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5月8日(二)
「羽に……卒……」
僕の反応に翠さんは首を傾げた。
「どうかなさいましたか?」
マスターが口を挟む。
「……いえ、どこかでその字を昔見たことがある気がして……」
「……そうですか。思い出というものは引き出しのようなものです。今はきっとどの棚の、どの段にしまったか、手探りで探している状態なのでしょう。きっといつか思い出せますよ」
はぁ、と軽くうなずくと、あなたは? と翠さんに問われた。
あっはい、と返事をして、僕も翠さんの方へ体を向けた。
「僕は颯です。立つ辺に、風です」
「颯君ね、よろしく。あと敬語じゃなくていいよ。なんか話しにくくなっちゃう」
翠さんは長い髪の毛を耳にかけながら微笑んだ。
「あ、はい。わかり……わかった」
「で、颯君の悩みとは?」
少しだけ前かがみになって興味津々で訊いてきた。
「悩み……正直、特に悩みなんてないのですが……」
僕はうーんと唸って、顎に手を添えて考えた。しかし答えは出なかった。
「僕は今特に困っていることもないし、誰かに相談したいこともないし」
そもそも質問の意図はなんなのだろうか。
モカもマスターにどうして招いたんだ、と言っていたし、悩みのある人が集っているのだろうか。
「もしかして悩みを抱えている人達だけがここに招かれるのですか?」
僕は顔を横に向け、疑問をそのままマスターにぶつけた。
「ご名答です。そして招いたのも私です。招いた理由ですが、あるコーヒー店つながりで貴方を知り、是非この店にもご来店していただきたいなと思いました」
確かに僕は昨日、この場所でマスターに明日お待ちしています、と言われた。しかしこの場所を知ったのはたまたまだ。招いたとはどういうことだろう。僕が疑問に思うと、見抜いたかのようにマスターは続けた。
「直感を頼りに歩いていると、この場所を見つけた。合っていますか?」
マスターの質問に少し驚きつつ、はいと答えると更に続けた。
「すべての出会いは偶然の連続であり、偶然が運命である。出会いとはそうではないでしょうか。私が招いたのは、あなたの気まぐれな偶然ですよ」
マスターの言葉が僕には少し難しかった。しかしそれを聴いていた他の人はうんうんと頷いていた。
「ところで颯君は不思議に思わないの?」
また翠さんから問われた。
「何が?」
僕は首を少し傾けて問い返した。
「ここに来るときの入り口、どうしてここに繋がっているのかとか……」
翠さんは羽織っていた藍色のジージャンが肩から落ちそうになっていたのをかけなおす。
「あ! そうだ、それも不思議に思ってたんだった!」
僕が目を大きく開くと、翠さんはあははと口元を隠しながら笑い出す。
「この世界にはどうやって移動できたんですか? ……というよりも、ここはどこなんですか?」
僕は両眉を近づけ、マスターに向かって疑問をぶつけた。
「そうですねぇ、ここは地球の中にある宇宙、といったところでしょうか
「地球の中の宇宙?」
マスターがまた難しい話をしようとすると、翠さんが横で飲み物を一口喉に流し込む。
「あなたたちは普通、地球という星の上を歩きますが、逆もしかりで、ここは地球の下側に当たります。地底とはまた異なりますが、裏世界のような存在です」
マスターの話す内容が小難しく、首を傾げたが、マスターは続けた。
「また、通常の地球の反対側に位置しているので季節感、色、空などもあなた方の世界とは異なります」
「季節感……?」
マスターの言葉を一部復唱した。
「ええ、今あなたは何月を生きていますか?」
「えっと、5月です」
「ならばその反対、今この世界は11月の季節となります」
マスターは僕から中央の大きな木へ目を移し、続けた。
「あの中央の大木、あちらがこの世界の季節を表してくれています。11月なので、今あの木には葉がないのです。そしてあなた方の季節で言う春と秋には見ものですよ」
マスターはまるで大木に話しかけるように語った。
その姿は凛としていて、真っ直ぐな目をしていた。
「そろそろ何かお食事をお持ちいたしますね。皆さま少々お待ちを」
