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第1章 秋夜の風鈴
道場の窓格子の向こうに見えるのは澄んだ秋の空である。
周囲を山に囲まれた黒河藩は冬の訪れが早い。井戸の脇に植えられている木蓮もすでに冬木立の装いで、朝陽の中一枚、また一枚と葉を落としている。
秋生秋生修之輔がこの道場で年少者の剣術指導を任されるようになって五年が経つ。道場の主である宗源師範は藩主お抱えの剣術指南方を務めており、文武両道を掲げる黒河藩においてこの道場は半ば公設ともいえる存在だった。早くに頼るべき身寄りをなくした修之輔は、彼の剣の才能を認めていた宗源がその困窮を見かねて引き取り、二十二歳になった今は道場の師範代を務めるまでになった。
修之輔は今朝も城と城下町を結ぶ坂道に面した道場の門を開け放った後、道場の入口の戸を開けた。神棚に拝礼して道場内に変わりはないか見回していると、坂道を駆け下りて来る年少組数名の足音が聞こえた。唇の端に笑みが浮かぶ。今朝の一番乗りもきっと弘紀だろう。
「おはようございます」
門をくぐる手前から聞こえてきた良く通る声は予想に違わず弘紀のもので、小走りに走ってきた勢いそのまま、頭の後ろに結い上げた髪の先を揺らしながら道場に入ってきた。
弘紀は外の明るさと内の薄暗さの落差に一瞬、形良い眼にきらめく瞳をさまよわせて修之輔の姿を探し、見つけるとようやく姿勢を正して一礼した。遅れて数名、弘紀と同年代の十四歳から十七歳までの少年達がやってきてそれぞれと挨拶を済ませると、彼らは手分けして道場の掃除や準備に働き始めた。
昨年からこの道場に通っている弘紀は、当初は同年代に比べて小柄な体躯が同輩の者達から軽んじられはしないかと心配したがそれは杞憂だった。もともと剣術の訓練はしていたらしく、腕前はこの道場に入ってすぐに上達した。時に年上の先輩と同等に打ち合うこともあって、見くびられることは皆無である。
弘紀の性質は元気に過ぎるくらい闊達で、人懐っこく素直だ。振る舞いに多少乱雑さはあっても礼儀は心得ているし、陰無く整う容姿も嫌われる理由にはなり得なかった。
今日、弘紀は礼次郎という友人と雑巾掛けの当番に当たったようで、最初のうちこそ隅から順に床を拭いていたが、そのうち競争を始めた。
しかし、そもそもが元気の塊のような弘紀と、動きに鈍いところのある礼次郎とが同じように競うのは無理な話で、とうとう道場の真ん中あたりでぶつかって双方が派手に転がった。
朝から何をしているのかと修之輔が呆れて見ていると視線に気づいて気まずそうな顔をしたのはまだ殊勝だろう。
「二人とも、もう一度最初からやり直せ」
修之輔がそう指示すると、弘紀も礼次郎も素直に従った。すでに自分の仕事を終えている仲間たちはそれを笑いながら見物している。
「そもそも礼次郎がのろいからいけないんだ」
皆の注目の中、二度目の雑巾がけを終えると、弘紀は直ぐに立ち上がってまったく反省の色のないことを言った。
「周りを全く見ようとしない弘紀がいけない」
言われた礼次郎も礼次郎で言い返す。
「私は明日の雑巾掛け当番を礼次郎と組むのは嫌だ」
そう弘紀が言うと、じゃあ俺と組むか、いや俺は嫌だ、そもそも雑巾掛けが嫌だ、などと皆が口々に騒ぎ出す。
「稽古を始めるぞ」
トン、と、修之輔が強めに竹刀を床に突いて声を掛けると、ようやく皆はばたばたと支度を始め出した。
稽古を始める前に弘紀を呼んだ。呼ばれて叱られるとか、注意されるとか、何がしかの不安があってもいいはずなのに弘紀の顔に浮かんでいるのは単純に修之輔に名を呼ばれた嬉しさだけで、これでは怒るつもりであっても気持ちが削がれる。
「何でしょうか」
小走りに近寄ってきてこちらを見上げてくる表情は子犬のような可愛らしさで、その子犬の尻尾、あまりに朝から暴れたせいか髪の元結が緩んでいて、このままでは稽古の途中で解けてしまう。自分の前に座らせて手早く結い直してやると随分気に入った様子でしきりと結び目を触りたがるので、解けてももう結ってやらないぞ、というとあっさり大人しくなった。
弘紀がこの道場に通うようになったのは、一年前、修之輔と初めて出会った日の出来事が切っ掛けである。
その日、師範から、師範の妻である喜代の薬が届くから番所まで取りに行ってきて欲しいと頼まれた。何でも知己の薬売りが、黒河藩の隣、羽代藩の大名にせかされ薬を届けに行く途中、近くの街道を通りがかるらしい。通りすがりに是非自分の妻に薬をと懇願したところ、街道から外れるのは時間が許さないが街道から黒河藩城下へ続く道の分岐にある番所まで来てもらえばそこで薬を渡せるとの返事を得た。師範は修之輔に仔細を書いた書状を託し、役人にこれを渡して薬売りが番所に預けた薬を受け取ってきてくれと頼んだのだった。
その日の稽古を終えてから向かったので、番所に着く頃、周囲にはすでに夕方の気配が漂っていた。番所の中をのぞくと知っている顔がある。
「おお、修之輔じゃないか。師範から人を寄越すと聞いていたが、なんだお前が来たのか」
