5月8日(一)

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5月8日(一)

5月8日  僕は鳴り響く時計のボタンを、身体を拗らせて手のひらで押し込んだ。  まだ少しだけ眠気が残中、上半身を起こし、数回瞬きをして体に目覚めたことを伝えた。 洗面台で歯を磨いた後に部屋に戻り、タンスの引き出しから服を取り出す。 「今何度だ?」  取り出す服に迷い、口にした。  そういえば、ベッドの頭上部分に置いている目覚まし時計は気温と湿度が表示されるんだと思い出した。  僕はタンスの前からベッドのほうに移動し、また目覚まし時計に触れる。 「今は……16℃か」  目覚まし時計には5時13分の表示と、16℃、64%の文字が表示されていた。  昼間は暖かくなるだろうが、まだ日が出てきたばかりの朝だ。少し暖かい服にしよう。  僕はタンスから白のトレーナーと黒のチノパンを引っ張り出した。  服を体に纏い、デニムの膝上くらいまで長さがあるアウターを羽織った。  時計は5時25分を表す。  家を出るにはまだ早い。なにをしようか。いつもは空いた時間にスマホを見ないが、今日はロックを解除し、ホーム画面を覗いてみた。 「あ、忘れてた」  ぽつりと呟いた。  僕は大地からのメッセージに返事をするのを忘れていたことに気が付いた。 【そうなんだ。いつなの?】  僕は断りの連絡をしたかったが、すぐに断るのはさすがに申し訳ないと思った。  日にちを訊いて、ありきたりな理由で断ろう。   僕は嘘が入り混じったメッセージを送ると、スマホをベッドの上に投げ置いた。  時間が余る。  僕は再びスマホに手を伸ばし、ベッドの上に座って検索エンジンを開いた。 “四時の空”と検索し、出てきた曲の再生ボタンを押し、3曲ほど流したところで停止した。  どの曲も、ありきたりで胸に響かなかった。  やはり自分はつまらない人間なのだと、それだけがわかった。  僕はスマホの画面に小さく表示された時刻に気づいてベッドを立ち上がる。 「行かなきゃ」  あの人が誰だったのか、あの場所は何だったのか。  空はなぜ青いのか、海はなぜしょっぱいのか、そんな疑問を持つ子供のように僕は昨日の光景が気になっていた。  玄関の扉を開け外へ踏み出した。 「え、雨……」  今日の天気のことなど考えていなかった。  僕は家の中に一歩戻り、傘立てからビニール傘を引き出した。  傘を開き、雨の降り滴る神社へと自分を運んだ。  行き道、僕は透明な傘を盾に、向かい落ち続ける雨を眺めた。  強いとも弱いとも言えない雨が、僕の傘と地面を叩く音だけが響く。  世界から雨の音以外が消えたようだった。稀に遠くからタイヤが水を弾き飛ばす音が聞こえたりした。  雨の音に耳を澄ませ、歩き続けるとだんだんと神社のあるあの小さな山が見えてきた。  心臓が大きく動き出したのを感じ取り、僕は神社に続く階段の前で足を止めた。  この先に、昨日出会った人は誰だったのか、あの空間は何だったのか。その答えがわかるだろう。  僕は止めていた足を右から一歩、踏み入った。  雨が降り続け、滑りそうなのが怖い。  僕は崩れ落ちそうな石段を一歩一歩、ゆっくりと上がり続けた。  雨がだんだんと弱くなっている気がした。木の葉に溜まった雨が大粒になって僕の傘を叩く。  階段を上り切り、鳥居の前で足を止めた。鼓動が強く、心臓の存在感を知らせる。階段を上ったからなのか、それとも緊張なのだろうか。  僕は鳥居に向かって一礼し、一歩、足を踏み入れ中へ入る。  水溜まりを避け、本殿の右側から後ろへ回り、大きな穴がある事を確認した。 「やっぱりある……。入って大丈夫だよな……」  昨日とは違い、中へ入るのに躊躇った。  僕は背筋を伸ばして大きく一度深呼吸をし、意を決して傘を畳み、もう一度本殿の中へと入った。  中へ入ると、右側から温かみのあるオレンジ掛かった光が僕の目に差し込んだ。  反射で光の方へ視線を向ける。  光が漏れだす店の前から複数人がワイワイと談笑をしているのがわかった。テラス席でこちらに背を向けている。  僕が遠くからその姿を確認すると、どうぞこちらへ、と耳から頭へスッと声が入り込んできた。この声は昨日聞いた声と同じだとすぐにわかった。  僕は声と光の元へと踏みより、会話をしていたグループの人々を確認すると足が止まった。  えっ、と息を漏らすように言葉が出た。  僕が勝手に人と認識していたグループは、一人の女性と紛れもなく本物の動物だった。 「驚くお気持ちはわかりますが、まずはこちらへ」  僕は逃げ出してしまおうかと迷った。  