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 翌日、彼は銀座を歩いていた。時刻は夜の7時だった。祖父の忠告を遵守し、日が暮れてから銀座を散策した。彼は銀座に来ることはほとんどなく、土地勘はまったくなかった。何度か路地を曲がり、適当に歩いていたところで「苺畑で会いましょう」という看板を見つけた。それは、4階建てのビルの2階にあった。彼はビルに入り、階段を登り、入口の前に立った。木製の扉を開けると、カウンターの向こうに立っている男が見えた。他に、客の姿はなかった。 「いらっしゃいませ」男が笑顔で迎えた。どうやらこの店のマスターらしい。  彼はカウンター席に腰を下ろした。メニュー表を見ようとしたが、見当たらなかった。 「すいませんメニュー表をください」彼はマスターに言った。 「うちの店は、メニュー表がないんです。ドリンクは、私がお客様を見て選ばせてもらっています」  風変わりな店だった。どうやら客は酒を選べないらしい。しかしそれは、マスターの自信の表れのようにも見えた。 「じゃあ、お任せします」  彼がそう言うと、マスターは首を縦に振った。それから何かの液体をシェイカーに入れて、しゃかしゃか振りだした。 「お待たせしました」マスターが白い液体の入ったグラスを差し出した。 「これは何ですか?」 「カルピスです」 「カルピス・・・?」 「そうです。さあ、早いうちに召し上がれ」 「お酒は出してくれないのですか?」 「お客様は、カルピスです」 「私はカルピスを飲むとトイレが近くなるのですが・・・」  マスターは無言だった。その表情には断固とした意志が表れており、彼は諦めた。まったく、どうしようもない店主だと思った。風変りを通り越して、もはや変人であった。  彼が泡立ったカルピスを口に入れた時、突然店の扉が開き、一人の男が入ってきた。その男はドカドカと大股で歩き、ドカッと彼の隣に腰を下ろした。彼が横を向くと、そこには赤いキャップを被った男が座っていた。ボサボサの髪に赤いキャップを被り、眼鏡をかけていた。太っていて、ダボダボのパーカーにジーンズという格好をしている。彼はパッと見て、オタクだと思った。モテないオタクが、バーにやってきたと思った。  マスターは頷き、シェイカーを振りだした。このオタクに何を出すのか興味津々に思っていると、彼を見たオタクが口を開いた。 「貴様、童貞だな?」  彼はびくんと身体を震わせた。そして、オタクをまじまじと見た。 「い、いきなり何を言うんだ!」  オタクは差し出された酒を飲んだ。よくわからないが、緑色の液体だった。 「貴様は、俺のことを探してたんじゃないのか?」  その言葉を聞き、彼ははっとした。 「もしかして・・・あなたが伝説の合コンマスターなのですか?」 「1万回」オタクは静かに口を開いた。「俺が開催した合コンの数だ。そして、ラインにはそれ以上の女の連絡先が入っている。俺は、合コンで負けたことがない」  そう言うとオタクはスマホを取り出し、画面を見せた。確かにラインには膨大な数の女性が入っている。彼は認めざるを得なかった。この男が、合コンを極めた伝説の男なのだと。  彼は頭を下げた。「お願いします! どうか私に、合コンの極意を教えてください!」  オタクは彼を一瞥すると、静かに口を開いた。 「俺と貴様は星のようなものだ。惑星の軌道が交差するように、いずれは出会う運命にあった。まるで見えない引力にお互いが引っ張られるかのように・・・。そして俺は、貴様にとっての北極星となるだろう。童貞を卒業する道程の、導きの星としてな」  何を言っているのか理解できなかったが、とりあえず彼は神妙に頷いた。早くも、カルピスによる尿意が彼を襲い始めていた。 「貴様は真理を知りたいのか?」オタクが問いかけた。「恋愛における真理を知りたいのか? 恋愛における真理は、花の蕾の中に隠されている。貴様は、なぜ女が花を見て笑うか知っているか?」 「知りません」彼は正直に答えた。 「答えは簡単だ。花が美しいからだ。女は花を見て、花が美しいから笑うのだ。男は花を見ても笑わない。むすっと腕を組んで、花の形相だとか、質料だとか、そんなことを考える。花の背後にあって花たらしめているもの、花の奥に隠されている真理を探そうとする。しかし女は、真理は表面に表れることを知っている。花を見て、花の表面だけを見て、その美しさに純粋に笑う。かつてシレジウスはこう言った、『バラは何ゆえなしに在る それは咲くゆえに、咲く』。これが、恋愛における真理だ」 「あの、まったくわからないのですが」 「つまり、女が花を見て笑うように、女に接する必要があるということだ。女は花を見た時、何も考えていない。そして、何も考えていないからこそ笑うのだ。我々もその境地に達する必要がある。花を見る時、女は芸術家である。花の美、花の表面にある美的なものと、女の内にある美的感性とが自然に照応し、共鳴するのだ。ところが男というものは、生来の欠陥としてこの美的感性が欠如している。男女の根本的な違いはここにある」 「はあ・・・」  彼はもう、帰りたいと思った。尿意も段々と強くなってきた。しかしオタクは、そんな彼の気も知らずに滔々と喋り続けた。 「男が一人の女では満足できない原因は、この違いにある。男が合コンに行く、女を見る、その時に考えることは『ワンナイトしたいな。セフレにできないかな』とまあ、こんなところだ。この心理状態は、美的感性の欠如から生じている。美しいものを軽視する姿勢が、このような軽薄な言動を生むのだ」 「あの、もう少し具体的な話を・・・」 「だが俺は、貴様の中に完成された美的感性の存在を感じる」 「えっ・・・」 「現代は、腐った男が増えた。ワンナイト、セフレ、ヤリ逃げ、浮気、不倫、二股、やりたい放題だ。真理は敗北した。秩序は崩壊した。このような時代にあって、童貞は意志の象徴、不屈の信念の肩章である。貴様は現代に生きるナポレオンだ。ナポレオンのあの気高い言葉、『勝利は、もっとも忍耐強い人にもたらされる!』を思い出せ!」 「つまり、童貞であることに自信をもてってことですか・・・?」 「そういうことだ」オタクがグラスに口をつけた。「貴様は童貞であることを前面に押し出せ。そうして女からの信頼を勝ち取るのだ」 「わかりました」と言って、彼は席を立った。すでに、膀胱が限界を迎えていた。彼はトイレに駆け込み、咆哮を上げた。恍惚の表情を浮かべた彼が戻った時には、すでにオタクの姿は消えていた。彼は代金を払って帰ろうとしたが、オタクの分の代金も請求された。舌打ちし、仕方なく払い、それから店を出た。彼は歩きながら、オタクの言葉を考えた。 「本当にそれで上手くいくのだろうか・・・」  彼は半信半疑だった。オタクの言ったことは、むしろ逆効果でさえあるように思えた。しかし、他に選択肢はなかった。ダメ元でやってみよう・・・彼はそのように考えた。
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