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8月28日(2)
その一言で、ハッと気づくと私は元の身体に意思が戻っていた。
軽く息が上がっていた。私は焦るようにもう一度紅茶を体へ流し込む。しかし、再び視界がぼやけることは無かった。
「マスター……」
私は朦朧とする頭でマスターを見上げた。
「どうでしたか? イベリスのお味は」
そうか、イベリスの味……そういう意味だったのか……、とようやくこの紅茶の意味を理解した。
ダッチへ顔を向けると、喜んでいる様子だった。
「マスター、彼女僕の事気になっている様子だったよ!」
「それは良かったです」
マスターはニコリとはにかんだ。
「……え?」
私は理解が追い付いていなかった。唖然とする私にダッチは語りかけた。
「紅茶を飲んで何か見えたでしょ? 何がどんな風に見えたかによって、相手が自分をどう思っているのかわかるんだ」
様々な疑問は浮かんだが、なぜダッチにそのことがわかるのか、まず私はそのことを訊いた。
「どうしてそんなことわかるの?」
ダッチは首を傾げて私を不思議そうに見つめて答えた。
「どうしてって……。見えた彼女がそう言ったんだ。僕の事が気になるって」
私は力の寄った眉間をマスターに向けて問いただす。
「それは本当なの? 本当だとしたら、どうして私はうまく見聞きすることができなかったの?」
何か焦りのようなものが私にあった。それに対し、マスターは耳一つ動かさなかった。
「先ほども言いました通り、貴女の思い出はとても遠いです。ダッチが気になっている方と出会ったのはつい先日。本が時間と共に色あせるように、記憶も薄く、見えにくくなってしまいます」
その理論に何も言い返すことができなかった。黙っていると、沈黙を否定するように追って話をされた。
「ご安心ください。貴女が見たものは紛れもなく良い思い出のはずですよ」
私、そして彼の記憶を知っているかのような口調で話すマスターは、決して嘘をついているようには見えない。私は言われたことを飲み込むしかなかった。
「こっちのカステラは……何を……思い出すの……」
私の声はどこか怯えてしまっていたようだった。私の記憶が、私を助け、私を苦しめる。最近はそんなことばかりだ。
「そちらのカステラには、星屑の金箔を振りかけております。誰かの幸せを願う切実で純粋な想いです。そのカステラを食べながら、幸せになってほしい相手を願うのです。もちろん自分を指定することも可能です」
「これを口にすると、その人の願いが叶うのね……?」
私は先ほどとは打って変わって覚悟の込められた芯のある声を出すことができた。まさに願いを叶えられる、私が欲しかったものだったからだ。
私は二又フォークに震えた手を差し伸べ、キラキラと輝くカステラへ一刺しした。ようやく、これで苦しむこともなくなる。そう考えると筋肉がうまく動いてくれなかったのだ。
「大丈夫? ミドリさん」
とても小さな手が私の腕に乗せられた。ダッチが私のじっと見つめている。
「うん……大丈夫だから……」
そう言い、私は自分の願いで頭の中を埋め尽くしながら、ゆっくりと口元へ動かす。あと数センチで唇とカステラが触れ合うというところで、ダッチが再び言葉を使う。
「僕は、彼女の幸せを願ったよ」
私の腕の振るえとともに、カステラを運ぶ手が止まる。
「……どうして?」
浮かせたカステラを一度お皿に戻すと、ダッチは不思議そうに首を傾げて顔を向けた。
「どうしてって……、僕が幸せになれたところで、彼女が幸せとは限らないもん。それだったら彼女の幸せが叶う方が僕は幸せだと感じるからさ」
ダッチのその台詞はいかにもダッチらしかった。そして自分の愚かさに気づかされた。私は自分の願いばかりを考え、彼自身の幸せについて考えたことがなかった。
「ダッチ、ありがとう。私間違えるところだったみたい」
そう言って私はカステラを一瞬で食べ終えた。
「間違えるって、ミドリさんも同じような願いだったでしょ?」
ニコニコと笑うダッチは、どこまでも可愛らしく、純粋無垢でとても深い考えを持っていた。
「もちろん。誰かの幸せを願うって素敵な事よね」
「うん、きっと、ハヤテ君これで幸せになれるね……。あ、そろそろ朝ご飯を取りに行かないとだ。またね、ミドリさん、マスター」
予定を思い出すようにそそくさと店を後にするダッチに、またねと言う間もなく行ってしまった。
「ダッチ、きっとまた彼女のもとへ向かうのでしょうね」
マスターがダッチのティーカップを片付けながらそう言う。
そうかもね、とボソッと言うとマスターはテーブルを吹き上げる手を止めた。
「どうしてダッチの幸せを願ったのですか?」
大きく深呼吸をしてからマスターの質問に答えた。
「あんなこと言われたら、自分が情けないじゃない。心から相手を思いやるダッチは幸せになるべきだもの。本当は私を幸せにしたいし、彼も幸せにしたい。けれど、それじゃあ……、星に願ったような幸せではいけないような気がしたの。はぁー、幸せって何なの」
私は大きな溜息と共に、自分を見失いかけているようだった。
「貴女らしいですよ。それと、今日ここに来た理由もあるのでしょう? 少々お待ちください」
止まっていたマスターの手は、再びテーブルの上をタオル越しに滑っていた。一度厨房へ戻った後、隣へ腰かけたマスターは、私の言葉を待っていた。
「……マスターの言う通りでした」
「……というと?」
マスターに目を向けられなかった。見透かされているようなその瞳が怖かったのだ。
「彼、記憶を失って私との思い出を無くしていたの……」
「……そうでしたか」
沈黙の度に、外からの雨音が、より耳に残りやすくなっているようだった。
「だから、決めたの」
「何をですか?」
深呼吸をして、二週間考えこんだ結果をマスターに伝えた。
「私は来年の4月頃に親元に帰るの。だから、今年中に彼に思い出して貰えなかったら、私はこの恋を諦める」
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