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田中太志は、32歳で独身だった。
田中太志は冴えない男だった。中肉中背で、容姿は中の下だった。大学を卒業し、一部上場企業に勤めてはいるものの、これといった成功体験もなく、まさに平凡という字がぴったりの人生を歩んでいた。
彼の人生においてこれまで、浮いた話は一度もなかった。年齢=彼女いない歴であり、つまるところ童貞であった。彼が女性を避けているというわけではない。むしろ彼は女性を欲していたし、結婚を所望していた。熱烈に、結婚を望んでいた。四六時中そのことを考えては、美人の奥さん、可愛い子供、夢のマイホームでの生活を想像し、にやにやしたり切ない表情を浮かべ、周囲の者を気味悪がらせていた。
しかし彼は、女性と縁を持つことができなかった。その機会すらなかった。誰でも一度はモテ期というものがある。しかし彼にとってその話は、都市伝説の類と同じであった。バレンタインのチョコは当然、母親からしか貰ったことはない。友人に恋人ができるたびに、表面上は喜んだり幸せを願うふりをしたが、実際は家に帰ってハンカチを噛み、人知れず枕を濡らす夜もあった。
田中太志は、どうしてこうなのかわからなかった。周りの女性があからさまに、彼を避けるというわけではない。職場では普通に女性の同僚とも会話をするし、時には食事に行ったり、飲みに行くこともある。女性の友人がいないわけではなく、マッチングアプリも活用している。しかし、彼がおぼろげに恋心を抱き、恋愛対象として意識し始めた途端に、女性たちはことごとく彼から距離を置くようになるのであった。
人生の目的を見失い、自暴自棄になりかけている田中太志を見かねて、心優しい同僚たちは積極的に彼を合コンに誘うようになった。同僚たちは毎週合コンを企画し、田中太志を誘い、彼に恋人ができることを心から願った。田中太志も彼らの期待に応えるべく、脱毛サロンに通い、皮膚科でピーリングをし、ZARAの店員に服装をコーディネイトしてもらった。田中太志はモテるために、もてる力のすべてを使って自分を磨いた。
しかしどれほど合コンに参加しようと、田中太志に振り向く女性は皆無であった。女性たちは、ことごとく彼の同僚たちに振り向いた。女性たちはみな、高身長で高学歴、イケメンぞろいの同僚たちと連絡先を交換したがった。田中太志も有名大学を卒業しており、学歴では遜色はなかった。しかし、それだけのことだった。それ以外の分野では、同僚たちは田中太志が逆立ちしても勝てる相手ではなかった。連絡先を訊かれるたびに、同僚たちは苦笑いをし、そして苦悶した。連絡先を訊く女性をいなし、やんわりと田中太志をすすめてみたりするのだが、どれもこれも暖簾に腕押しだった。ある時、某有名広告代理店に勤める直情径行型の女性は、同じように田中太志をおすすめされた際に、「こんなパッとしない男のどこがいいっての? おまえなんか、左にスワイプだ」と言って、左手を左に振った。その女性はぐでんぐでんに酔っており、つい最近恋人に振られた鬱憤もあって口走ったのだったが、その言葉は田中太志の心に深く、広い傷をつけた。その傷の深さはマリアナ海溝よりも深く、広さはカスピ海を凌ぐかと思われるほどだった。
その夜、田中太志は家に着くと、服も着替えずベッドに倒れ込んだ。身体から力が抜け、もはや何もする気力が起きなかった。田中太志は、男泣きに泣いた。泥酔女が放ったあの言葉が、彼の脳内で壊れたラジカセのように再生され続けた。
「どうして俺ばっかりこんな目に・・・」
田中太志は枕に顔を埋め、呟いた。ツイッターを開き、同じ言葉をツイートした。それから彼は考えた。もう、恋人を探すなんて馬鹿な真似はやめよう。自分が傷つくだけだし、世間に恥を晒すだけだ。同僚たちには申し訳ないが、俺の人生はそのように決まっていたのだ。嗚呼、むべなるかな。俺にはもう、戦う気力はない。世間というのは恐ろしいものだ。人生は、舵を持たない小舟のようなものだ。世間という荒波に翻弄され、飲まれ、沈んでゆく運命なのだ。俺はもう、この航海を続けることはできない。俺はこの絶海の孤島の中で、独り、静かに生きてゆくしかないのだ・・・。
