第2章 鈍色の空

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 修之輔に師範からの伝言を伝え終えた大膳を門戸まで見送りに出ると、噂をすれば影というところで、ちょうど弘紀がやって来たところだった。  濃松色の小袖に羽織を着ているところを見ると、これから稽古をする気はなさそうだ。 「大膳様、ご無沙汰しております」 「元気そうで何より」  妙にわざとらしく他人行儀な挨拶に、何かあったかと思わず尋ねると、二人が同時になにも、と答えた。これでは勘繰るなという方が無理な話だが、どちらも話す気はないらしい。この二人は変なところで似ている。 「下緒の結い方をもう一度さらってきました。先日結ったところを直しておきます」  失礼いたします、と頭を下げて修之輔の住居に向かう弘紀の髷から下がる髪は、機嫌のよい小動物を思わせた。帰るのは俺なんだからこっちを見送れよ、とぶつぶつ呟く大膳を門戸の外に押し出すように送り出し、修之輔は弘紀の後から住居に戻った。 「大膳様と何の話をされていたのですか」  どうやら最初からやり直すらしく、下緒をすべて解きながら弘紀が訊ねてきた。話しておいても大丈夫だろうと判断し、御前試合のことを教えた。 「四月のいつごろでしょうか」 「下旬ではないか。ちょうど桜の咲く季節だから、家中の花見もついでに済ませるつもりだろう。」  お花見は楽しみですね、と弘紀が言うので、花より団子だろう、とからかうと、試合に出るのだったら食べれない、と言い出した。本気で花より団子であるらしい。 「弘紀は先鋒か次鋒になると思う」 「そうですか。心づもりをしておきます。どの様な相手なのでしょうか」 「隣の羽代藩が若手を寄越すらしい」  弘紀が下緒を持つ手を止めた。 「羽代藩ですか」  その口調に不自然な硬さが混じっているように聞こえた。 「そうだ」  そういえば羽代藩には海があったかと思い出す。弘紀が以前に語っていた海の記憶。もしや弘紀は羽代藩に所縁があるのか、と、直接そう聞くのを躊躇ったのは、若くして亡くなったという母親の件にも触れることになると思ったからだ。  修之輔の逡巡を察したのか、羽代藩は私の国元です、と弘紀が自ら修之輔に告げた。 「縁あって、今はこちらの本多様の元でお世話になっておりますが、藩籍は羽代藩のままです」  弘紀が自らのことを明確に語るのは初めてだった。 「とはいっても、修之輔様に助けられたあの日から、この黒河藩を出ておりませんから、羽代藩の者達は私のことなど忘れているのではないでしょうか」 「事情があるならば無理強いはできないが。試合には出られそうか」 「大丈夫だと思います。一応国元に聞いてみますので正式なお返事には時間を下さい」 「弘紀を推薦したのは師範なのだが、師範にも弘紀の事情を知らせておいてもいいだろうか」  弘紀は少し間をおいて首を横に振った。 「師範には私の方からお話をさせて頂きます。私の身の上のことですから修之輔様にご迷惑はおかけできません」 「分かった。任せる」  弘紀の問題ならそれは弘紀自身に任せるのが筋ではあるのだが、あっさりと話題を切り上げられて修之輔はどこか物足りなさを感じた。  話が一段落して、早速下緒の続きに取り掛かろうとする弘紀に、他にも伝えることがあったのを思い出して修之輔は声を掛けた。弘紀が手を止める。 「先日は言わなかったが、結ぶときに注意をして貰いたい箇所がある。栗形のこの部分だけ、紐を掛けずにおいて欲しい」  理由は敢えて述べなかったが、素直に、わかりました、と答えて頷くその顎に指をかけてこちらを向かせ、察して目を伏せる弘紀の唇に自分の唇を重ねた。舌を軽く絡めて触れ合わせると、弘紀は今のところは、それで満足のようだった。  午後の稽古が終わって住居に戻ると、暗い室内で弘紀は書見台を持ち出して書物を開いていた。読んでいるというより何か考え事をしているようだった。棚に掛けられた大小の刀どちらにも、捻れなく、きれいにさざ波千鳥の下緒が結ばれている。灯明に火を灯して声を掛けると、弘紀はようやく修之輔に気付いた。 「下緒を結んでから言うのもあれですが、よく考えたらこれは修之輔様にとって邪魔なだけでしたね」  弘紀は初めて出会ったときの一度、修之輔がこの鞘を使うところを見ている。 「そんなことはない。太刀らしくなった。遠目に木刀を差していると思われることもあったから、ここまでしっかり結ってくれればそんなこともなくなるだろう」 「結いながら気づいたのですが、修之輔様の太刀、普通の物より重いのは鞘のせいですか」 「そうだ。この鞘は木刀と同じ椿の材でできている」 「椿ですか。それで重いのですね」 「椿の中でもこれは赤椿の木から取ったものだ。白椿だと白木の鞘に見えてしまう。それはさすがに具合が悪いからな」  ふんふん、と弘紀が頷いている。 「似合いますよね、修之輔様に赤い椿の花。いや白い花の方でしょうか」  時々弘紀は修之輔が返事に迷うことを言う。 「今度、紅白の下緒も用意してみますね」  言葉に詰まる修之輔を気にせずに、弘紀は一人でそんなことを決めた。風鈴の音色が微かに聞こえる。今日はこれから用事があるので帰ります、と弘紀は帰り支度を始めた。送ろう、と言うと、ありがとうございます、と、いつもの華やかで明るい笑顔が返ってきた。    弘紀をいつもの角まで送った帰り道、道場の近くまで来てふと、今のこの風向き、風上に民家はないことに気付いた。あのいつも聞こえる風鈴の音は聞き違いなのだろうか、それとも思い違いなのだろうか。  夢を見た。  夢の中の弘紀は美しく波打つ青藍の小袖の上に襦袢も下帯もすべて解いて横たわり、修之輔の腕に抱かれている。触れ合う肌はどこまでも滑らかでほんのりと温かい。  弘紀の頬の輪郭を指でなぞり、唇を深く重ねてから間近な距離で見つめ合って促すと、弘紀は修之輔の足の間に潜り込んで修之輔のものを躊躇わずにその口に咥えた。弘紀の舌が滑らかにその先を舐め上げ、(つつ)き、吸い上げる。  強い快感が修之輔にもたらされ、思わず弘紀の後頭部を強く押し付けると、弘紀は一瞬、苦しそうに眉を歪めたが刺激を止めようとしない。己の先端が弘紀の喉奥の粘膜にあたるのを感じ、修之輔は弘紀の口腔で達した。白く泡だつ液体が弘紀の唇から零れ、その顎を伝っていく。  寝床から起き上がっても夢の中の感触が手に指に、体の随所に残っていた。  いずれ弘紀は羽代藩に戻るのだろうか。いつまでここで、これまでと同じような時を過ごせるのだろうか。息が整う間、修之輔の頭を占めていたのは弘紀に聞きたくて聞けなかった問いと、恐れにも似た漠然とした焦燥感だった。
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