第2章 鈍色の空

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 門下生が全て帰り、修之輔は久しぶりに道場内で師範と対面した。  師範はまず道場を修之輔に任せがちな現状を詫びた。ただそれは仕方のない事と前々より修之輔も承知していることだった。  師範は剣術よりも剣の思想に傾倒している学者の面がある。剣豪と呼ばれる人物の書いた書物を読み、禅を学び、朱子学にも通じている。幕府に物を申したり、上方の帝を政治の場に担ぎ出そうという者が全国に増えつつある昨今、武士の本分を今一度習得させるという名目で、師範の持つ知識に頼む藩の上役の期待が思った以上に大きいとも聞いた。 「ただどうしても相容れない思いがある。剣を極め、己を見つめ直したその先に真に己の主を見出すべきであって、主に奉仕することを剣の第一の目的として持ってこられてはまったく閉口する。これでは人殺しの剣が増えるのみだ」  もっともこのような愚痴を城内で言えるはずもない、内緒だぞ、と師範は年に似合わないいたずらな表情を浮かべた。城内に上がったことがない修之輔だが、師範が苦労していることは言葉の端々より察せられた。 「それから今日、あの本多弘紀と打ったが、あれは本当に呆れるくらいに真っ直ぐだな」  それが弘紀に対する師範の評だった。 「打ち込みの強さ、足捌きの巧みさはさすがに同年代の内で最も強いだけある。今後の成長が楽しみだな。ただ本当に真っ直ぐ過ぎる」  そう誉めて朗らかに笑う師範の言葉は、まるで修之輔が褒められたようで単純に嬉しかった。浮つきそうになる声音を抑えて師範に相談を持ち掛けた。 「その真っ直ぐが問題です。防御を考えずに打ち込んだり、力任せに一本を取ろうとする癖が、気性のせいかなかなか直りません。なので」  弘紀に沙鳴きを教えたい、と師範に許可を願った。師範はそれを聞き顔を引き締めた。 「あの技が、弘紀に必要か」 「はい、そう考えます。もっとも“全て”を教える必要はなく、相手の動きを見ていかに攻撃を防ぐか、相手の動きを考えることを学ばせたいと思っています」  師範は腕を組みしばらく考えているようだったが、やがて組んだ腕を解いて修之輔を真正面から見据えた。 「他でもない修之輔が、あの技を伝えたいと言うのなら私に反対をするいわれはない。あの技は修之輔のものだ。修之輔の判断に任せよう。ただ、本多弘紀はその技を習得するのに妥当な者か。まだ十四、五ではないか」 「背がさほど高くないので幼く見えますが、この正月で十七になっています」  年齢のことが本質の問題ではないことは師範も修之輔も承知している。修之輔に引く気がないというだけのことだった。 「修之輔がそこまで強気に出るのも珍しい。分かった、沙鳴きを弘紀に伝えるが良い。ただし、十分に気をつけて指導するように」 「お許しいただき有り難うございます。では、総稽古が終わったら早速に」  頭を下げる修之輔を見て師範はどこか感慨深げに呟いた。 「修之輔にそこまで言わせるというのは余程のことだろう。それともお前も成長したということかな」  師範は笑いながら立ち上がって修之輔の肩を叩いた。  風鈴の音は、今夜は聞こえなかった。  総稽古の最終日は新たに来るものもほとんどおらず、ほぼいつも稽古にくる者たちが顔を並べた。師範も今日いるのは午前中だけということで、やや気合の抜けた空気の稽古中、起きたことといえば弘紀が利三の取り巻きの一人と打ち合って完勝したことである。 「利三様とその取り巻きの言い様があまりに腹に据えかねて」  打ち合いを終えて様子を見に来た修之輔を見上げて弘紀は言った。弘紀の方が年下とはいえ初日に名誉を汚されるような言葉を受けたことで、これもいちおう仇討と言うことになるのだろうか。目に入りそうな額の汗を指で拭ってやると、弘紀は嬉しそうに眼を細めた。  総稽古が過ぎてから、弘紀は度々道場の隣にある修之輔が寝起きする住居にやってくるようになった。  