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 翌日、都内の某居酒屋で合コンが開かれた。個室には男女6人が集まり、その中には彼の姿もあった。彼、同僚、同僚の知人の女性が集まり、宴は開かれた。合コンは作法に従い、まずは自己紹介から始まった。  同僚たちが自己紹介をしていくなか、彼は緊張していた。オタクの助言に従おうとも、いざその場面が訪れると並々ならぬ緊張があった。初対面の女性に童貞を公言することは、非常な勇気が必要だったのだ。彼の足はガタガタ震えた。酒はまだ届かないので、水をガブガブ飲んだ。だが、ここまできたら後戻りすることはできない。彼は自分の番が回ってきた時に決意を固めた。 「初めまして。田中太志、32歳です。趣味は植物園に行くことと、読書です。そして、童貞です」  場が一瞬、静寂に包まれた。同僚は目を見開き、彼の腕を肘で突いた。しかし彼は、神妙な表情を崩さなかった。それは余裕の表れでもあった。その時の彼は、心地よい春風のような解放感に包まれていた。世間に対して童貞を公言することがこんなに気持ち良いとは、彼は知るべくもなかった。彼は軛を断ち切った。彼は真の自由を得た。もはや彼には何も失うものはなく、何も恐れるものはなかった。 「ごめんね、いつもはこんな感じじゃないんだけど・・・」  友人の失言をフォローしようと、同僚が口を開いた。しかし女性陣は両手を合わせ、目をうっとりさせていた。 「すてき・・・」  女性陣の口から嘆息が漏れた。それを聞いた同僚たちは驚きの表情を浮かべた。唯一表情に変化がなかったのは、彼だけであった。 「どうして、童貞なのですか・・・?」一人の女性が彼に訊ねた。その声音には、艶っぽい色が含まれていた。 「童貞であることは生きることであり、愛することであり、悩むことです。つまり、人生そのものです。童貞は、決して世間に対して背を向けるような、アナーキーな行為ではありません。むしろ、人生を謳歌すること、青春を謳歌することです。私は人生を愛しています。そして、童貞であることに誇りをもっています」  彼は泰然として言った。その姿は自信に満ち溢れた男、隠し立てをしない堂々とした男として女性陣の目に映った。彼は猛き勇者のようであった。いや、実際にそうだった。あらゆる障壁を取り払い、彼は告白をやってのけた。もう、彼を阻む壁は存在しなかった。  その夜は彼の独壇場だった。女性陣の関心は彼に集中した。同僚たちは予想外の展開に苦笑したものの、彼が人気を得たことを素直に喜んだ。その晩は女性陣の全員が彼とラインを交換したがったため、彼は誰とも交換せずに帰ることにした。しかし、誠に実り多き夜であった。  しかしそれから、彼の苦悩が始まることになる。彼は合コンに参加する度に、女性たちから好感を持たれた。時には彼の取り合いになることや、喧嘩まで起きることもあった。そうまでして女性たちは彼を求めた。彼は最初は、それを嬉しく思った。しかし、時間が経つにつれて味気ない思いが彼の胸を襲った。彼は味覚を失ったように感じた。それまで甘いと思っていたデザートが、口に運んでみると実は無味乾燥な食品サンプルであったような・・・。女性とデートも重ねたが、彼には虚無感がつきまとった。  そうして浮かない表情をしていた会社での昼休みのことだった。彼はいつも会社の敷地にあるベンチで弁当を食べ、その後に缶コーヒーを飲む習慣がある。その時も缶コーヒーを飲みながら景色を眺めていた。すると突然、彼の視界に一人の女性が現れた。西園寺玲子だった。  西園寺玲子は彼の幼馴染だった。幼稚園から大学まで一緒で、今では同じ会社の同じ課で働いている。まさに腐れ縁とも言うべき相手であった。そして彼女は、とてもブサイクだった。名前はとんでもない美人を想像させるが、実際はとんでもないブサイクだった。そして彼は、彼女をあまり視界に入れたくないと思っていた。そのぐらい、ブサイクだった。 「太志くん、最近浮かない顔してるわね・・・」彼女が隣に腰を下ろした。 「そうかな・・・?」彼は少し、距離を取った。 「そうよ、そう見えるわよ。何だか最近は沈んだ顔ばかりして、以前の太志くんとは別人・・・」 「そんなことないよ。僕は元気さ」 「もし何か困ってることでもあるのなら、話してほしい。少しでも、太志くんの背負っている荷物を軽くしてあげたい」  なぜこの女は恋人みたいな物言いをするのだ、と彼は苛々した。そのためもあってか、彼は少し冷たい態度をとってしまった。 「もし仮に元気がなかったとしても、それは玲子さんには関係のないことだよ・・・」  彼女は手を口に当てた。そして、しくしくと泣き始めた。彼は、心の底から面倒くせえと思った。 「太志くんは、気づいてるんでしょ?」 「何が?」 「私の気持ちに、気づいてるんでしょ?」  そこで彼は横を向いた。彼女の顔を見た。泣いている彼女はいつもより醜く、やっぱり目を逸らそうかと思ったが、我慢した。 「どういうことだい・・・?」 「私は幼稚園の頃からずっと、太志くんのことを想い続けてきたのよ。太志くんはそれを知ってて、私の気持ちを無視して、平気な顔して合コンばっかり行ってる・・・」 「どうして合コンのことを知ってるんだい・・・?」彼は驚いた。 「そのぐらい、知ってるわよ」彼女はハンカチを取り出し、鼻をかんだ。「社内でえらい噂になってるんだから。田中が合コンでモテまくってるって、酒池肉林だって・・・。その話を聞いた時の私の気持ち、考えたことある・・・?」 「ちょっと待ってくれ、誤解だよ」 「何が誤解なのよ! どうせスケベ心で色んな女に手を出してるんでしょ? 今悩んでいるのも、女のことなんでしょ? もう太志くんなんか、性病にかかって死んじゃえばいいんだわ! 見るのも汚らわしい!」 「僕は、僕は童貞なんだ!」  彼の弁解も聞かず、彼女は泣きながら去っていった。すれ違う女性社員たちが驚いて避け、それから彼のことを見た。その目には多分に批難の色が含まれていた。西園寺玲子はブサイクではあったものの、優しく気の細やかな性格をしており、同性の社員たちからは人気を博していた。彼は、自分の立場が危うくなりつつあることを感じた。彼女に、荒唐無稽な噂話を広められたりでもしたら、たまったもんじゃない・・・。  しかし、彼の胸中には焦りとはまた別の感情も芽生えていた。西園寺玲子が、俺のことを愛している? しかも、幼稚園の頃から・・・?  彼は左手を心臓に当ててみた。鼓動は早鐘を打っていた。
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