレストランのS社」
学校の経済の授業にて、先生がしていた表現を真似たのだ。
「独特な表現の仕方だね」
「高校生に優しいお店でしょ?」
「間違いないね」
入り口から遠めの席へ案内され、早い時間ということもあり、やけに静かだった。
ソファ側に座ると同時に、決まった? と冗談で訊くと彼は吹き出した。
「いや早すぎでしょ、ちょっと待って」
「私も決まってない」
今日は本当に良い日だと感じた。彼を喜ばせている自分、そして一緒に笑うことができる幸せが何よりも嬉しかった。
「決まった!」
パッと彼を見ると、目の焦点がメニューに向いていないように感じた。考え事でもしていたのだろうか。
「じゃあ僕もいつものにしようかな」
「いつものって?」
首を傾げて彼に尋ねる。
「辛味ソーセージと、ベーコンとほうれん草のグラタン」
そのグラタンおいしいよね、と呼び出しボタンを押しながら話し、店員さんを呼んだ。
「ここの間違い探し、絶対子供向けじゃないよね」
メニュー立てからお子様メニューを引っ張り出し、表紙の間違い探しを広げると共感を貰えた。
「わかる。毎回8か所か9か所で終わっちゃう」
注文を終えた私達は、メニューが来るまでずっと間違い探しのメニューとにらめっこを続けた。
「今8か所……」
「…………あ! この船の煙のところ!」
「……ほんとだ! 赤線がない! あと一つだよ翠さん!」
残り一つというところで、彼の辛味ソーセージが到着した。
「先に食べててもいいよ」
「ううん、まだ見つかってないから」
無邪気な彼にふふっと笑い、残り一つを探すことに集中した。
「…………ん?」
彼が目を凝らし、身を乗り出して表紙に近づいた。
「……これ、3つあるうちの右側の吊るされているお肉、なんか大きさ違くない?」
彼の指先に描かれた絵を右へ左へと見比べる。
「…………え、ほんとだ! すごい! よくわかったね!」
「やった、全部見つけた! 初めてだよ!」
初めて全て見つけられた達成感で喜んでいると、丁度料理が届いた。感情のままに昂った姿を店員さんに見られ、恥ずかしさから二人で俯いた。店員さんが去ってからようやく会話を再開できた。
「翠さん、パスタ好きだね、というか僕らまたイタリアンだね」
「そう、女の子らしいでしょ? 他のものが良かった?」
言われてみれば彼の意見を聞く前にここに来てしまい、悪いことをしてしまったようだ。彼は両手を振って大丈夫と答えたけれど、次は彼の食べたいところにしようと決めた。
「なんか翠さんらしい。パスタの似合う女の子って感じで」
「それ褒めてる?」
どうしてか、またも一緒に笑った。
食事も済み、お店がざわつき始めたころ、席を立った。レジで財布を出すと、彼は何も言わずに私のパスタの分まで支払ってしまった。
「ありがとう、はい、これ私の分」
3枚の小銭を彼に手渡そうとすると、いらないと言って拒まれた。
「今日くらいはごちそうさせて」
そう言いながら出入口のドアを押し開けた。
「本当にいいの?」
お店を出ても財布をしまう気が進まない。少額とはいえ、ご馳走してもらうのに胸がモヤつく。
「全然気にしないで。翠さんのお会計たったの300円だし」
「……ありがとう。今度は私が何かごちそうするね」
手にしていた財布をそっとしまい、私達は建物から外へ出た。自動扉を潜り、見上げた空には明るさが残っていた。夏の太陽の活動時間は本当に長く、生活のリズムを狂わせる。
この空は見たことがあった。そしてその名も知っている。
「マジックアワーだ!」
以前にカフェで飲んだメロンソーダの色と瓜二つだった。だだっ広い空のキャンバスにうっすらと伸び渡る金色の美しさ、自然と瞼が持ち上がる。
まるで誰かに描かれたようなその姿は、いつまでもその形を残しているようで、毎秒消え去ろうとする太陽が頭上を暗くし続けているとは思えなかった。とても魅力的な、夜混じりの空だった。
「綺麗だね」
「……そうだね」
彼と隣同士で空を見上げて立ち尽くしていた。1台のバスがロータリーに到着した音が聞こえ、私は再び声を出した。
「……行こっか」
私が歩き出すと、彼は後を追って足を動かし出した。家の前を過ぎ、緩やかな上り坂を横に並んで進む。
「本当にこの辺りいいよね。緑が多くて」
「そうなの。だから人が多いけど、そんなに空気が汚いとかも思ったことないし」
「僕もこの辺が良かったなー」
「この辺が良かったって?」
「昔、僕が小学校に上がって間もない時に、僕も実は引っ越したんだよ」
彼の過去話に体が反射的に振り向いた。私がずっと知りたかったことだった。
「けれど、幼稚園の時の記憶がほとんどなくて……」
「え!?」
声が喉の下から飛び出した。その声量に彼も驚いていた。そして次に話す内容に、私は頭の整理がつかなかった。