夢なのかもしれない。はたまたテレビ番組のドッキリなのかもしれない。色々な思考が頭の中で浮かび上がり、恐怖すらあった。 「チッ、人間かよ……」  立ち尽くしていると少しだけ高い声が僕を拒まれた。 「やめなさいモカ。失礼ですよ」  僕は唾を飲み込み、恐る恐る近寄る。  そこにはテラス席であるが、カウンターのように横並びのテーブルと、いくつかの椅子があった。 「うちの弟がすみません」  左から2番目に座っているイノシシが僕に頭を軽く下げて謝った。その左側にいるのが弟のイノシシだろう。  弟はそっぽを向いて謝る気はないのが伝わる。  兄イノシシの右側には狸だろうか。そしてその横に真っ白な猫、一席空けて、女性が座っている。  僕は状況を掴めず、席の前で足を止める。 「どうぞ、お座りになって下さい」  この頭へ入り込んでくる声の主は店主であり、体は白色、顔は薄く灰色掛かった猫であった。そしてその瞳は、とても猫とは思えない様々な青色が混ざり合っていた。空色、群青、白群、藍色、まるでビー玉のような瞳の中に一つの宇宙が広がっているようだった。  僕は店主の小さな手の平が指す席に着く。白猫と女性の間の席だった。  僕が緊張で委縮していると、店主が続けて口を開く。 「大丈夫ですよ、あなたを攻める方はいらっしゃいません。モカも、本当は歓迎していますよ」  その言葉に返す言葉が見つからず、小さくコクリと頷いた。 「申し遅れました。私、当店『時節カフェ』のオーナーをしております。マスターとお呼びください」  マスターと名乗る、人並みに身長のある猫は黒いエプロンの前に右手を添え、真摯に腰を折る。 「時節カフェ……」  僕がポツリと声を漏らすと、今度は隣の女性が口を開く。 「マスター、これとてもおいしいです」  僕はその言葉に引っ張られるように女性に目を向けた。  肩下まで伸びる茶色を帯びたすらりと伸びる髪型に、アーモンド型の二重、まっすぐな鼻筋、薄紅梅の唇。  まさにその人は美しさそのものだった。それ以上の言葉が見つからなかった。僕は初めて、人に対して美しいと感じた。  衝撃を隠すように目を逸らすと、女性は一口右手に持つ黒いマグカップを口に運んだ。 「お飲み物をお持ちしてよろしいでしょうか?」  マスターと呼ばれていた猫は体を傾けて、僕の顔を少しだけ覗き込んで訊いた。  反射的に、はいと答え、それと同時に店とは別の光が、僕と僕の周りを照らした。  うわぁと右側から言葉が漏れる音が聞こえた。  女性を見ると、僕の頭のてっぺんを、目をキラキラ輝かせながら見つめていた。 「すみません、何かついてますか?」  僕は頭を触りながら女性に尋ねた。  女性はふふっと口に手を添えて笑いながら答えた。 「君じゃないよ、ほら」  女性の指方向を見上げた。  その時、僕の瞳に光が差し込んだ。  雨が降っていた空には、数えることができないほどの星、そして月が天の中に沈んでいたのだ。  言葉が見つからなかった。こんな良い月を、僕は見たことがなかった。  街灯のいらない夜をこの時初めて知った。  僕はその月をどのくらい見つめていたのだろうか。何秒、何分、あるいは何年も経っているような気さえした。 「天気に恵まれて良かったです。ただ、満月でないのが少々残念です」  声が聞こえて僕はふと我に返り、店の方へ顔を向けた。  飲み物を持ってきたマスターが、僕の前にコトっと音を立てて空っぽのグラスを置いた。 「あれは、満月ではないのですか?」 「満月は昨日でしたので、残念ながら少しばかり欠けてしまっています」  目を凝らさないとわからないほどに小さく欠けていたのが、マスターに言われて初めて気づいた。 「なんだ、満月じゃなかったのね。」  肩の力がストンと抜けた女性は、また体をテーブルへと向け直す。 「あれもあれで奇麗じゃないですか?」 「確かに奇麗だけれど、ほら、なんていうんだろ。白は真っ白だから美しいじゃない?」  絞りだしたような例えに、妙に納得してしまった。 「まあ実際見惚れていたから、本当に奇麗だとは思うよ」  女性はニコリと笑う。  笑顔の絶えない人だなと思った。 「ところでマスター、この子に何を持ってきたの?」 「入道雲と通り雨のレモン水です」 「入道雲と通り雨?」    僕は不思議に思い、首を傾げると隣の白い猫が口元に小さな手を添えてクスっと笑った。 「最初は驚くわよね」  猫は話を続ける。 「私プチと言います。マスターに名前を付けてもらったの。ここにいるあなた達以外はみんなマスターから名前を貰っているの」 「あなたたち?」  