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街コンに参加した日から一カ月以上が過ぎた。
私は定時で仕事を終えると、真っ直ぐ家へと帰った。今日は金曜日で、世の人々が華金と言って浮かれている間にも、私は家へと帰って絵を描いていた。
もともと飲みに行く友人やデートをする恋人もいないため、真っ直ぐ家に帰るのは必然ではあったが、しかし今の私には家に帰りたくなる動機、モチベーションがあった。
街コンで刺激を受けてから、私はずっと絵を描いている。もちろん仕事が忙しい日もあり、毎日というわけにはいかないが、それでも生活の中で絵を描く時間が中心になりつつあるのは事実だった。
私は、自分が大きく変化したことを感じていた。絵をまた描くようになったことで、自分が以前よりも毎日を活き活きと過ごせていることを実感していたからだ。
専門学校に通っていた時は、将来に対する不安というものがつきまとっていた。しかし今は、社会人をやりながら空いた時間で創作をすることができる。余計な雑念がないだけに、自由にのびのびとした気持ちで作品を描くことができるのは、とても楽しかった。
そして、自分の描いた作品をSNSに投稿するようにもなった。まだまだフォロワーは少ないが、しかし投稿を重ねることで少しずつリプやいいねが付くようになった。ほんのわずかな人でも、自分の作品を見てくれる人がいるのはありがたいし、反応してくれるのは心から嬉しかった。
仕事をしている時も、移動時間や空いた時間などに頭の中で想像を膨らませ、キャラクターを構成したりしている。そうしていると仕事の中にも楽しい時間が増え、不思議と以前よりも前向きに仕事に取り組むことができるようになった。
「うーん・・・これはやり直しだなあ。もっと全体的に輪郭に丸みをもたせた方がいいなあ」
私は独りごとを呟きながら絵を描いている。しかし、こうして試行錯誤を繰り返しながら描くのが楽しい。専門学校に行っていた時も、それは同じだった。私はただ、絵と向き合っている時間、ただただ絵を描くという作業に熱中することに、幸福を感じていた。
コーヒーでも淹れて休憩しようとキッチンに向かった時、テーブルの上に置いてあったスマホが着信を知らせた。ブルブルと鳴るスマホを持ち上げると、そこには知らない番号が表示されていた。
元来が臆病な性質の私は、基本的には知らない番号は出ない。訝しい表情で画面を見つめていると、着信が切れてスマホが静かになった。
「誰だろうな?」
と思っていると、また着信が鳴った。さっきと同じ番号だった。私はびっくりしてスマホを落としそうになり、その時の弾みで通話のボタンを押してしまった。「しまった」と思ったのも遅く、通話が開始されてから切る勇気もない私は仕方なくスマホを耳に押し当てた。
「あの、どちら様ですか・・・」
私がおずおずと訊ねると、スマホからは知らない男性の声が聞こえてきた。
「極東ハウスの渡辺様でしょうか?」
電話口の相手は丁寧な口調でそう言った。しかし私は、その声音を聞いても警戒を緩めることはなかった。
「そうですが・・・」
「私、JBGプロダクションの田辺と申します」
聞き慣れない社名だな、と思った。果たしてそんな会社と取引があっただろうか、どこで名刺を渡したのだろう、と私は訝った。
「あの、弊社と取引はございましたでしょうか?」
私がそう訊ねると、電話口の相手は「ふっ」と小さい笑いを漏らした。
「いえ、極東ハウス様との取引はございません。本日お電話しましたのは、りりかの件でございまして」
「リリカノケン?」
リリカノケン? と私がハテナマークで頭を一杯にしていると、いきなり電話口から大声量の女性の声が聞こえてきた。
「おい、お前、あたしのこと忘れてんじゃねえよ!」
私は鼓膜が破れるかと思い、スマホを遠ざけた。耳がキンキンと鳴り苦悶の表情を浮かべたが、しかしその声を聞いてはっきりと思いだした。そう、一カ月前に街コンで出会った、あのりりかさんだった。
「りりかって、あのりりかさんですか? 一カ月前に街コンで会った」
「当たり前だろうが。お前に電話するって言っただろうが」
電話するかもしれないとは言ったが、電話するとは言ってない。しかし私は、細かいことを指摘するのはやめた。何か口答えをすると、また怒鳴られそうな勢いだったからだ。
「電話してきてくれて嬉しいです。実は僕、あれからずっと絵を描いてるんですよ。りりかさんのおかげで、絵を描く喜びを思い出すことができました」
