8月28日(1)

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8月28日(1)

8月28日  夏休みもとうとう最終日になってしまった。進路関係で忙しくなる2学期を前に、私はマスターに話をつけようとカフェへと着いた。 「お久しぶりです。……何か心境が変わったようですね」  マスターの勘は本当に鋭かった。しかし私はわかりやすく嘘をつく。 「いいえ? そんなことはないけど?」  店内の席ではダッチが水を飲んでいた。今日私が話すことは、マスター以外に知られたくなかったのだ。咄嗟の反応に、きっとマスターは察しただろう。 「失礼いたしました。では何かお持ちいたしますね」  ありがとうと告げ、ダッチの隣へ座って横目でチラ見するとコップに入る水をちまちまと飲み進めていた。 「ダッチ?」  声をかけてモコッとした毛並みに触れると、ビクンと大きく体を震わせて水を零させてしまった。せき込むダッチに私も驚いた。 「ご、ごめんダッチ、大丈夫?」 「……ミドリさん、いたのか。こちらこそごめんね、気づかなかったよ」  ダッチは口元から水を滴らしながら再びまた一人、テーブルと向き合った。 「何かあったの? 私で良ければ話聞くよ?」  鞄から取り出したタオルでダッチの口元を拭くと、一呼吸おいて私にポツリと呟くように質問を返した。 「ミドリさんは……、恋したとき、どんな気持ちだった?」  コップを両手で握るダッチの表情はどこか照れくさそうだった。 「え!? ダッチ、好きな子ができたの!?」  黙って頷く横顔を見て、私は頬の力が抜けた。違う生き物でありながら、恋をした時はみんな同じ反応なのだとその時私は初めて知った。 「どんな子なの!? やっぱりかわいらしい子? どこで出会ったの?」  自席から身を乗り出して質問攻めの私に対し、ダッチは意外にも冷静沈着だった。 「うーん、たまたまあんまり行ったことがない山で虫を探していたら、ばったり?」  私は腕を組んで背もたれに寄りかかり、椅子の軋む音を響かせながら無意識に上がった口角で声を漏らした。 「いいなぁ恋。素敵だなぁ」 「ミドリさんだって恋してるじゃないか」  ダッチの一言に、私はうーんと唸って例えを考えた。 「ほら、花は咲いた瞬間が一番若々しくて美しいじゃない? 咲き続ければいつかは枯れてしまうし……」  俯くダッチはボソッと呟いた。 「枯れちゃうのか……」 「待ってごめん、例えが悪すぎた」  自分の余計な一言がダッチの心を静めてしまったようだ。慌てて弁解するも、次にダッチが放った言葉に私は深く考えさせられた。 「じゃあ、ミドリさんの恋も、いつかは枯れてしまうの?」  頭の中には笑顔を向ける彼の表情が浮かび上がる。彼への恋に何年も懸けてきたからこそ、胸に大きく刺さった言葉だった。 「……そんなことない、花は愛情を持って手入れすれば長持ちするわ」 「その後は……?」  私はダッチの質問に答えられなかった。自分の言葉に虚しくなってしまう。 「とにかく! 恋は実るまで諦めないことだよ、ダッチ!」  微笑するダッチからは、意外な言葉が私に掛けられた。 「そうだね。なんだかミドリさんといると心が落ち着くよ。僕が人間だったら、きっとミドリさんに恋してたと思う」  可愛らしい姿とは裏腹に、男の子らしい一言が意外にも私の胸を叩いた。柔らかな体に手を回し、身体に押し付けるように抱きしめた。 「ありがとうダッチ、なんて可愛らしい子なの」 「やめてってば、僕は男だって!」  ハグを拒まれ、揶揄われるとダッチはいつもの口癖を言う。そんな姿も含めて、とても素敵な出会いをしたなと改めて実感する。  カタカタと浮いたような音が聞こえ、目を向けるとトレイを片手にしたマスターが私の前へ、色のない透明な空のティーカップと小皿に立ち乗ったカステラを用意してくれた。 「本日は秋らしいものをと思いまして、『イベリスのアイスティー』と『願いのカステラ』になります」  アイスティーのカップはダッチにも配られたが、一口サイズのカステラは私の分しかないようだった。ダッチの分は無いのかと尋ねると、私が来る前、既に食べていたらしい。 「イベリスって?」  ダッチの疑問に、私が答えた。 「そういう花があるの。白くて素敵な花よ」  よくご存じですね、そういったままマスターは特にティーカップを見るだけで中身を入れてはくれない。 「マスター、これ、空に見えるのだけれど……」  柔らかな毛並みがそろう腕を胸に添え、マスターは目を瞑った。 「そのカップに注がれる紅茶は、初恋を味に変化させてくれます。目を瞑り、当時の気持ちや天気、相手の表情などを思い浮かべますと、液体という形として現れてくれるのです」  私とダッチは一度目を合わせると、マスターの言うとおりに瞼を降ろした。彼との出会いは遠い昔だ。天気や時期までは思い出せなかった。ただ素直に胸に刻まれた記憶は、喜びの感情だけだった。  再び目を開くと、確かに透き通るような朱色の紅茶が波もなく注がれていた。ダッチの紅茶はとても濃い色をしていた。 「ダッチは記憶が新しいため、よりはっきりと味わえるかと思います」  私はそっとカップの縁に唇をつけ、舌の奥へ紅茶を流し込んだ。すると視界がぼやけ始める。袖で摩るも、何か霧のようなものの中へ溶けていってしまっているような感覚だ。  何度も目を擦るうちに、ようやく何かが見えてきた。……女の子が……泣いている。  ここは……教室? やけに視野が狭く、目線が低い。体が私の意思とは反して動く。泣いている女の子を前に、体はどこかへ走り出す。  扉をノックする小さな手が映る。声は……聞こえない。誰かが部屋から出てきたようだ。巨人のように自分の身体より何倍も大きい。何か話をしているようだが、口の動きだけでは流石にわからない。視界も悪く、誰なのかわからない。  その手には絆創膏が渡された。小さな手で握り締め、走り出した先にはさっきの女の子が座り込んでいる。どこかで見たことがあるような子だった。  そしてようやく聞こえた言葉は、私の声ではなかった。 「転んじゃったの? 先生から絆創膏貰ってきたよ」
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