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終 恋は夢、されど
四月、私は異動願いを出して、兄と一緒に故郷の福岡に戻ることになった。
――結婚は延期しようか。
部長の職務命令に反して職場離脱をした私は、退社も覚悟していた。でも勇人さんをはじめとして誰も私を責めなかったから、せめて本社は離れることにしたのだ。
ただどうしても兄と故郷に帰ると譲らなかった私に、勇人さんは抵抗を続けていた。
――「延期」、僕にできる譲歩はそこまで。また時期を見て東京に呼ぶ。
こんな時期の異動願いが間に合ったとは思わないから、きっと勇人さんが助けてくれたのだろう。
実際、兄の異動願いは間に合わなかった。兄は北京の同僚が回復したのを見届けてから帰国して、積もった仕事をこなしている。
私は先に福岡に戻って、一人で住むには広いアパートで暮らし始めた。
福岡の支社は元々最初に配属されたところだし、本社に比べれば忙しさも控えめだった。異動当初の慌ただしさが落ち着くと、周りを見る余裕もできた。
その日、私は三年目の社員として新入社員への説明イベントに出席した。
「あの子よ」
「ああ」
本社から来ている社員には、私が勇人さんと暮らしていたことを知っている人も多い。
きっといろんな陰口もある。勇人さんはもっと気まずい思いをしているかもしれない。申し訳ないと思いながらも、今は本社に戻るつもりはなかった。
「先輩は、仕事は楽しいですか。それともつらいことの方が多いですか」
新入社員からの率直な質問に、私は思ったままを答える。
「どちらもあります。でもできるなら、ずっと続けていきたいと思っています。仕事は私の一部ですから」
本当は、帰国したとき私は仕事さえ投げ出しそうだった。
――仕事にすべてを賭けちゃいけないよ。でも仕事のすべてをあきらめてもいけない。
それを止めてくれたのは、別れ際の常盤さんの言葉。
――また君と働ける日を楽しみにしている。
その常盤さんの言葉に、一筋の夢を見たいと思った。
「夏鳥さん」
イベントの合間、私が休憩室の自販機のベンチでコーヒーを飲んでいたときだった。
「……え?」
隣に座っていた常盤さんは、感じが違って見えた。
涼しげなスーツ姿も、伸びた背筋も同じ。でも、まなざしが落ち着いていた。
まるで地球を一周して、元の場所に帰って来たような。
それを表すみたいに、常盤さんの名札は「柊木一成」になっていた。常盤さんの旧姓だった。
「一年前に話したね。僕は今も夢を見ていると」
常盤さん……一成さんは、コーヒー缶を手に持って言う。
「まゆと別れたとき、もう誰かを好きになるのは嫌だと思った。でも現実に、夢は消えたりはしないんだ。それは呼吸をやめるのと同じことだから」
一成さんはもう決して軽やかではないけれど、柔らかい面差しで笑う。
「ありがとう。呼吸の仕方を思い出したよ。……君が好きだ」
だから私も現実を嫌いになれない。私を取り巻く人たちも仕事も、価値のないものなど何もないから。
恋は夢。
されど私は今を生きていて、恋をしている。
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