私が感動に浸ってそう話すと、彼女はぶっきらぼうに「そんなことどうだっていいんだよ」と言い放った。
「どうだっていいって・・・」私は落胆し、肩をがっくりと落とした。
「そんなことよりあんたさ、仕事しない?」
「仕事? もしかして営業の引き抜きですか?」
どうやら私は見当外れな返事をしてしまったらしい。電話の向こうにいるりりかさんは、はっきりと聞こえる長くて大きな溜め息をついた。
「んなわけねえだろうが。絵を描く仕事をしねえかって訊いてんの!」
「え? 絵?」
私が素っ頓狂な返事をすると、再び男性の声が聞こえてきた。
「ここだけの話にしていただきたいのですが、この度うちのりりかがVtuberとしてデビューすることになりまして。そこで、突然のお話で恐縮ではございますが、渡辺様にりりかのアイコンの作画を手掛けていただきたいと考えております」
「え! 私にですか!」
突然の話すぎて思考が追いつかなかった。おそらくこの男性は、りりかさんのマネージャーか何かなのだろう。ということは、モデルをやっているというのは本当だったのか。しかし、Vtuberデビューってどういうことだ? それよりも、アイコンの作画って一体・・・。
私が口をぱくぱくさせていると、電話口から男性が私の名を何度も呼んだ。ようやく我に返って応答すると、「大丈夫ですか?」と心配そうな声で言われた。私は恥ずかしくなり、少し顔が赤くなった。
「すみません突然のことで混乱してしまいまして・・・。しかし、私で良いのですか? お仕事の話をいただけるのは嬉しい、というか恐縮なのですが、私は何も実績がありません。プロとは程遠いただの素人に仕事を依頼して、大丈夫なのですか?」
「渡辺様のお仕事は拝見させていただきました」
電話口の男性は、少し弾むような声でそう言った。
「へ? いつ?」
驚きのあまり、私はタメ口になってしまった。
「渡辺様が一カ月前、りりかの前で描いた作品を拝見させていただきましたが、見事な出来です。弊社としても、渡辺様なら信頼してお任せできると考えておりますし、何よりもりりか本人が渡辺様に依頼したいと、強く希望しているものですから」
「そうなんですか・・・」
私が言葉を失っていると、再びりりかさんの声が聞こえてきた。
「あたしあん時言ったでしょ? あんたの絵、気に入ったって。あたし、嘘つくの嫌いなんだよ。だから、本当のことしか言わないわけ。あたしの言ったことは全部本当なの。あたしはあんたのあの絵を見て、これをアイコンにして活動したいと思ったのよ」
りりかさんは優しい声でそう言った。その言葉は染み込むように、自然に胸の深いところまで降りて行った。
「あたしあん時訊いたよね?『もし仕事をもらえたらどうするの?』って。そしたらあんた、やりますって言ったよね。だから今日電話したわけ。ちょっと時間が経っちゃったから心配だったけど、でも今も絵描いてるみたいでよかったよ」
さっきは「どうでもいい」って言ってたじゃないですか、と私は指摘したくなった。しかし、それはできなかった。気を抜くと、涙がこぼれそうだったからだ。
「で、どうなの? やってくれるわけ?」
そこだけ、りりかさんは真剣な声だった。あの居酒屋で会った時のような、真剣な表情が脳裏に浮かんだ。
「絵師として、裏からりりかさんの活動を支えます・・・」
私が震える声で言うと、りりかさんは爆笑した。「こいつ、泣いてやんの」という声が聞こえてくる。それからマネージャーの田辺さんの声が聞こえてきた。田辺さんも笑っていたが、それは温かみに満ち溢れた声だった。
「それでは渡辺様、よろしくお願いいたします。詳しいことにつきましては、また後日ご連絡させていただきますので、そのつもりでいてください。もうあなたはプロですから、プロとして自信を持ってくださいね。私もりりかも、できるだけのサポートはします。これからともに、頑張っていきましょう」
私がお礼を述べると、電話は切れた。静かになった部屋で、私はまだ現実味を感じることができなかった。
「プロとして、仕事ができる・・・」
私は椅子に座り、ぼんやりと呟いた。実感はないが、少しずつ静かな興奮が湧いてきた。不思議と、恐怖はなかった。
「プロとして、頑張るんだ・・・」
私は、自分に言い聞かせるようにそう言った。胸の奥がゆっくりと、しかし力強く、トクン、トクンと鳴っている音が聞こえた。
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