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鈍痛のように夏が降り注ぐ
病院には行かないわけにはいかない。
わずかでもマンションを出るのは一月ぶりのことだった。
見上げた空からは鈍痛のように夏が降り注ぐ。
夏空は、意外なことにパステル・ブルーで、刷毛でなすったような薄い雲が流れている。日差しは太陽の悪意すら感じさせて強く、大気は焼けた塩の匂いがした。
マンションのエントランスからタクシーまでのわずかな距離で、わたしは既に薄い汗の膜に包まれている。
病院では主治医と話した。大きくて暖かそうな手をした彼は、温厚で声を荒らげるということがない。今日も穏やかに「はやく義肢を使い始めるように」わたしを諭した。
いつまでも義肢を使わないでいると脚の筋肉が衰えてしまい、それだけ義肢に慣れることが困難になると、彼は愚な娘に何度目かの懇切な説明を繰り返す。
「さもなくば車椅子を」
わたしが「わかりました」と答えるのも何度目だろう。けれど心の中では、わたしのような生き物に、脚が二本も必要だろうかと考えている。
帰路、わたしは気まぐれを起こしタクシーを駅に向かわせる。
バリアフリーの進んだ大きな駅で、然したる不便もなくわたしはホームに立っていた。もちろん、義肢も車椅子も拒み続けている、わたしの姿は人目を引く。それに疲れ果てていた。自分の今の身体に慣れるということを、わたしは怠っているのだから。
夏の昼下がりのホームに、人影はまばらで、熱い大気だけが透明な油のように重く淀んでいる。吹き抜けの上空から降り注ぐ光がコンクリートを焼き、線路に陽炎を立たせる。線路と平行の路を一台の自転車が滑るように走る。そのベルの音だけが、ホームで鳴っているかのように聞こえる。
人気がないことは客車も同じで、わたしは誰にも煩わされずにシートに潜り込む。わたしは何がしたかったのだろうか。わたしは車窓から流れていく世界を眺める。線路に直交する水路は、緑の流れに白いボートを浮かべている。老人福祉と看板を掲げた、灰色の醜い建物が窓を過ぎって行く。タクシーの窓からでも同じものが見えたはずだと、わたしは思う。
自宅の最寄り駅でわたしは失策をした。何故か階段を使って下へ降りようとしたのだ。近くにあるエレヴェータを使えば何の問題もなかったはずなのに。
今の自分に向き合っていないわたしは、自分にできないことをよく解っていない。
もしかしたら、そんなことではなく、単に、かつての自分と取り違えていたのかも知れない。
階段は幅の広いタイル張りで高架の駅と地表を繋いでいる。見下ろした時、階段のスロープは緩やかに見え、それを下ることは簡単に思えた。
最初の一、二段目でわたしは後悔した。
段を降りる動作は驚くほどに難しかった。何より恐ろしかった。
このコンクリートとタイルでできた傾斜を、転げ落ちていく自分が脳裏を過った。杖は暑さのそれとは異なる汗でぬめるようになった。
それでも意地を張って、わたしはなんとか中ほどの踊り場まで辿り着いた。
そしてそこで動けなくなった。
もっと早くに諦めて、上に戻れば良かった。今更の思いに、わたしは唇を噛む。
わたしは手摺にもたれて呼吸を整えようとした。這うように、耳の後ろから首筋へ動いていく汗の流れを感じる。どうすればいいのかが分らない。
「どうしたの」声が掛った。「大丈夫?」
わたしは声の主を見た。まだ若い、白いワンピースの女性だ。
「もしよかったら」
「よくありません」ひどく固い声が出た。こんなときわたしの中から何時も出てくる声だ。
そうしてわたしは、顔を背ける。
これで彼女が引き下がらなければ、わたしは彼女を罵倒することになる。「お節介」、「偽善者」、それとも「あなたのいい人ごっこのために、わたしはいるんじゃない」だろうか。
身体を覆う汗に、わたしから分泌された毒素が混じり込むような感覚で、息が苦しい。
それでもわたしは、そんな風にすることを止められない。
そのことは分かっている。
けれど、彼女は立ち去ってくれたようだ。止めていた息を、わたしは吐き出す。
数名の駅員が現れたのは、その数分後。彼女が連絡してくれたらしい。そのスマートさに、わたしは拍手を送る。自己嫌悪の毒は、それでもまだ、わたしに纏わり付いたままだ。
駅から自宅までの道のりを、炎熱の中、わたしは進む。わずかな道のりが、疲れ果てたわたしには、シジフォスの責め苦にも思える。
これが劫罰で、それが浄化をもたらすのなら。
愚かな思い付きに、わたしは薄笑いを浮かべる。
そして、夜が来る。
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