5月7日

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5月7日

5月7日  頭の中へ徐々に高音が響きわたる。  意識が現実に戻りつつ、音の高さとリズムで目覚ましが鳴っているのがわかった。  目が覚めた。正確には目の前は真っ暗で、頭の中が覚めた状態だ。  何か夢を見た気がする。何か、なんだったろう、思い出せない。  目覚ましがうるさい。僕は頭上に手を伸ばし、鳴り響く音を止める。  なんだかいつもよりも目覚めが良い気がした。そうか、昨日早く寝たんだと思い出した。身体を起こし、音を響かせていた時計を見ると、5:14を表示させている。 「早いな……だいぶ……」  二度寝したいところだが、随分と寝ていたようで、眠気がない。  僕はしぶしぶ部屋を出て、階段をゆっくりと壁をつたいながら下へ降りる。  洗面台で両手で蛇口から出る水を掬い上げるように口に運び、ブクブクと音を立て、口の中を洗う。4回ほど行ったら、そのまま同じように運んだ水を、今度は飲み込んだ。 「何しようか……」  タオルで口を拭きながら呟いた。  することもなく、一旦部屋に戻り、着替えてみた。  青のスポーツTシャツに、白のスポーツパンツ、サイドに白のラインが入った黒のウィンドブレーカー、灰色の少し薄めのパーカーを身に纏う。 「すごくラフだ……まあいいか」  時計を見ると、ちょうど5:30だと知った。  僕はこの時間に外に出ることがあまり無いためか、唐突に散歩がしたくなった。  僕は何も持たずに部屋の扉を開けた。  僕が廊下に出て扉を閉めると、隣の部屋のドアが開いた。 「うわ! びっくりした〜。早くない?」  美月が少しボサついた髪の毛を指先で梳かしながら部屋から出てきた。 「昨日早く寝たら早く起きちゃった。学校まで時間あるし散歩してくる。」 「え? 今日学校あるの?」 「……え?」  美月の発言に戸惑った。 「あれ、今日……今日土曜日か」  自分でもなぜ昨日疲れていたのかもわかった気がした。昨日は金曜だったのだ。  曜日の確認をすっかり忘れており、今日が何曜日かわかっていなかったようだ。 「そうだよ、だから私もサークルの合宿に行けるんだよ」  美月が眠そうな顔をわずかに微笑させながら言った。 「大学に8時に集合って早すぎる……。もう少し寝かせてよ……」  唐突に時間に対しての文句が始まった。  確かに、大学は9時から授業開始と聞いていたので、いつもより1時間も早いとなると大変なのだと共感できた。 「まあ楽しんできてよ。おみやげ頼むね」  りょうかぁ〜い、とあくびをしながら返事をする美月を前に僕は階段を降り始めた。美月も僕に続き階段を降りた。  玄関のシューズボックスから青色のランニングシューズを引き出し、つま先から足を靴の中にしまった。  踵の部分が内側に入り込んだのを人差し指で直し、玄関の扉を押す。  扉を開けると、外の世界は思っていたよりも明るかった。昨日雨が降っていたとは思わせない空の綺麗さだ。東雲というのだろうか。  「こんなに朝早いのに……」  僕が感じる朝の早い時間は、世の中ではまだまだ遅いと知らされた。  春過ぎの朝。やはりまだこの時間は肌寒い。 「服装、ミスったなぁ」  両腕を軽く擦りながら呟き、散歩は少しにしてすぐ帰ろうと思った。  見慣れた建物、見慣れた木、見慣れた道を歩く。  10分ほど、いつもは出会わない時間の空に見惚れながら帰り道を歩いていると、脇道から飛び出した白い猫が僕の目の前を走り抜けていった。  僕の存在に気づいていないのか、そそくさと姿を消した。何かを咥えていたような気がする。猫も朝から忙しいのかもしれない。  家の前で、出た時とは違う色をした今日の空を目に焼き付け、家の扉を引いた。  台所で物音がする。きっと母だろう。手を洗おうと、洗面所に向かうと扉が閉まっていた。誰か風呂に入っている……。愛花はまだ寝ているだろうから、消去法で美月だと察した。  コンコンっと扉に音を立て、洗面所に入る。  水を出し、手を洗う。手のひらにたまる透明なはずの水が少し輝いて見えた。口の中に水を溜め、ブクブクと音を立て、吐き出す。  部屋に戻り、特にすることもないので学校で出された宿題でもしようと、机の横に掛けてあるリュックの中から、数学の教科書と、青色のノートを取り出し、机の上に軽く叩くように置いた。  ペン立てにしているマグカップから、シャーペンを取り出し、ノートと教科書を広げ、ペンをノートの上に走らせる。ペンが通った場所には、見事に足跡が残った。  気がつくと40分ほど経っていた。  僕は部屋から出て台所に向かい、冷蔵庫を漁ってスティックパンを手に入れた。  部屋に戻り、左手でパンを口に運びながら教科書の続きを読む。  勉強は中学の頃までは全く手を付けていなかった。しかし高校に入学してから、この学校では自分が周の人よりも少しだけ勉強ができると気づき、少しだけ頑張ってみようと思った。  パンの袋が空になり、シャーペンの芯がもうなくなってきたのを思い出した。 