ニコッと笑い、一礼した後に店内へとマスターは一度姿を消した。
「そうだプチ、またあのおじいさんのところに行ったんだって?」
どこかか弱い声の持ち主は、プチの横に座っていた狸だった。
「そうよ、悪い?」
プチは胸を張って口元をクイっとあげ、どこか少しだけ不機嫌になった。
「ううん、いつまでも感謝の気持ちを忘れない君が素敵だなと思ったんだ」
狸は、か弱そうな声とはギャップに、自分の意思をはっきりと伝えた。
「あら、ダッチちゃんったら、いいこと言うじゃない」
「だから僕は男だってば!」
たわいも無い会話に、翠さんもラテもフフッと笑っていた。
僕が何のことか分からなかったのを察したのか、翠さんが口を開く。
「プチはね、前にカラスに襲われていた所をおじいさんに助けてもらったんだって。で、その人に今でもお礼をし続けてるんだって」
僕はゆっくりと頷きへぇと声を漏らす。
翠さんの話を続けるようにダッチが話を繋げる。
「で、今でもここから4駅も離れた場所に花を届けに行ってるんだよ」
「4駅も!?」
僕は驚きが声となった。
「余計なことを言わないでよダッチ!」
怒ったプチがダッチの背中を鈍い音を立てて叩いた。
「まあまあ、ダッチの言う通り、素敵ですよ」
ラテがプチを宥めるように両手を小さく仰いだ。
「伝えられない想いって、無惨だわ」
頬杖をついて、ため息を漏らすプチに僕は疑問を吐いた。
「というか、どうして僕たち違う生き物なのに話が通じるの?」
「この空間は不思議なことばかりなんだ。こうして話せるのも、不思議なパワーってやつなんだよ」
ダッチが両手をめいっぱい広げて話していると、マスターが円盤の形をした木製のトレイを持って戻ってきた。その上には白い小皿が人数分乗せられていた。
「はい、ここは皆さまが生まれた環境とは大きく異なります。どのような力なのかは私も詳しくは存じ上げませんが、心で会話していることは知っています」
「心で?」
僕が言葉をぶつけると、マスターは小皿を配りながら続けた。
「はい、会話というのは言葉だけでは成り立ちません。視線、表情、態度、他にもさまざまなものが関係しますが、特に大切なのは心なのです」
小皿と小さなスプーンを配り終えると、短い人差し指をピンと立てて続ける。
「言葉は心が原動力として現れます。つまり会話を成立させる言葉は元を辿ると心に辿り着くということです。この世界では、外の世界とは違い、言葉ではなく心で会話しているのです。そのため言葉が異なっていようと、会話が成立してしまうのです」
ぽかんとして口が少しだけ開いている翠さんを見て僕は口を挟んだ。
「つまりは、僕らは言葉ではなく心をぶつけ合っている。テレパシーのようなものですか?」
「ご簡易していただきありがとうございます。イメージとしてはそのように捉えていただいて結構です。それぞれ心の声をプチには猫の形、ダッチには狸の形、ラテとモカにはイノシシの形、そしてお二人には人間の形として変換され、聴こえるのです」
「難しいなぁ。けどすごいのは伝わりました」
頬杖を立てながら翠さんは目を細めた。
「そして皆様にお配りしたこちら、星屑と満月のフルーツゼリーでございます」
小さな透明な小皿に入れられたのは、奇麗なネイビー色をしたゼリーに、金箔が混ざり、それを囲うようにリンゴ、ミカン、桃やブドウなどの様々な果物が入っている。そして一番綺麗に輝いていたのは、空に浮かぶ月がゼリーに反射していて、まるで月がゼリーの中に紛れているようだ。
そのゼリーはまるで僕達の頭上にある夜空だった。
「あ、すみません、僕お財布を今日持っていなくて……」
手ぶらできたことを思いだし、突然出された商品に焦りを隠せなかった。
「ご心配は無用ですよ」
ニコリと笑うマスターに、言葉を繋ぐようにダッチが口を開いた。
「この店、対価ないから大丈夫だよ」
「え!?」
そんなはずはないだろうと、僕は思わず目を見開く。
「まあ、マスターがいいって言うならいいじゃない」
でも、と僕が受け取りを断ろうとするとマスターはニコリと微笑んだ。
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