「大膳、お前が今日の当番か」
道場の同門で同い年の柴田大膳は父親が藩の重臣ということもあり、早くから仕官して役目についている。がっしりした体躯に月代も青々しく髷を結い、羽織袴に大小の刀を差した姿は立派な武士であった。いつも適当な長さで髪を結わえ、木綿の小袖に袴の軽装で過ごすことの多い修之輔とは対照的である。
「これが師範に頼まれたものだ」
大膳はそう言って自分の脇に置かれている包みを示した。受け取ろうとすると話に続きがあった。
「これを受け取るとき薬売りが妙なことを言っていた。どうも風体の良くない男三人連れが街道を歩いていたらしい。今日、俺がここにいるのは、藩の家老の本多殿の縁者が他藩から来るという事で、その出迎えだ。時間が過ぎているようで少し気がかりだったところ、その薬の話を聞いて心配になった。だが人手が足りなくてここを離れるわけにいかない。修之輔、お前、時間があるなら街道まで少し様子を見に行ってくれないか」
今日はもうこの他に用事もなく、薬も明日の朝に持って行くことになっている。分かった、と頷いて修之輔は番所を出た。
番所から街道に出るとしばらく、道は山間を通る。薄暗くなりつつあるこのような時間、通常は街道に人の姿はない。本多家の客人ともあろう者がこのような刻限に街道を移動するのはひどく不自然で、なんらかの変事の予感が胸に兆した。
そのまま進んで木立がまばらになる場所に出ると、数人の人影が見えた。遠目に見ても様子が尋常ではない。足を速めて近づくと、身なりの良い初老の武士と少年の二人連れが見るからに風体の悪い破落戸に絡まれていた。
初老の武士は、その身の構えと言い、眼力だけで破落戸三人をその場に足止めする気迫と言い、本来ならばこのような者達に決して後れを取らない手練れと見えたが、如何せん、護衛している当の少年が竦んで身動きできない状況は見た目明らかに不利であった。
この二人が本多家の客人だろうか。それにしては不用心に過ぎる。それとも別人か。怪訝に思いながらも修之輔は彼らに声を掛けた。
「何をしている。黒河藩城下に近いこの辺りで不埒な真似は許されない」
修之輔の声に、動作も荒く振り向いた破落戸どもは修之輔の姿を見て肩から力を抜いた。完全にこちらを見くびっている。
「おやおや、これはだいぶお綺麗なお武家様がいらしたなあ」
「それともなんだ、江戸の役者崩れか」
「剣は持てるのか、それは飾り太刀、竹光ではないのか」
そう口々勝手に放言する破落戸は三人、いずれも帯刀し、一人は鯉口を切ってちらりと見える刀身が夕日を受けて赤く光っている。
「そちらは、この地の者ではないな。流れ浪士か」
近頃、各地の藩で下級藩士が国を出奔することが多発しているらしい。志あるものはともかく、藩主の改易で仕方なく国を追われる者もいれば、時流を勝手に解釈し現状への不満だけで後先顧みず脱藩し浪人になる者も多いと聞く。そのような者達の中には諸国をめぐるうちに金銭に困窮して、町人農民に乱暴をはたらいて金銭をせしめる追剥まがいの生業に身を落とす者も少なくなかった。
今、目の前にいるこの三人の破落戸もそういった手合いに見えた。気後れすることなく彼らを観察する修之輔の態度に、破落戸は次第に顔色を変え刀に手を掛けた。
「なんだ、お前は。役人の手先か」
修之輔は刀身を抜かず鞘のまま構えた。修之輔の太刀の鞘は椿の赤材に透き漆、鞘の背と腹に鋼の板が貼られた長覆輪の様相をしている。本来の長覆輪の鋼の板は装飾の施された華麗なものだが、修之輔の太刀の鞘に貼られた鋼は磨かれていない粗面である。
破落戸の殺気が修之輔一人に向けられ、既に鯉口を切っていたものが刀身を鞘から抜いた。
と、視界の片隅、初老の武士に庇われた少年がここから見て分かるほど身を震わせた。
服装や成りを見れば武士の子であることに間違いはないが、なぜそんなにまで怯えているのだろうか。一瞬、状況を失念してその少年に意識が向く。
鞘から太刀を抜かず、視線も逸らす修之輔の様子を隙と取った相手が雄叫びともいえぬ蛮声を上げて打ちかかる。
修之輔はその場で重心低く相手の一撃を鞘の鋼で迎え撃った。同時に、鞘の鋼に受けた力をそのまま先端に逃し、振り切る勢いで相手の手から刀をはじき飛ばした。金属同士が擦れてぶつかり甲高い音が辺りに響く。完全に振り切る直前、刀身の軌道を下に回転させ、そこからひと息に体重をかけて降り下ろすと椿の鞘の重さが相手の胴を打撃する。
心の臓近くを強打され呼吸ができなくなった相手が喘いで地に倒れるのを待たず、残りの二人との間合いを一気に詰め、中段に構えた一人の肘の関節を打ち、上段に構えた相手の脛を鋼で薙いだ。半歩で体の向きを変え、前傾する相手の背後から後頭部を打つ。修之輔の打撃で動きが鈍くなった者を初老の武士が体術で襲い、身動きできぬよう手首足首を拘束した。
そうして破落戸三人を二人掛かりで地面に転がし終えたころ、ようやく番所の方から大膳が手勢数人を連れて駆けてきた。
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