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波那子の体温
かつてわたしは、大勢の友達を持っているつもりでいた。いま、友人と呼べる存在はひとりしか、わたしには残されていない。
けれどもそれは、彼らの罪ではない。非は、もしあるとするなら、わたしにある。
友情を焼き払って砂漠に変えたのは、わたしなのだから。
同情を持ってわたしに接してくれた、すべての人の心を踏みにじり、彼らが血を流すまで言葉の棘を振り回したのは、わたしなのだから。
けれど、ほんとうにわたしの責任なのだろうか。わたしには他にどうしようもなかったのだ。
彼らの人生に、わたしは不要なのだから。
最後に残ったひとりが波那子だ。島崎波那子。彼女とはオーデション会場で知り合った。わたしが合格し、彼女が落ちたオーデションの。
固いパイプ椅子が並ぶ、殺風景な控え室での出来事をいまもよく覚えている。緊張のあまり皆が無口になっている中、ひとり陽気な彼女を見て、あれだけかわいいと余裕だな、とわたしは思っていた。その彼女が不意にわたしの背中を覗き込んで「取り外せるの?」と尋ねた。
なんのことだか分らなかった。
自分の容姿に対する自負を、わたしは他人に隠すつもりはない。「かわいい」の賛辞は「おはよう」のあいさつより、その頃のわたしにはありふれたものだった。それでも彼女が真顔で言っているのが、羽根のことだとは、まさか天使の羽根のことだとは思わなかった。
面会の許可が出て3日目、何故、波那子がわたしの病室に現れたのか、わたしは知らない。彼女はそこでもひとり陽気で、その頃はまだ多かった見舞客や同じフロアの入院患者の間を漂って、明るい笑い声を響かせた。
気まぐれに不意と現れ、見舞いの果物や自ら持ち込んだ菓子を食べて、笑い、いつの間にかいなくなる。基本的に歩くということがなく常に駆けている。彼女の周りだけ、少しだけ重力が小さくて、空気が透明だった。
わたしは時々、考えることがある。何故、波那子だけは追い返すことができなかったのか。
多分、その答えは単純だ。
どうすれば、波那子を追い返すことができるのか、わたしには分らなかったのだ。
一つだけ、わたしには武器があった。
波奈子のような美少女がオーディションに受からなかったわけ。
監獄にいる父親のこと。
でも、その頃のわたしでも、それだけは口にはできなかったのだ。
彼女がこのマンションに初めてやって来た時のことだ。
両親と兄と住んでいた家を伯父に頼んで売り払ってもらい、ここでひとり暮らしを初めて間もない頃のことだった。わたしはここの住所を誰にも知らせなかったし、誰も知りたがらなかった。みんな、もうわたしにはうんざりしていたのだ。だから伯父以外の人間がここを訪れるはずはなかった。それなのに彼女はやってきた。
インターフォンのモノクロの画像を眺めながら、わたしは彼女を部屋に入れるべきか少し迷った。けれどソフトクリームを両手に「溶けちゃうよー」と玄関ホールを走りまわられては入れないわけにはいかなかった。
そうでしょう?
ほんとうはソフトクリームが溶ける心配などなかった。寒い冬の日だったから。
少し柔らかくなっていたのは波那子の体温の所為だ。彼女と並んで、窓の外の、綿埃のような雪が舞い始めた、灰色の空を眺めて、わたしはクリームをなめた。
彼女がいつものようにいつの間にかいなくなってからも、わたしは窓の外をすっかり暗くなってしまうまで、ずっと眺めていた。
わたしを中園遊新に引き合わせたのは、その波那子だった。
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