「本屋は……まだしまっているしなぁ……」  7時前を指す時計に目を向けながら、最寄りの本屋の店時間を思い出す。 「少し歩くけど、暇だししかたないか……」  僕はほかにやりたいことも見つからないまま、また家を出る準備をした。  小さいころお祖父ちゃんに貰った、がま口の古い財布に300円だけを入れ、ウィンドブレーカーの右ポケットに入れた。  また同じ靴を履き玄関の扉を開けた。この時間になると、少しだけ人が現れ始めた。  コンビニまで10分弱。僕は住宅街の木々を見たり、鳴き始めた鳩の声を聴きながら、ただただ歩いた。 「216円になります」  僕はガマ口財布から小銭を取り出し、不愛想な男性店員の前に置いた。  お釣りとレシートを財布に入れ、Bと書かれたシャーペンの芯が入れられたケースを右ポケットにガマ口財布と一緒に入れた。  店を出ると同時に、感情の込められていないありがとうございました、が聞こえた。  帰り道、行きとは違う道に誘われた気がして、時間をかけて帰ることにした。  こっちの道には確か、目立たない神社がある山の方だ。初詣の時でも人を見ないくらいだ。  僕自身も行ったことがないことに改めて気がついた。  住宅街の突き当たりを左折し、神社の階段が見えてきた。  僕は階段へ近づき、階段の前で立ち止まり、まじまじと階段を見つめた。  山の木や草に隠されるように存在するその階段は、所々コンクリートがひび割れ、雑草と苔の住処になっていた。  階段先には鳥居の一部が顔を覗かせている。  なぜだかわからない。僕はこの階段の先に向かいたくなった。  硬直していた右足をもちあげ、一歩、階段に触れた。その瞬間だった。木々や雑草が風に煽られ、僕の両足はまたも硬直した。  まるで僕がこの先に進んで良い人間か確かめられているような、長く、一瞬の時間だった。  その刹那に、無限の寒気と恐怖を感じた。  風が止んだ。僕の体はまた一歩踏み出すことができた。  一歩、また一歩とランニングシューズ越しに確実にコンクリートが足に触れているのがわかる。  稀に現れる、割れたコンクリートで足元がぐらつく。  段数の割に時間をかけて、登り続ける。随分と時間がかかった。およそ50段といったところだろうか。  最後の一段を左足で上がり、古びた今にも崩れ、倒れそうな鳥居を目の前に、瞬き、呼吸すら忘れ、その石製鳥居はまさに神域への出入口だと感じさせられた。  僕は鳥居を向かいに深く頭を下げた。そしてまた右足を一歩、鳥居の奥へ踏み入れた。 スズメが鳴き、草木が風に煽られている。  本殿しかない、小さな神社だと見てすぐにわかった。  僕は本殿の周りをゆっくりと見て回る。  ちょうど本殿の背中に当たる部分に、大きな穴があった。  横幅はおよそ1m、高さは僕のへそ下くらいだろうか、大人一人潜れるくらいだ。  暗くて穴の奥はよく見えない。 「なんだろう……」  外からだと、本殿の中がよく見えない。  中を見てみたい。そう思った僕は、腰を低くし、恐る恐るその穴に頭を突っ込んで覗いてみた。  言葉を失い、目が自然と見開いてしまった。  僕は確かな現実を受け入れることが出来ずに、ただ唖然とした。  本殿の穴の中には小さな街、商店街というべきだろうか。  大きく立ち上がる木を囲うように建物が並び、僕のいる場所もその木を囲んでいる建物の一つだった。  そして最も理解ができなかったのが、その街には、雨が降っていたことだ。  そこまで強い雨ではないが、これは間違いなく雨だとわかった。  僕は覗かせていた頭に、確かに雨粒が落下してくるのを感じ、恐る恐るその街へ足を踏み入れた。  体全身で、その場の天気を受け止め、中心の大木へと歩み寄った。  その大木には、約2mの間隔で仕切られた白い金属製の柵によって侵入を禁じられていた。膝くらいまで高さがあり、この先に立ち入ってはいけないのだとわかった。 「何の木だろう……」  僕はその木の1番高い枝先を見上げるようにして言葉を口にした。  やけに暗く、花も葉もない木ということしかわからなかった。  そしてすぐに、僕の顔の右側に光が差し込んだ。驚きと反射で光の方を向いたが、逆光でよく見えなかった。  僕は手のひらで影を作りながら光の方に誰かがいるのを確認できた。店だろうか。建物の中から光が溢れ、店の正面に誰か立っている。 「明日、早朝6時にまたこの場でお待ちしております」  店の前に立っていた誰かはそう言い放ち、真っ白なレンガでできた建物の中に入って行き、電気が消えた。僕は恐怖が込み上がり、小走りで入ってきた穴から外に出た。  空は……やはり雨など降っていない。しかし僕の服や頭は確かに濡れている。 「なんだったんだろう……」  僕は鳥居を出ると振り返り頭を下げた。足早に階段を下り、地面の上に自分の足が一歩ずつ前に出ていくのを確かめながら帰宅した。  この日はそのことばかり考えていて、勉強にも集中できず、その日は終わっていった。ただ、あの言葉が頭から離れず、僕は早めに寝ることにした。
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