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5月8日(1)
5月8日
カフェに到着するも、テラス席から溢れる違和感の正体は、椅子の数だった。いつも私が座る席は店に向かって右端なのに、その更に右側に椅子が用意されていた。
「こんばんは、みんな」
「こんばんは、ミドリさん」
挨拶を返してくれたのは左から2番目に座るイノシシのラテだった。その左側には弟のモカ、ラテの右側には狸のダッチが座っている。
「今日も素敵な夜日和ね。プチ、どうして席が多いの?」
私がいつも通りプチの横に座りながら問うと、店からマスターがマグカップを持ってきてくれた。
「こんばんは。こちら特別な意味はありませんが、ココアになります。落ち着かせてくれますよ」
そう言うマスターは私の隣の席、新しく椅子の置かれた場所に置き、指を揃えてその席を指した。
「申し訳ございませんが、本日より翠さんの席はこちらになります。お手数ですが、ご移動をお願いしてもよろしいですか?」
私は言われるがままに移動したが、席が一つ離れ、私だけ省かれたような気持ちだった。
「昨晩、翠さんが帰宅した後、新たなお客様がお見えになりました。本日そのお方がご来店されますので、翠さんとプチの間に座っていただこうと思います」
私がこのカフェを知った後に、ダッチが新しくこの場所にきた。その時のような軽い席替えのようなものだった。
「プチ〜お別れはいやだよ〜」
震わせた声で手を伸ばすと、すぐ近くにいるじゃない、と冷め切った返事だけが返された。それにみんなは笑っていた。
「驚くお気持ちはわかりますが、まずはこちらへ」
マスターは遠くを見つめて誰かに話しかけ、振り向かずとも誰かが来たのがわかる。今度はどんな動物が来てくれたのだろうと、プチに伸ばした手を引っ込めて横目で確かめると、心臓がドクンと大きく鳴った。
優しげな表情、細めの体型、薄く茶色掛かった目の色、間違いなく彼だと記憶の奥底と体全体がそう感じた。突然の再会に胸の奥が戸惑っている。言葉を探すも、見当たらない。
「チッ、人間かよ……」
人間嫌いなモカが彼を拒んでいる。私は彼から横目で向ける視線を離せずに固まってしまっている。私の体は凍ってしまったようだった。
「やめなさいモカ。失礼ですよ。うちの弟がすみません」
ラテがモカを注意する声が聞こえる。体をどうにか動かさなければ。
「ミドリ……大丈夫……?」
小声で話しかけてくれたプチのおかげで、ようやく体が動きを取り戻したが、彼から外した視線は湯気の立つココアを見つめて再び固まってしまう。体が思うように動いてくれない。ようやく出会えた事に頭がついてきてくれない。
「どうぞ、お座りになって下さい」
彼は恐る恐る私とプチの間の席に座った。緊張しているのか、特に言葉を使わずにいると、マスターが声をかけた。
「大丈夫ですよ、あなたを攻める方はいらっしゃいません。モカも、本当は歓迎していますよ」
頷く彼を横目に見るが、声をかけられない。あんなにも会いたがっていたのに、いざ突然出会ってしまうとどうすれば良いのかわからない。
「申し遅れました。私、当店『時節カフェ』のオーナーをしております。マスターとお呼びください」
マスターはこの人が私の話していた彼だという事に気づいているのだろうか。気づいていて欲しい、ココアを一口飲む私は、そう小さく願っていた。
「時節カフェ……」
彼がポツリと呟き、私はココアの甘さで焦る心が落ち着いた。そして咄嗟に言葉が喉から飛び出した。
「マスター、これとてもおいしいです」
ほんのりと後から伝わるミルクの味が、懐かしさを生み出している。騒ぎ立てていた心の雨音はいつの間にか止んでいた。彼は何も言葉を使わない。探そうともしていないようだった。再び横目で確認すると、彼は私を見ていたようだった。目が合う一瞬そう感じたが、すぐに逸らされてしまう。私はマグカップを口元に運んだ。
「お飲み物をお持ちしてよろしいでしょうか?」
