記念日のはじめに

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記念日のはじめに

 その年の9月6日は最初の結婚記念日だったので、水希(みずき)がずっと行きたかった創作懐石料理のお店で食事をした。  そこは大谷石(おおやいし)を使った石蔵風のお店で、その石が持つやや緑がかった美しい光彩に満ちた店内は、記念日にぴったりの雰囲気だった。 「美味しいね」  夫の雪和(ゆきかず)が言った。  先附、八寸に続いて、鰆やかんぱちのお造りを口にしたときだ。 「ね、来て良かったでしょ」 「うん、良かった」  そんなふうに何気ない会話をしながら、対面する夫の顔を改めて見つめていると、せっかくの記念日ではあるけれど、深いため息が出る。  そのため息の理由は二つあって、一つ目は、実は結婚前から抱えていたものだ。  夫には冗談半分にも言えないことだが、「結婚したらもう恋愛はできない」という憂鬱である。  水希は、もうちょっといろいろ恋愛をしたかったなぁと思いながら結婚した。ただしこれは自分の側の問題なので彼がどうこうという話ではないし、水希自身も、ある程度は折り合いをつけて日常を生きることに、今のところ成功している。  もうひとつが重要で、結婚の相手が彼である(、、、、、、、、、、)、という点であった。  雪和は非常にマイペースな人間で、独特な理屈と世界観を持ち、そのくせ我が道を堂々と歩めるほど強くもないので、何かと悩みやすい。また内容が個性的なのでその悩みを共感してあげることは困難であり、かつ、いったん悩み出すと復活するまで長いと来ているので、付き合うのはけっこうな労力が要る。  そういうこともあって、水希は時々、「この人にはついていけない!」と感じるのだ。  一つ目の理由とは違って、これは本人にも直接言える。  時には真面目な顔をして、時には冗談交じりの軽口で。  付き合っていく時間の中で、水希は何となく言い方を心得てきた。敢えてイライラの感情を言葉に乗せる方法や、鈍感な彼にでも分かる上手な皮肉を。  記念日の食事の際も、そんな話をした。 「私は、どうして雪ちゃんと結婚したのかなぁ」 「えっ、だって、雪と水だからぴったりだねって」  案の定、夫はトンチンカンな答えをした。  確かに二人を知る者は結婚の報告をした際、雪和と水希という名前を並べて「いい組み合わせだね」と称したものだ。だが今は、そんな話をしているわけではない。 「もう結婚しちゃったからしょうがないよなぁ」  水希は頬杖をついてそう呟くと、チラ、と夫の表情を確認した。 「記念日なのに、そんなこと言わなくていいじゃん」  彼は少しふてくされたような顔を見せたけど、水希は気付かないふりをした。そして記念日らしい話題をと思って、「今までいろいろあったよね」と言ってみた。そうすると彼も、安心したような表情になる。  この記念日の食事は、ほとんどが思い出話になった。
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