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68 子どもでいい
常盤さんは大使館に飛び込んで交渉すると、その日の内に私と自分の分の渡航許可を取った。
「職場離脱ばかりしてたからさ、変な能力ばかりついた」
語学も、こういう抜け道を通るようなことも。常盤さんは一言だけそうこぼした。飛行機の座席から背中を離して、私に食事を勧める。
「少しでも食べて、休んでおきなさい。たぶん強行軍になる。でも必ずお兄さんのところに連れていくから」
安心なんてできる状況じゃないけど、私は常盤さんの言葉にうなずいた。
数時間のフライトの中、何度も最悪の状況が目の前をよぎった。
白い病棟、ガラスの向こう側、動かない兄。脳裏にその光景が映るたびに目をぎゅっと閉じて、想像を追い出した。
しっかりしなきゃ。大丈夫だよって、直接兄に言ってあげなきゃ。自分を奮い立たせて、そうしなければ倒れてしまうように食事を喉に通した。
北京に着いたら、いつかのように雨が降っていた。常盤さんがタクシーをつかまえて、大使館で情報を仕入れた搬送先の病院に向かった。
『新型インフルエンザにかかった日本人の裁判官は……』
『夕方、中央病院に搬送されました』
「え!」
病院に着いたのは現地時間で夜の十時。でも、そこに兄はいなかった。
『どうして』
『重症化していたので隔離されたんです』
重症化した患者を動かして大丈夫なのか。常盤さんが早口の中国語で問い詰めたけど、答えが変わるはずもなかった。
『今日はもうバスは出ません』
運悪く天候も不安定で、タクシーもバスも運行を停止していた。移動手段が絶たれた私たちは、ホテルを取って一泊してから病院に向かうことにする。
一睡もできるとは思えなかった。私は起きだしてきてロビーの椅子にかけると、ひたすら雨降る窓の外をみつめる。
そのうち、常盤さんも階下に降りてきて向かい側の椅子にかけた。
長い間沈黙が下りていたけど、やがて常盤さんが言葉を口にする。
「大丈夫。無事でいる」
何の保証もないことなど、わかっていた。
でも私はそれを信じたくて、うつむいてうなずく。
強張った私の肩を叩いて、常盤さんは繰り返した。
「大丈夫だ」
暖房も切れた真夜中のロビー。どこかで流れる古びたテレビの雑音。その中で、私はひたすら押し黙って、常盤さんの言葉にうなずいていた。
その夜、常盤さんと男女の仲になった。
慰めてもらったといえば聞こえがいい。誰でもよかったとなじられても仕方ない。でもそうしてもらわないと、きっと生きていられなかった。
常盤さんのその行為は優しかった。想像していたような、意地悪さなんてどこにもなかった。早くと泣きそうな声でねだった私に、あやすようなキスをくれた。
早朝、タクシーを呼んで中央病院に向かった。
時々意識が遠のく。次目を開いたときは、兄が冷たくなっているのを見るんじゃないか。そう何度も思って、目を開けるのが怖かった。
タクシーは止まって、私は病院の前に立った。一瞬立ち止まった私の手を引いて、常盤さんは歩き始める。
受付で常盤さんが交渉している間が、永遠のように感じた。
「ゆーちゃん?」
ふいに聞こえた声も、最初は幻聴だと思った。
私はびくりと全身で震えて、信じられない思いで振り向く。
そこに兄が立っていた。マスクはしているけど、しっかりした顔色で。
「新型インフルエンザに感染したって聞いて……」
「いや、それは俺じゃなくて」
同僚が……と続けた兄の声を、もうこれ以上聞いていられなかった。
「わぁぁ……!」
私は声を上げて泣き始める。子どものようにぐいぐいと兄の服を引っ張って。
「嫌だ。お兄ちゃんと離れるのはいや! お兄ちゃんがどこかに行くなら、もう私も一緒に行く! 結婚してでも一緒にいる!」
無茶苦茶だと自分で思いながら、言葉を口にするのを止められなかった。
「行かないで! 置いていかないでよ!」
でもずっとそう言いたかった。涙と一緒に感情を吐き出した。
まるで駄々っ子のようにわめく私に、兄だって困ったに違いない。
「……うん。ごめんね、ゆーちゃん」
けれど兄は私の背中をさすって、ごめんと繰り返した。
「ありがとう、来てくれて。兄ちゃん、日本に帰るよ」
兄はそう約束して、確かめるようにぎゅっと私を抱きしめた。
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