顔を覗き込むようにして伺うマスターに、彼はただお願いしますとだけ答え、その時私の体が何かに照らされた。影の伸びる方とは反して顔を向けると、あまりの美しさに、うわぁ声が漏れてしまった。
「すみません、何かついてますか?」
私を見つめ、頭部をさする彼を見て私はふふっと笑みが溢れた。
「君じゃないよ、ほら」
満点の星空、そして大きな満月を指差すと、彼はそれを見て身を固めてしまった。まるで全てを失い、諦めるべきだと感じた当時の私のように、ただ天を見上げて。
「天気に恵まれて良かったです。ただ、満月でないのが少々残念です。」
空のグラスをトレイに乗せてマスターが戻った。彼には何を差し出すのだろうか。彼の前に置かれたグラスはコトッと音を立てただけで何も起こらない。
「あれは、満月ではないのですか?」
彼はまっすぐとした視線でマスターに疑問をぶつけた。
「満月は昨日でしたので、残念ながら少しばかり欠けてしまっています」
目を凝らさないとわからないほど僅かに欠けていたのが、マスターに言われて初めて気づく。完璧だと思われた月に裏切られたような気分だ。
「なんだ、満月じゃなかったのね。」
肩の力が抜けた私に、彼は声をかけてくれた。目を見て話してくれた事に、心から喜びが湧き上がる。
しかしココアで落ち着いた私は意外にも冷静だった。
「あれもあれで綺麗じゃないですか?」
「確かに綺麗だけれど、ほら、なんていうんだろ。白は真っ白だから美しいじゃない?」
完璧でなければ美しくない、と言うわけでもないけれど、満月には30日に一度の美しさがある。時間をかけて光を集め、また失っていくのだ。私はその刹那が好きだった。
私の言葉に彼は納得したような反応を見せていた。
「まあ実際見惚れていたから、本当に綺麗だとは思うよ」
作ったような笑顔しか私は見せられなかった。彼と出会えて心から嬉しい気持ちはあったけれど、私だと気づいてもらえていない事実に寂しさが残っている。
そして彼は、あまり笑わない人になっていた。その理由は定かではないが、作り笑顔が見抜かれぬよう、話を逸らさなければいけないような気がした。
「ところでマスター、この子に何を持ってきたの?」
グラスに視線を移し、満たされない中身を問いかけた。
「『入道雲と通り雨のレモン水』です」
「入道雲と通り雨?」
首を傾げる彼に、プチは口元に小さな手を添えてクスッと笑った。
「最初は驚くわよね」
プチは私を気遣ってくれたのか、気をそらしてくれた。
「私プチと言います。マスターに名前を付けてもらったの。ここにいるあなた達以外はみんなマスターから名前を貰っているの」
「あなたたち?」
再び首を傾げる彼に、プチはまたクスっと笑った。
「あなたの隣の女の子よ」
ああ、と納得する彼に、やっぱり気づいてもらえていない事実に胸の奥が縮んだようだった。
「そろそろかな?」
目を凝らすプチに、彼は真似るようにグラスに意識を向ける。
グラスの上に現れたそれは、もくもくとだんだん大きくなり、ふたをするように手のひらサイズの柔らかな空色の雲ができた。彼は言葉も放たずに見惚れていた。
雲からはいつの間にか水が滴り始めている。ぽちゃぽちゃとした音が、全員の注目を浴びている。
頭を低くし、横から眺める彼の横顔は当時のままだった。10年以上も前のことなのに、こんなにはっきりと覚えている。ようやく出会えたというのに、とても遠い存在に感じるのはどうしてなのだろう。雨音に涙を誘われているようだった。
「……雨だ」
その一言に、頬が緩む私はプチと微笑が重なった。彼の純粋で素直な表情が私を苦しめる。どうしてなのだろうか。
グラスに7割ほど水が溜まると、雨は止み、じわじわと消えていく雲の中から輪切りにされたレモンが縁の部分に現れた。まさに入道雲と通り雨のレモン水だと納得できる。
「どうぞ召し上がって下さい」
微笑むマスターを見て彼はグラスを唇に傾けた。
「……おいしい! すごくおいしいです! これどうやって作ったんですか!」
自然な笑顔に場が和む。マスターの創作物には人の感情を動かす力があった。