午前中の稽古が終わると囲炉裏のある座敷で持ってきた握り飯を食べていく。修之輔は朝炊いた飯を茶漬けにして流し込むくらいだが、弘紀がいれば漬物くらいは出した。修之輔が漬けた瓜の漬物が気に入ったと言うので持って帰らせたこともあるが、本多の家でどうやって食べるのだろうか。少し気になった。  修之輔が午後の稽古を見ているとき、弘紀は師範の置いていった書物を読んだり、自分で持ってきた草紙を眺めていたりする。午後に稽古がなければ、修之輔も一緒に書を読んだり、防具の修理をして過ごす。  弘紀はこの頃、稽古で汗をかくと練習着をいったん脱いで外の物干しに掛け、持ってきた小袖と袴に着替えることが多くなっていた。今も袖に白波紋が染め抜かれた濃紺の小袖を着ている。濃くはっきりした色合いは弘紀の端正な顔立ちを引き立たせるので、修之輔はその姿を好ましく見ているのだが、どうやら弘紀はその修之輔の視線に気づいているようだった。  だが如何せん腹ばいになって肘を付き、草紙を眺める姿はお世辞にも行儀がいいとは言えない。   「今日は何を読んでいるんだ」  弘紀の両肘の脇に手をついて上から覗き込む。修之輔の腕の中に閉じ込められたかたちになった弘紀は、くすぐったそうに身を捩ってこちらを見上げてきた。 「仇討ち物の草紙です。ここに出てくる若武者の絵が修之輔様に似ているなあ、と」  そういって弘紀が指し示した絵を見ても、良く分からなかった。 「修之輔様の方が綺麗ですね」  そう言いながら弘紀は体の向きを変え、修之輔の腕の中で仰向けに横たわった。草紙の武者絵に弘紀の髪がかかる。  見比べる位置にあって、弘紀の方が挿絵の若武者の面影があるのに、と思った。くっきりと弧を描く凛々しい眉の下、二重の瞼は濃く長い睫毛に縁どられて瞳は煌めく黒曜石を思わせる。最近知ったその形良い唇の温かさを確かめるように顔を近づけ、そっと唇を重ねた。  弘紀の唇は温かく柔らかい。何度か、触れ合う程度の接吻を繰り返してから下唇に指をあて、軽く口を開かせた。白い歯が覗くその隙間に舌を差し入れると一瞬、弘紀の体が小さく震えたが、そのまま深く口づけた。  弘紀の口腔の中、戸惑う舌を絡めとり、舌先同士を触れ合わせる。ゆっくりと弘紀の舌を何度かなぞると、やがて弘紀も真似して同じように修之輔の舌をなぞり始めた。吸われて舐め返し、柔らかく蠢く濡れた感触がもたらす快感に二人して夢中になり、息が続かなくなるまで互いに舌を絡め合った。  ふいに道場の方から数人の声が聞こえてきた。  午後から稽古を始める者達がやって来たらしい。弘紀から自分の体を離すのはひどく気力のいることだった。修之輔は弘紀の体を起こして自分も立ちあがり、弘紀の指で乱された襟を直した。まだ座ったままの弘紀の襟も直してやろうと伸ばした手が止まる。   口づけの余韻を引きずる弘紀がゆっくりと自分の唇を指でなぞっていた。白昼の陰の中、いつものように光る瞳にどこか淫靡な色が滲んでいる。  もう一度。  口に出さずにねだる弘紀の肩を抱き寄せ、自分の背に回された弘紀の手が解かれるまで唇を重ねた。  総稽古から半月ほどたったある日の昼下がり、大膳が道場を訪れた。 「なんだあれは」  話があるというから住居の座敷に通したのに、その座敷に腰を下ろさないうちに大膳が顎で修之輔の背後を示した。床の間には修之輔の大小の太刀が置かれている。 「少し見ぬ間に洒落たものを付けるようになったじゃないか。浅葱のさざ波千鳥の組紐などどこで手に入れた」  そう言われて、鞘にかかる下緒のことだと合点する。 「この間、弘紀が付けていったのだ。結い方を覚えたからやってみたいとあの下緒を持参して来てたのでやらせてみたのはいいが、かなり四苦八苦していた」 「なんだか捻れてないか」 「次に直すと言っていたからそのままにしてある」  大膳が、ほお、だか、はあ、だか分からない曖昧な声をあげて修之輔の顔と太刀を見比べる。 