田中太志は孤独であった。これまでに経験したことのない、果てのない孤独が彼を襲った。彼は、無人島に取り残されたようなものだった。難破し、孤独という大海が周囲を包囲する島に取り残され、身動きのとれなくなった遭難者であった。遥か向こうには、大陸が見える。霞みがかる水平線の向こうには、豊饒な大地が見える。しかし、田中太志には航海を続ける舟も、気力も、勇気もなかった。彼は、この島から脱出することは不可能であることを悟った。海を割るモーゼでも現れぬかぎりは・・・。
田中太志はいつの間にか、深い眠りについていた。彼に眠りをもたらしたものは、酒の酔いと深い絶望であった。眠りは絶望のもたらす効能の一つである。彼は、底のない深淵へ落ちてゆく感覚に身をまかせた。さて、こうして彼は現実の軛から逃れることに成功した。しかし、彼の自我はどこまでも彼を追い、執拗に責め立てることをやめなかった。彼の過剰な自意識は夢の世界へまで侵入し、彼を苦しめる悪夢を見せた。
彼は夢の中で植物園にいた。彼は花を愛する繊細な心を持っていた。実際、嫌なことがあると彼はよく、地方に足を運んでは植物園に行っていた。行き場を失った彼の心は、夢の中で癒しの場を求めたのだ。彼は一つの美しい水仙を見つけると、その場にしゃがんでそれに魅入った。水仙は凛として咲き、瑞々しい芳香を辺りに漂わせていた。
「まったく、俺の心を癒してくれるのはおまえたちだけだよ」
彼は目を細めながら、水仙に語りかけた。それで心の孤独を埋めようとした。彼の心は愛に飢えていた。そして、花が愛を与えてくれることを知っていた。彼はもう、それで十分だと思った。人間の女性に愛されるよりも、自然に愛されよう。そして俺も、自然を愛そう。なぜならば自然を愛することで、人間をも愛することができるのだから・・・。彼は、そのように考えた。
「おまえなんか・・・」
彼が詩人のような感傷に浸っていた時、どこからともなく声が聞こえてきた。彼は驚き、周囲を見回した。しかし、どこを見渡しても人の姿はなく、その気配すらなかった。彼は首を捻った。
「気のせいか・・・」
彼は気を取り直し、再度、水仙を愛でることにした。するとまた、
「おまえなんか・・・」
と、声が聞こえてきた。今度は彼の背中に戦慄が走った。その声は幻聴などではなく、確かに、間違いなく存在していた。しかも彼の感じたところでは、その声は水仙から発せられていたのだ。
「おまえなんか・・・?」
彼は生唾を飲んだ。続きを促すように、水仙に向かって語りかけた。一体この水仙は、俺に対して何を言おうとしているのだろう? 何か、言いたいことでもあるのだろうか? 彼は緊張した面持ちで水仙が返答するのを待った。喉が引き攣り、頬に一筋の汗が流れた。
「おまえなんか・・・左にスワイプだ・・・」
彼は絶句した。驚きのあまり後ろにのけ反り、その勢いで尻もちをついた。彼は水仙を見つめた。すると水仙は風に揺られるようにして左方向に動き、そのまま静止した。彼は悲鳴を上げた。
「パッとしない男・・・左にスワイプ・・・」
再び声が聞こえた。それはもう、二度と聞きたくないセリフだった。彼は両耳を押さえ、絶叫した。
「もうやめてええええええ!!」
恐ろしい恐怖と混乱が、彼の精神を錯乱の渦に飲み込んだ。大地が崩れ、前後の感覚を失った。彼は暗い深淵の中へ落ちて行こうとした。
だがその時、天から一筋の光が下り、スポットライトのように彼を照らした。そして白く長い手が伸び、彼の腕を掴んだ。そのまま上へと引っ張り上げ、彼は眩い光の粒子に包まれて何も見えなくなった・・・。
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