二月二十六日

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二月二十六日

「ごめんマスター! 後で片付ける!」 「どうしたんだ? あいつ」  モカが不思議そうな顔をして彼の背中を見送る。  地面に散乱した土とガラスの破片は原型を失った。 「そう言えばマスター、どうして彼は満月の鉢なの?」  私は今まで疑問に感じていたことをようやくマスターに訊いてみた。 「プチ、彼が持っていたものは満月ではありませんよ」 『え?』  みんなが口を揃えて反応した。 「彼に渡したものは新月の鉢です。彼の心に空いた穴は大きく丸い。まさに当時の彼に渡すべきだったものです」 「当時の彼? ってことは今は……?」  首を傾げる私を見て、マスターはみんなを見渡す。 「あいつ、気づいたのか?」 「ウィン、何に気づいたの?」 「ミドリじゃなくてスイってことに」  全員が驚く顔をする中、マスターだけは分かりきっていたような表情を保っている。 「もう彼にはあの鉢も必要のないものです。壊れてちょうどよかったのかもしれません。ホウキとチリトリを持ってきますね」  マスターは店の中へ姿を消した。 「そういえば、ここに来る前、僕の家の方では晴れていたのに、どうしてここも晴れているの?」  ダッチが可愛らしい声を私たちに聞かせる。 「この場所は、この場所を知っている者達の中で一番心が傷ついている者の住処の天気に影響を受けると、以前マスターから伺いました」  ラテが短い指をピンと立てて話した。 「ふーん、何言ってるかわかんねぇや」 「うんうん、ほんとだぜ」  ウィンとモカが話を受け流し、少しだけ怒るラテにみんなで笑った。  掃除道具を持って戻ってきたマスターがせっせと、土とガラスをチリトリの口に食べさせる。  私は春の味が染み込んだ、桜味の水を一口飲み込む。  コップを傾け、空に顔が向くと、薄い雲を透かして月明かりが私達を眺めている。 「よかったわね、スイ、思い出してもらえて」  徐に口を開くと、ウィンも寂しそうな顔をして言葉を重ねる。 「そうだな、長かったけど、ようやく報われたって感じだな」  黙りこくるみんなに、マスターが掃除用具を置いて私たちの前に戻った。 「大丈夫ですよ、あなたたちも幸せになれますから」  マスターは私を越した遠くを見つめている。  私たちの姿がハッキリと見えるようになってきた。雲が移動し、空が姿を見せ始めたのだ。 「もう春なのですね、あちらは。今年も桜が美しく咲いています」  振り返ると、月明かりに照らされた山吹色の桜が春風とともに踊るように宙を舞う。  枝先から溢れ躍る花びらが、私の頬に引っ付いた。  私は花びらを肉球で取ってみると、自然と笑顔になっていた。  マスターがそんな私を見つめ、ニコッと微笑んだ。  再び私たちを見渡し、月明かりを被る桜の木に目を戻したマスターはゆっくりとした口調で言葉をかけてくれた。 「あなた達も、幸せになる日が必ず来ますよ。彼女達のように、幸せと感じる日が」  マスターの瞳は、青く澄んでいて、あの少年の心が満たされたのだと、どうしてか理解できた。 「ねえマスター、どうして翠さんは気づいてほしかったにも関わらず、嘘の名前を教えたの?」 「ダッチは翠よりもあとから来たから知らなかったのですか。マスター、どうしてでしたっけ?」  ダッチの疑問にラテが問いかけ、マスターに注目が集まる。 「本当の名前を公表しても、彼自身で気づいたことにはなりません。本当の幸せを手にするには、彼に気づいてもらうしかありませんと彼女にお伝えしました。ですので、極力彼女には幼少期とは別人のふりをしてもらいました。皆様もご協力ありがとうございました」  マスターは軽く頭を下げた。 「そういえば、思い出してもらいたいのにどうして翠は今年に入って連絡をやめたの? マスター知ってたりする?」  マスターは私の目を見て答えた。 「もちろんです。以前から彼女にも覚悟があったようですよ」 「覚悟って?」  ダッチが首を傾げた。 「彼女は今年の4月頃から、親元に戻るそうです。そこでもう彼とは会えなくなってしまうため、昨年までに思い出してもらえなかったら諦めると覚悟していたようです。思い出されないままあの関係が続く方が、彼女には耐えられなかったのでしょうね。彼の新月の鉢に咲いた最後の花からもその気持ちは伝わりました」  全員が納得したような顔をした。 「マスター、最後に咲いたのは何の花なの?」 「あれは、イベリスと呼ばれる花です」  白く、たくさんの花びらをつけた花を、マスターはやはり知っていた。 「ふーん、まあ親元に帰るなんて、山育ちじゃあ考えらんねぇな」 「全くだ」  笑い出すモカとウィンを全員がスルーした。 「さて、そろそろ何かお食事をお持ちいたしますね」  マスターはニコリと笑って店のドアノブに手をかけた。 「今日は本当に素敵な満月ですね」  一言放ち、店内へ戻って行った。  天を見上げ、満月を拝んでいた刹那のマスターの横顔は私の胸を強くたたいたような気がした。 「私も成長しなければってことね」  ポツリと呟き、片肘をテーブルに乗せたまま上半身を捻って振り返る。  春風が満開の桜を散らせながら、私の毛並みを優しく撫でる。  とても良い出会いをしたなと心から感じながら、私も覚悟を決めなければと、一つ大人になった気がした。  春の匂いが鼻先を擽り、見上げた天にはすべてが満たされているような、尊く美しい星の光と月明りが広がっていた。
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