僕がスプーンに手を差し伸べようとすると、翠さんはスプーンを両手の親指に挟み手を合わせ、いただきますとつぶやいた。
僕も手を合わせ、いただきますと言い、スプーンをゼリーの中に差し込んだ。
味はサイダーのような味がした。しかし甘すぎず、口の中がさっぱりとするような、とても食べやすいものだった。
深い青色をしており、その割には苦みや食べにくさなどがない。初めての味だった。
全員がゼリーを食べ終えるとマスターは左手首に着けている時計の針を確認し、そろそろお開きにいたしましょうと話した。
「本当に何も払わなくていいんですか?」
「皆様とお話ができて楽しい時間を過ごすことができました。それだけで充分です。またいつでもお越しください」
マスターは再びニコリと笑った。
「あれは渡さないの?」
テーブルに乗せた腕に体重をかけるプチが口を開いた。
「あ、そうそう、ありがとうございますプチ」
マスターが店内に戻り、再び戻ってきたと思うと、何やらガラスの容器を持ってきた。中には何かが詰まっている。
「これは?」
僕が問うと、コトッと音を立てて僕のテーブルの前に置いた。
「こちらがあなたの『月の鉢』になります」
まん丸の、まるで満月がイメージされたような形だった。
「鉢?」
僕が首を傾げるとマスターは続ける。
「あなたの悩みを解決してくれる花が咲きます。直接は解決してくれなくとも、いずれは役に立つことでしょう。しかしご安心を。皆様に馴染みがあるよう、花の色はそちらの世界と同じものが咲きますので」
疑問を作る暇もなく続けられる情報に少し頭が追い付かなかった。
「えっと……どうしてここに咲く花は色が逆にならないのですか?」
ふり絞って出した質問にマスターが答える。
「そちらの世界の土を混ぜてありますので……この鉢と土は言わば二つの世界の組み合わせのようなものです」
へー、と声を漏らすとマスターが鉢に添えていた手を離した。
「では、よく見ておいてくださいね」
僕は少しだけ顔を近づけた。
「わっ!!」
翠さんが僕の肩を叩いて驚かし、反射でビクンと体を震わせた僕を見て、あははと笑う。
「びっくりしたぁ……」
「あ! ほら、観て!」
プチが声を上げた。
鉢に目を戻すと、小さな芽が出てきた。僕から見て鉢の12時の位置だ。
芽はみるみるうちに大きくなる。
「成長が早い……」
驚きが言葉となって表れた。
1分もしないうちに芽は大きな葉を創り、小さな花を複数咲かせた。ピンク、赤、オレンジ、黄、白など、一度に多く彩った。
「ほう、これは珍しい」
マスターが顎に手を添えて花を覗き込んだ。
「何が珍しいんですか?」
「この鉢には大体、様々な花が咲くのですが、一むらの中でこのように多くの色を咲かすのは私もほとんど見ません」
へーと声を漏らすと、あなたは愛されてるわね、とプチが呟いた。
どこか寂しそうな顔をしていて、どういった意図で言われたのか僕には何もわからなかった。
「そしてこちらは、カランコエ、ですね」
「カランコエ?」
「ええ、この花の名ですよ」
初めて聞く名前の花だ。
「こちらは私が責任を持って見守ります。ご安心ください」
マスターは体を横に向け、翠さん側のテーブルの端に手を伸ばす。
手の向き先にはいくつもの鉢が置かれている棚がある。
「あちらに皆さまのものとご一緒に飾って下さい」
僕は言われるがままに立ち上がり、鉢を棚の三段あるうちの上段、半月のような、円を半分に切った形の鉢の隣に置いた。
半月のような鉢に花は咲いていない。
他にも月の形をイメージしたような鉢がいくつかある。
きっとみんなのものなのだろう。
「じゃあまたねだね、颯君。あ、ID交換しようよ」
ポケットからスマホを取り出し、メッセージアプリを開こうとする翠さんに申し訳なく、遺憾だった。
「ごめんなさい、スマホは普段持ち歩かなくて……」
「そっか、じゃあ次いつここに来る?」
「次……ですか?」
僕は今日限りのことだと考えていたので、次にここに来ることなど考えてもいなかった。
「そう! 次! またここで会おうよ!」
無邪気な笑顔で言う翠さんに僕は戸惑ってしまう。
「じゃあ、梅雨に入った日にここで会おうよ」
梅雨入りがいつになるかわからず、また僕は戸惑う。その日に予定が入ってしまったら、行く事ができない。
