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5
その夜、彼は『苺畑で会いましょう』に来ていた。どうしても飲みたい気分だった。
酒を飲みたいと言うと、マスターはウイスキーを出してくれた。彼は酒は強くなかったが、ダブルで何杯もあおった。
「お若い方の飲み方ですね・・・」マスターが苦笑した。
「今夜は酔いたいんです」
「何か嫌なことでもありましたか?」
「いや、そういうわけでは・・・」
店の扉が開き、男が入ってきた。オタクだった。オタクは彼の隣に座り、同じくウイスキーを注文した。
「この間の会計、僕が払っておきましたよ・・・」
「授業料だ」オタクはにべもなく言った。
「あなたの助言は正解でしたよ。僕は今、毎週違う女性とデートしています」
「じゃあ、もう童貞は卒業したのか?」
「まだです・・・」
「貴様は何のために合コンに行っているのだ?」
「結婚相手を探すためです。僕は、結婚がしたいんです」
オタクは何も言わなかった。続きを促しているのか、僕の話に興味がないのかわからない。それでも僕は、喋らずにはいられなかった。
「昔からの夢でした。平凡でも、温かくて幸せな家庭をつくることが。そのために今日まで童貞を守っていたわけじゃないんですけどね・・・。今日、幼馴染の女から酷いことを言われました。僕が合コンでモテるようになって、汚らわしいって言うんです。まるで人のことを遊び人みたいに。僕は決してそんなことしてないのに・・・。その女は僕のことが好きだって言いました。ずっと昔から好きだったって・・・。きっと、嫉妬してるんでしょうね。そいつ、めっちゃブサイクなんですよ。僕が急にモテるようになって、面白くないんですよ。まったく、つまらない女です。顔がブサイクなうえに内面までブサイクだったら、もう手の施しようがありません・・・」
「貴様はどうして、その女と結婚しないのだ?」
オタクは驚くべきことを口にした。彼は苦笑し、顔の前で手を左右に振った。
「冗談はやめてくださいよ。あんなブサイクな女と結婚できるものですか。本当にブサイクなんですよ。魚みたいな顔してて、ニジマスによく似ています」
「このばかちんがあ!!」
と叫び、オタクは彼の頬を張った。思い切り張った。パアンという乾いた音が店内に響いた。彼は打たれた頬を押さえ、驚いた顔でオタクを見た。オタクは静かに口を開いた。
「俺は以前、貴様を美的感性をもつ男と評価したが、とんでもない誤解だったようだな。貴様は取るに足らない、くだらない男だ。童貞の風上にも置けない男だ」
「どうして・・・?」彼の目が涙に濡れた。
「俺の直感によると、その女は美しい心をもっている。最も完成された、洗練された美的感性をそなえている。それなのに貴様は、顔がブサイクだとか、ニジマスに似ているとか、そんな取るに足らない些細なことに固執して、肝心なものを見失っている。俺からすれば、その女よりも貴様の心の方がよっぽどブサイクだ。このブサイク童貞」
「彼女は、そんなに美しい心をもっているのですか・・・?」
「この前の話で俺が言いたかったのは」オタクはウイスキーをあおった。「一人の人間を愛し続けること、それこそが真理だということだ。一人の人間を愛し続けることほど、美しいものはこの世に存在しない。その最も美しいものを純粋に愛することが、この世界の最大の真理なのだ。美しいものを愛せない人間は、一人の人間を愛し続けることはできない。その女は、美しいものを愛する心をもっている。人間を愛し、そして人生に幸福を与えることのできる女だ」
オタクの言葉を聞き、彼は視界が開ける気分になった。雲間から光が射し込み、山間にある霧を夕風が吹き払うかのごとくであった。確かに彼女は、自分のことをずっと愛し続けていると言った。しかも、幼稚園の頃から・・・。彼女が胸にきざした情熱の火を絶やさず、今日まで自分のことを愛し続けていたことが、まるで奇跡のように思えた。その尊さに気づいた。
「どうやら僕は、今まで洞窟の中にいたようです。見えない幻想に心を惑わされ・・・まるで、プラトンの『洞窟の比喩』のようです・・・」
「良いところに気がついたな」オタクが初めて笑顔を見せた。「それなら、貴様のとるべき行動はわかっているだろう?」
「ええ、もちろんです」
彼も笑った。それから静かに席を立とうとした時、オタクに呼び止められた。
「貴様は幸福な奴だ。一生愛し続けることのできる相手を見つけたのだからな。俺はまだ、旅の途中だ・・・至高の真理へ辿り着くまでの旅は、まだまだ続く」
「つまり、童貞ってことですか?」
オタクは何も言わなかった。しかし、その沈黙は肯定の沈黙であった。オタクもまた、童貞であったのだ。グラスの液体を反射し、セピア色に輝くオタクの瞳をしばし見つめ、彼は店を後にした。
それから田中太志は西園寺玲子と結婚し、マイホームを建て、子供を二人もうけた。男の子と女の子で、家族四人で今でも幸せに暮らしている。あれからオタクに会うことはなかった。そして、祖父が夢枕に立つこともなかった。彼は息子に、源太郎という名をつけた。それは、亡き祖父の名であった。今でも、どこかで祖父が見守っていてくれると感じる。庭に咲いている水仙が、一陣の風に舞って揺れていた。幸福な家族の姿を見て、微笑んでいるかのようだった。
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