「それはよかったです」
マスターがニコッと笑う。
「ですが、作り方は企業秘密なので」
続けて話すと、左手の短い人差し指を口元に添えた。
「そうですよね、すみません」
彼は続けて、疑問をぶつけた。
「ところで、どうして雲が青かったんですか?」
雲は普通白であり、このグラスに現れた雲の色に疑問を持ったようだ。私自身も過去に同じようなことを訊いたことがあった。
「それはあなた方が住んでいる場所と、この場所では、色や季節などが反転してしまうのです」
「……どうしてですか?」
「空は青い、雲は白い、海はしょっぱいなど、そんな世界があるなら、逆の世界もあるものですよ。この世界ではあなたの今まで生きてきた中での固定概念は、あまりないとお考え下さい」
私も最初にマスターから受けた説明だ。彼はポカンとしていて、理解が追い付いていないようだった。
「だから今は夜なんですね……。ではどうしてこの場所の夜は、僕の世界の夜と変わらないんですか?」
それはですね、とマスターが話しかけるとモカの大きな溜息と、グラスで机を叩く音が鼓膜を震わせた。
「いちいちめんどくさい奴だな。マスター、なんでこんなやつを招いたんだよ」
「こら! やめなさい!」
人間が嫌いなモカだけれど、私はモカと仲が良かった。というのも、モカは自分の存在が他人に認められていないと感じていたようで、私が彼の気持ちや態度を受け入れると意外にもあっさりと親しくなれたのだ。
彼は少し怯えた様子だった。
「モカ、ここにいる者たちはみな、同じく悲しみの悩みを持つ者なのですから、あまり種で差別せず、まずは受け入れてみましょう」
マスターはまっすぐモカを見つめている。
チッと舌打ちをし、席から腰を離すと、そのままモカは住処へと繋がる出口に歩き始めた。
「どこへ行くのですか」
兄のラテが問うが、今日は帰るとだけ言い残して、そのまま私は四足で走り去る姿を見送ることしかできなかった。
「大変申し訳ありませんでした。私の方から後で叱っておきますので」
彼の前へと歩み寄り、ラテは頭を下げて謝った。同じ生き方をしていても、兄弟の性格というものは大きく異なっている。
「いえいえ、全然お気になさらずに……」
彼は気にしていないことを、両手と顔を横に振って伝えてた。きっといつか彼もモカと仲良くなれるだろうと、根拠もない自信だけは私の中であった。だから私が今口を挟むべきではないと思ったのだ。
「あの子も昔はあんな風ではなかったんです」
ラテは私に初めて会った時と同じ話をし始めた。一度喋ると意外にも口数は多くなるタイプなのだ。
「すみません、申し遅れました。私、ラテと申します。他の皆さん同様にマスターから名を頂きました。そして弟、モカは昔いろいろなものに興味を持っていました。そこで人間の畑に踏み入ってしまい、そのことが人間にばれてしまい。後日、複数の人間たちが私達の母と他の兄弟を殺してしまいました。私とモカはなんとか捕まらずにすんだのですが、その日以来、モカは人間に恨みを持って生きるようになってしまい……」
マシンガンのように話すラテに、空気が重くなる。
「すみません、嫌なことを思い出させてしまって」
彼が謝るとラテはまた申し訳なさそうにして頭を下げた。
「いえいえ、こちらこそこんな話をしてしまってすみません。もちろん、あなた方のような優しい方もいるとわかっておりますので、お気になさらないでください」
「ところで君は何の悩みを持っているの?」
ラテが席へ戻ると、私はようやくしっかりと向き合う覚悟を決めた。ココアも残りが少ない。
「あ、ごめんね、自己紹介がまだだったね。私はミドリ。羽に卒業の卒で、翠」
膝の上に手を置いて体を彼に向け、座り直す。ちゃんと笑顔は作れているだろうか。緊張で手が小刻みに震えているのが自分でもわかる。柔らかな微風がベージュのスカートを揺らして足をくすぐった。
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