10月1日

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10月1日

10月1日  9月の間、彼とは稀にカフェで会っていた。  玄関の扉を開け、履き切れていない靴の先を地面に叩きながら外へ出ると、曇りの空模様でとても過ごしやすい気温が肌を触る。  カフェもきっと曇りだろうと思い、雑木林へと入っていくと案の定天が高い雲で覆われていた。  みんなの後姿が見えた。その中に彼もいる。マスターと目が合い、声を掛けられる前に人差し指を唇に添えてアイコンタクトを送った。  私はそっと彼の背中へと近づき、マスターが店内に入ったタイミングで勢いよく叩いた。 「わっ!!」 「うわぁ!」  体をビクッと震わせて驚く彼に、お腹を抱えて笑いこむ。 「今日もいい反応ですねぇー」  イタズラな笑みを浮かべる私に、彼はやられたと言わんばかりの表情だ。 「にしてもここはいつも暖かくて過ごしやすいね」  椅子の足を引きずり、いつもと同じく彼の隣に腰を下ろす。  店内からマスターが戻ってくると、私は先日偶然にもテレビで見かけた台詞を吐き捨てる。 「マスター、いつもの」 「いつもの?」  クスッと笑うマスターは、当店にいつものなんてありませんよと言い、私の前にカップを置いた。 「一回こういうセリフ使ってみたいんだよね」 「あー、少しわかる気もする」  頬杖をついた私に彼だけが同意した。 「ところでマスター、今日は何をご馳走してくれるの?」 「気が早いですね、お持ちいたしますのでこちらをお飲みになってお待ちください」  テーブルに置かれたカップに入るのはアイスコーヒーのようだ。みんなとは違い、私だけの飲み物のようだ。  一緒に置かれていたミルクとガムシロップを小さなピッチャーから少量入れ、マドラーでかき混ぜる。顔の前でカップを回して混ざるコーヒーを一口喉の奥へ流し込んだ。  胸の奥で彼との思い出を、散らかった部屋を片付けるように、綺麗に片付けられていくのがわかる。このアイスコーヒーはきっと、マスターの気遣いというのが言わずとも伝わる。  彼はプチと話していた。その間に私はコーヒーを飲み進め、心の整理を付けていた。カップの縁が唇に触れるたびに寂しさが存在感を強調していた。  少しして、マスターがトレイを両手にして戻ると、そこに人数分の黒いお皿が乗せられている。お皿とナイフ、デザート用のフォークを配り終えると、トレイを脇に挟んでみんなを見渡した。 「本日は満月ですが、見事に雲に隠されてしまっています。ですので、皆様に『新月のチョコレートマシュマロ』をご提供させていただきます。皆様の世界の新月のお力をほんの少しだけお借りしました」  真っ黒なブラックチョコレートの色をしたまん丸のマシュマロがお皿に二つ、寄り添うように飾られ、上から金箔を掛けられ、店から溢れるオレンジ色の優しい光が輝かせて見せる。黒いお皿に溶け込むように置かれているのが、まさに夜空に隠れる新月だ。 「どうして二つあるのですか?」 「確かに。月は一つよ、マスター」  私の言葉にプチも便乗する。  集まる視線に、マスターは澱んだ空を見上げて説明してくれた。 「月の満ち欠けの周期はおよそ29日から30日。10月1日の今日、新月ということは……」 「今月、二度新月が来る。ってことね」  マスターの途中までの説明ですぐに理解した。 「ご名答です。さすがですね」  私達のマシュマロにざっと目を通し、マスターが再び話す。 「片方は本日の皆様の世界の新月、もう片方は、約30日後の新月となります。ぜひ今月の月本来の味をお召し上がりください」 「ねえマスター、プチとかウィンは動物だけど、チョコなんて食べて大丈夫なの?」  こんなに甘そうなもの、これまでもそうだったけれど、人間以外が口にして大丈夫なのかとふと思った。マスターはニコリと笑い、ご安心を、とだけ言った。 「失礼ね、動物だなんて。ここにいるみんなそうじゃない」  顎をクイッと上げたプチが不満そうな表情している。