再び首をかしげると、猫はまたクスっと笑った。 「あなたの隣の女の子よ」  ああ、と僕は納得すると猫はグラスに目を向けた。 「そろそろかな?」  僕は猫の視線を追うと、グラスの上に何かが創られ始めた。  グラスの上に現れたそれは、もくもくとだんだん大きくなり、ふたをするように手のひらサイズの柔らかな空色の雲ができた。  僕は言葉も放たずに見惚れていた。  雲を見ていると、グラスの中からぽちゃぽちゃと音が聞こえ始めた。  僕は頭を低くし、グラスを横から眺めると、雲から水が滴っているのが確認できた。 「……雨だ」  僕は驚きから言葉が漏れ、両隣にふふっと笑われた。  グラスに7割ほど水が溜まると、雨は止み、じわじわと消えていく雲の中から丸く切り分けられたレモンが現れた。まさに入道雲と通り雨のレモン水だと納得できた。 「どうぞ召し上がって下さい」  マスターはニコッと笑い、僕はグラスに手を伸ばした。  一口、レモン水を口の中に流し込む。 「……おいしい! すごくおいしいです! これどうやって作ったんですか!」  わずかな酸味とほんのりと口の中に広がる甘みがとても飲みやすかった。 「それはよかったです」  マスターがニコッと笑う。 「ですが、作り方は企業秘密なので」  続けて話すと、左手の短い人差し指を口元に添えた。 「そうですよね、すみません」  僕が謝るとマスターはいえいえと答えた。 「ところで、どうして雲が青かったんですか?」  雲は普通白であり、このグラスに現れた雲の色に疑問を持った。 「それはあなた方が住んでいる場所と、この場所では、色や季節などが反転してしまうのです」 「……どうしてですか?」 「空は青い、雲は白い、海はしょっぱいなど、そんな世界があるなら、逆の世界もあるものですよ。この世界ではあなたの今まで生きてきた中での固定概念は、あまりないとお考え下さい」  ポカンとする僕は更に質問をした。 「だから今は夜なんですね……。ではどうしてこの場所の夜は、僕の世界の夜と変わらないんですか?」  それはですね、とマスターが話しかけると、僕の左側からはぁーという大きな溜息とともに、グラスで机を叩く音が聞こえた。 「いちいちめんどくさい奴だな。マスター、なんでこんなやつを招いたんだよ」 「こら! やめなさい!」  イノシシの兄弟だった。  僕は何か気に障ることをしてしまったのだろうか。 「モカ、ここにいる者たちはみな、同じく悲しみの悩みを持つ者なのですから、あまり種で差別せず、まずは受け入れてみましょう」  マスターはまっすぐモカを見つめていた。  モカはチッと舌打ちをし、席を立ちあがってどこかへ歩き始めた。 「どこへ行くのですか」  兄が問うと、モカは今日は帰るとだけ言い、僕が入ってきた入り口とは違う方向へと去った。 「大変申し訳ありませんでした。私の方から後で叱っておきますので」  イノシシの兄は僕の前へと歩み寄り、頭を下げて謝罪をした。 「いえいえ、全然お気になさらずに……」  僕は両手と顔を横に振り、気にしていないことを伝えた。  しかしどうして僕の事をあそこまで拒絶するのかは疑問に思った。 「あの子も昔はあんな風ではなかったんです」  心が読まれたのかと思うくらいのタイミングで、兄は昔話を始めた。 「すみません、申し遅れました。私、ラテと申します。他の皆さん同様にマスターから名を頂きました。そして弟、モカは昔いろいろなものに興味を持っていました。そこで人間の畑に踏み入ってしまい、そのことが人間にばれてしまい。後日、複数の人間たちが私達の母と他の兄弟を殺してしまいました。私とモカはなんとか捕まらずにすんだのですが、その日以来、モカは人間に恨みを持って生きるようになってしまい……」  マシンガンのように話すラテに、僕は同情と罪悪感が生まれる。 「すみません、嫌なことを思い出させてしまって」  僕が謝るとラテはまた申し訳なさそうにして頭を下げた。 「いえいえ、こちらこそこんな話をしてしまってすみません。もちろん、あなた方のような優しい方もいるとわかっておりますので、お気になさらないでください」 「ところで君は何の悩みを持っているの?」  ラテが席へ戻ると、少し重い空気を換えてくれるように横から声が聞こえた。 「あ、ごめんね、自己紹介がまだだったね。私はミドリ。羽に卒業の卒で、翠」  改まって体を僕に向け、膝の上に手を置いて大きな目を細めて僕に話してくれた。ユラユラと足元で優しく揺れるベージュのスカートが印象的だった。
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