待宵草 三

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 風は従業員用の駐車場をなめるように吹き、愛車カワサキW650を丹念に磨く朔の髪を揺らした。  風が吹いている日は洗車に適していない。砂埃が付着して、磨いている最中に車体に傷がついてしまう。  だから朔は風がのせた埃を、やわらかいハケで掃き落としてから、液剤を含ませたウェスで優しく表面をなでる。  風が吹き、ハケで掃き落とし、ウェスで磨くという単調な作業をくり返し、汚れているところが見つからないほど、クロームバージョンローハンドル仕様のW650は、美しく仕上がっていく。  高校を卒業し、君津自動車整備工場に就職して七年間、朔は毎日のように昼休みをそうやってつぶす。雨が降っていても、建物のひさしの下で雨だれの音を聞きながら、愛車の手入れをする。  ここは工場が面している国道からは建物の死界になっていて、時折背後を電車が通りすぎるだけで、誰にも邪魔されることなく静かな時間をすごすことができた。  うつむきかげんの顔に日ざしが降りかかる。  前髪が影を落とす白い肌には、高橋が花びらかと見まがったムカデの痕跡が、どこにも見当たらなかった。    拭うこともなく、洗うこともなく、それは朔の肌の上で浄化され、同化した。
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