うーんと僕が唸っていると、翠さんがまた口を開く。
「もし来られなくてもいいよ。そしたらまた考えるから」
優しい声だった。
「ありがとう。できるだけ行けるようにはするよ」
僕が浅く頭を下げると翠さんは少し前かがみになって僕の顔を覗き込むように訊いた。
「というか颯君って、何年生?」
「えっと、高2です」
「お、じゃあ後輩君だね」
「え? 翠さんは何年生?」
「高校3年生です! 敬いなさい!」
自慢気に指を三本立てた翠さんに僕は少し驚いた。
「ええ! 一個差! あんまり変わらないじゃん!」
「生まれて一年の差は大きいぞー」
にやにやと笑みを浮かべていた。
「いえ、そうではなくて、もっと大人な方というか、大学生くらいの方かと思ってました……」
「え! 私そんなに若く見えない……?」
眉同士を近寄せ、悲しげな表情を見せられた僕は慌てて弁解した。
「そうではなくて、とても雰囲気が大人だなと感じて……」
そういうと翠さんは大人かぁと呟き、どこか満足したような表情になった。
「まあ許して差し上げよう後輩君」
胸の前で腕を組み、先輩感を出す翠さんはどこか無邪気で、子どもな雰囲気を出していた。
「あ、ありがとうございます」
その姿に思わず微笑してしまった。
「じゃあ私はそろそろお先に行きますね」
翠さんとの会話に夢中になっていると、ラテが帰ろうと席を立った。
じゃあまたねと、ダッチも続くように席を後にする。
プチはまだ席から離れず、僕と翠さんの会話を食べるように見ていた。
ということで、と翠さんがパンっと音を作って手のひらを体の前で合わせながら話の続きを始めた。
「梅雨入りの日、放課後ここに集合ね! あ、学校ない日だったらお昼の12時に集合しよ!」
テンポ良く進む話に僕ははいと承認するしかなさそうだった。
「じゃあ私も、そろそろ行くね」
テーブルに手をついて立ち上がる翠さんを見上げると、翠さんは月を一度だけ見上げて、大木の反対側へ歩いていく。
木を過ぎたあたりで一度立ち止まり、振り返った。
「じゃあ約束、忘れないでね」
小さな黒い鞄を片手に、空いた方の手をこちらに振っていた。
僕が会釈すると、前を向いて建物の隙間へと歩き始め、暗闇に姿を消していく。
ゆらゆらと揺れた、サラサラな長い髪が、どこか寂しさを演出していたように見えた。
「では僕も行きますね」
マスターとプチに伝えると、プチが頬杖をついて話し始めた。
「あなたとはなんだか少しだけ長い付き合いになりそう」
首を傾げてどうしてですかと尋ねると、プチは少しだけ目を細めた。
「そんな気がするだけよ。さ、私も行くわ。出口まで一緒に行きましょう」
マスターにお礼を言い、傘を持って帰りの出口へと向かうと、プチも僕の隣を歩いて着いてきた。
「私もこっちなの」
真っ直ぐ前を見て足音も立てずに4本の短い脚で歩くプチを、僕はただ見下ろしていた。
「またいつか会いましょう」
プチは歩きながら僕を見上げている。
「え? 梅雨入りの日には……」
少し驚きつつ、僕が答え切る前にプチはまた口を開く。
「ううん、基本的にカフェには夜の時間帯……私たちの世界の朝の時間帯にしか来ないの」
「どうして?」
「あっちの昼はこっちの夜だから、時間帯を間違えるとお店閉まってるからよ」
あ、そうかと僕は右手をグーにして、左手のひらに軽く叩いた。
「この場所は素敵な場所だし、またあの月も見たいな」
「あっちの世界にはないものが沢山あるものね。」
出口から外へ戻ると、雨はまだ降り続いていた。
プチは振り返り、一度だけミャーと鳴いて山へ走り去っていった。
僕も帰ろうと思い、鳥居に一礼してから階段を下った。
帰り道に、翠さんの横顔が頭をよぎった。
あの表情……気のせいか。
店から漂っていたコーヒーの匂いがまだ鼻に残る。
帰り道、僕は朝ご飯のことを考えていた。
少しお腹が空いた。
鼻に残るコーヒーの匂いと雨の匂いが混ざる。
雨音が鼓膜を震わせる。
帰り道で、靴が少し濡れた。
僕はこの日、何かを得た気がする。何かはわからない。何か、得た気がした。
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