「僕もその時の事はあまり覚えていないんだけど、どうやら児童センターの、遊具から落っこちたらしくて、救急車で運ばれたらしい」
彼が嘘をつくような人ではないのは知っていた。だからこそ疑いたかった。
「……大丈夫なの?」
思考がはっきりとしない。自分の感情もよくわからない。
「うん、今は全然問題ないんだけどね、当時は脳に多少のダメージがあったらしいんだ。だから前に住んでいた場所とか、なんとなくしか友達も思い出せなくて」
にわかに信じ難かった。私が追い求めていた彼は、彼の記憶は、失われてしまっていたのだ。
「…………そうなんだ。大変だったんだね」
なんと言うのが正解なのだろう。もうあの頃の私を覚えていないのだろうか。思い出すことは無いのだろうか。もう希望も何も無いのだろうか。答えの出せない疑問ばかりが脳裏を横切る。どうしてか、妙に冷静だった理由は私にもわからない。
「見て、翠さん、空がすごいよ」
彼が振り返り、私も歩いてきた道を振り返る。私達の背中を見守っていた太陽が隠れていた。
「……ブルーアワーだ」
マスターが以前、私に話してくれたことを思いだした。私は本当に忘れられてしまっていたのだ。私はとことんついてない人間なようだ。そう自覚すると、涙すらも出なかった。
「口、開いてるよ」
彼の言葉に、無意識に隙間ができた口を向けると目が合った。プッと吹き出す彼を見て、私は笑顔になれた。昔の私は忘れられてしまったけれど、今こうして彼の横で笑っていられる事実は本物だ。私は、不幸な幸せ者のようだ。
「前にね、颯君と知り合う前、マスターからもらったぶどうジュースの名前に、ブルーアワーって言葉が入っていたの。これのことかぁって思って」
誤魔化した感情が、彼に気づかれないことを祈った。
「そうなんだ。僕も飲みたかったな。そういえば、翠さんはいつからマスターのところに行くようになったの?」
「えっとー、確か2年前の春頃だったと思う」
「あ、じゃあ結構前なんだね」
「そう、この辺りに来てから、中学校の頃の友達もいないし、完全に浮いてたの。そこで突然、もう全部が嫌になっちゃって、学校を休んで散歩してたら……」
「あの場所を見つけたのか」
嘘を混ぜるしかなかった。本当は死に際であの場所を見つけた、なんて言えたものじゃない。道の先を見つめる私は黙って頷いた。
しばらく歩くと、車も少なくなってきて、人通りも減ってきた。
「あ、もしかして戻ってきた?」
「そうだよ、もうすぐであの池のところ」
随分と遠回りをした。20分以上は歩いただろうか。彼が以前に住んでいたアパートの前を通ったことは、胸の内側に秘めておいた。
「コンビニ寄っていい?」
「うん、外で待ってるよ」
私は橋の近くにひっそりと夜道に光を広げるコンビニへ入り、アイスの袋を手元からぶら下げながら彼のもとへ戻った。
「はい、半分こして食べよ」
階段を下り、橋横のベンチで足を休める。太陽はすっかり気配を消していた。
2個セット、コーヒー味のアイスをパキッと音を立てて分離させ、片方を彼に渡した。
「さっきのお礼ね」
「ありがとう」
とても静かで、水の流れる音が耳を擽る。
「このアイス、蓋? っていうのかな、開けた側に入るアイスも食べちゃわない?」
貧乏くさく、僅かにアイスが入り込んだ蓋を口にしながら喋る。
「わかる、絶対残さず食べちゃう」
彼も同じように蓋の方を口にしていた。同じような価値観に笑みが零れる。
雲が私達の頭上を渡っていて、星が隠れてしまっていた。
「翠さんの笑顔ってさ、なんか特別だよね」
唐突な言葉にプッと吹き出してしまった。
「どうしたの急に」
「いや変な意味じゃないんだけどさ、翠さんの笑顔は、なんていうか、どんな季節にも似合う笑顔をしてる」
嬉しい気持ちはあったが、理解し難いところもあり首を傾げた。
「よくわからないけど、ありがとう」
微笑する私を見て、僕もよくわからなくなってきた、と言われてまた笑顔になった。私達にしかわからない、この時間がとても綺麗に感じていた。この心情は、彼の隣にいる時でしか味わえなかった。
雲を透かして覗く月光が私達を眺めている。甘く化けたコーヒーの香りが鼻につく。
「食べたら帰ろっか」
アイスも残り半分、彼は頷いた。体温が下がり、夏草を揺らす風が清涼感を与えてくれる。
先にアイスを食べ終えた私は、ベンチに押されるように立ち上がり、雲の切れ端に目を向けた。
「どんな季節にも似合う笑顔、って言ってくれたよね?」
「うん、言ったけど?」
背中側で彼が喋る。私は上半身だけ振り向けて、過去の事は忘れようと心に決めた。できる限り前向きに頑張るしかない、その想いと共に、胸から飛び出した気持ちを笑顔と共に彼にぶつけた。
「たぶん、こんなに笑えるのは、颯君がいるからだよ?」
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