プチの癇に触れてしまったようで、戸惑いつつも謝った。 「そんなことよりもう食っていいか?」  お預けをさせられている気分であろうウィンが少しイラついていそうな表情を見せた。 「ごめんごめん、食べていいよ、ウィン」  その一言を聞くとウィンは二口で食べきってしまった。 「おお、うはいぜこへは」  もごもごと、何を言っているかわからないけれど、私達もフォークとナイフに手をつけた。  直径5cmほどだろうか、市販のものよりも大きめのマシュマロだ。  ナイフで切り込みを入れると、内側からエネルギーが放出されるかのようにチョコレートが溢れ出てきた。お皿の中で広がりゆくチョコにマシュマロを塗るように付け加え、口の中へと落とした。  口の中でチョコレートの甘さが広がった。ミルクと空気が絶妙に絡み合い、チョコ本来の甘みが味覚を刺激する。月自身が放つエネルギーが、身体の中へと力を付けてくれているのがわかった。ブラックチョコレートとは思えない控えめな苦さと、エネルギッシュさに身体が震える。 「すごい……」  無意識に声を漏らしてしまう。黙々と食べ進め二つのマシュマロを完食すると、身が軽くなったような感覚が残っていた。 「いかがでしたか? 新月のお味は」  マスターはみんなのお皿を片付けながら口を開いた。 「本当においしかったです……。なんていうか、自然と力が湧いてきます」 「はい、新月は満月や半月などと違って、唯一太陽の光を浴びない時間です。月本来の姿というのを見せてくれるのです」  私と彼は、へー、と納得して頷いた。  お皿を店の中へと片付けに行き、マスターが次に持ってきたのは空のグラスだった。 「味の濃いものを食べましたら喉が渇きます。どうぞ喉に潤いを」 「これは……入道雲のレモン水?」 「いいえ。もう冬ですから」  マスターがグラスを配り終えると、もくもくと薄暗い雲が現れた。  10秒ほど経つと、雲から何かが降り始め、次第にそれは積もっていく。 「これは……雪?」  プチがグラスをにらむように見つめ、ポツリと呟く。 「こちら、『春日和の雪崩水』でございます」  時間と共に積雪の高さを増し、グラスの半分ほどつもると雲は晴れた。 「マスター、これじゃあどちらかというとかき氷じゃない?」  飲む、というよりかは食べるに近いような気がして違和感だった。 「大丈夫ですよ。春日和にしてありますから」  マスターは自信気に言うが、納得しきれなかった。私達は疑う気持ちのままグラスに口を付け、雪を傾けた。するとグラスの中の雪は雪崩のように形を崩し、口元へ入る直前に一気に溶け、水となった。  喉へ入り込む水は、とても新鮮で冷えており、市販の天然水よりも美味しかった。喉元から体の隅々にまで水が広がるように体の体温が下がるのがわかる。 「本当にマスターはすごい……」  私の一言に、他の三人も頷いていた。  しばらくして、プチとウィンが帰宅した。マスターも一度席を外すと言って店の中へ入ってしまった。きっとマスターは気を使ってくれたのだとわかり私はこれからのことを彼に打ち明けた。 「私、しばらくここには来られないの」  彼は酷く驚いた様子だった。私は理由を尋ねられ、進路のことで忙しくなってくる、それだけ伝えた。本当は、これからも定期的に会い続けてしまうと、別れが辛くなってしまうからだった。 「けれど、年末は一旦落ち着くから、その辺りで予定が会えば、どこか行かない?」  私はその日ですべてを終わらせようと決めていた。彼は二つ返事で了承してくれた。 「……じゃあ私もそろそろ行くね。連絡はできるから、寂しくなったらいつでも連絡してね」  本当に寂しいと感じているのは私の方だったけれど、冗談で気持ちを誤魔化すしかなかった。  席を立ち、後ろを確認することもなく池の前に出た。大きく出た溜息と、半分ほど枯れた木の葉が切なさを掻き立てた。
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