「なんだ」 「いや、修之輔が他人に己の太刀を触れさせるのも、下緒を変えさせるのも、捻れた紐をそのままにしておくのも珍しいと思ってな」 「流石に俺も捻れぐらいは自分で直すと言ったのだが、弘紀が、自分がやる、と言って聞かなかったのだ。変に強情なところがある。黙って直せば気づかれた時に睨まれる」 「懐かれているというか、尻に敷かれているというべきか、迷うところだな」 「で、今日ここに来た用事はなんだ」  もうすこし話を聞きたいところだが、と言いさして修之輔に睨まれ、大膳がようやく浮いたままだった腰を下ろした。 「四月に御前試合が行われるらしいと師範から聞いて、このことを修之輔に伝えて欲しいと頼まれたのだ」 「珍しいな。出る者は藩の家中から選ぶのか」 「ああ。珍しいのはそれだけでなく、相手に羽代藩の若手を招くそうだ」 「相手は他藩の者か」 「よりによって羽代藩とは、と師範も困惑されていた」 「なにかあるのか」  修之輔は道場からほとんど出ず、城中に仕官もしていないので世情にはどうしても疎くなる。大膳が呆れたようにこちらを見た。 「何を言う、数年前に大事件があったではないか。そうだな、俺たちが十六、七の頃だったか」  そう言ってから表情を曇らせた。その頃の修之輔の様子を思い出したのだろう。知らなくても仕方ないか、と呟き、手短に事件のあらましを教えてくれた。 「うちの藩主の実の妹君である環姫が先代の羽代藩主に嫁いでいたのは知っているか」  事件があったのは今から五年程前のことだった。先代羽代藩主が急逝し今の藩主に家督が相続されててしばらく後、羽代藩城中で先代藩主の妻である環姫が殺害された。後継ぎを巡って羽代家中を二分した争いがその理由だったという。 「先妻との間に病弱な長男を生しただけだった先代の羽代藩主が後継者の存続を憂い、是非家柄の良い姫に健康な子を産ませたいと望んで、黒河藩に縁談を申し入れた結果がその有様だ。黒河藩主は妹君である環姫を大事になされていたから、その環姫をみすみす死なせた羽代藩主とその家中を強く恨みに思い、以降この数年、羽代藩との付き合いは断絶してたのだが」  どういった風の吹き回しか、あるいは双方が機会をうかがっていたのか、まずは御前試合を契機に交流を取り戻そうという動きのようだった。 「なにやら上の方の考えることは複雑だな。その上の方々の政治に俺たちがどう関わるというのだ」 「御前試合に出る者の筆頭候補は修之輔、お前だろう。師範もすでにお前の名前は藩主に挙げているそうだ」  いきなり自分に話が振られ、修之輔は驚いた。随分と大きい話のようだが。 「師範はお前の他に俺と、そして弘紀の三人を推薦するそうだ。あとの二名の人選を修之輔に頼みたいと言っておられた」  こちらから五人、あちらも五人を選出してそれぞれ三本ずつを取り合う形式の試合になるようだという。 「その話なら前に師範から聞いた。ただその時は見どころのあるものを選んでおいて欲しいというだけだったが」  その時点で師範には御前試合に関する打診があったのかもしれない。 「弘紀はなぜ選ばれたんだと思う」  大膳が修之輔に尋ねた。 「弘紀は年少者の中では一番腕が立つし、この頃では年長者にも勝つようになってきた。勢いがあるし先鋒か次鋒に充てようという考えではないか」  そういうものか、と大膳が頷いた。 「あとの二人はどうする」 「実力からいえば利三が入る」 「あいつか」  弘紀の時とは違い、大膳は露骨に嫌悪感を表情に出した。 「利三なんぞ選ばなければならんとは、この藩はほんとうに人材不足だ」 「あまり年長の方に声を掛けてもお役目が忙しいだろうからな。仕方ない」  こう聞くとほとんど決まっているようなものだな、と大膳が言う。 「あと一人を見極めて、俺が直接師範に伝えに行く」  修之輔のその返事で大膳の用事は済み、大膳は座敷を立った。
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