序章 氷輪

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 風と共に流れてきた雲が小さく渦を巻いた。バラバラだった粒子が目前で一つになった刹那、一頭の獣が形成された。  風をまとっていた。  一本一本の毛がサラサラと揺れ、真冬に凛と輝く月明かりのように、ほの明るい光を放っていた。  四肢はほっそりしていて、短い毛におおわれ、動かしても歩くというでなく、空をすべるでもなく、鋭い爪が地をかく音もしない。顔形や体つきが犬のように見えたが、もっと野生味をおびていた。  犬というよりは、狼。子供の頃図鑑で見た狼によく似ていた。  その獣は距離を保って対峙し、こちらをじっと見ていた。  野生動物と目を合わせてはいけないのではなかったか、しかし——    月光のようにほの明るい瞳。  角度によって白金だったり、青かったり、美しいシラーを放つ。  獣は、瞬きを、ひとつした。まぶたを開いた時、左の瞳に、浮かび上がる金の紋様。    魅入られた。  息を吐くことを忘れた。  金の紋様から目が離せなくなった。  声が聞こえた気がした。風の音だったのかもしれない。言葉として認識をし、理解する前に視界が揺らいだ。  漆黒に囚われた意識が泥を吐く。  異臭がした。泥ではなく、ヘドロだ。  冷えて感覚を失った手で、無我夢中でヘドロをつかみ、食らった。苦く、辛く、刺激が舌を刺す臭いヘドロを、手も顔も汚しながら体内に戻そうとした。  汚物にまみれてもいい。悪だと言われてもいい。この漆黒を、この闇を我が物にしてみせる。  叶うなら、八つ裂きにし、血と肉と骨にばらし、二度と元通りに戻せないほどに砕いてみせる。苦しみにさいなまれるすべてに終止符を打てるのならば。  月光の毛を持つ獣は、『亜種(あしゅ)』が汚物にまみれ、気枯(けが)れていくさまを見ていた。  双眸は冷たく、きらめきが鋭くなった。  獣は地面を蹴った。ふわりと肢体は宙に浮き、天上目指してかけ上がっていく。  引力を無視した動きに目を奪われた。ヘドロを食らう手をとめ、獣がかけていくさまを仰ぎ見る。  風と雲が後を追った。  雲が追いつくと、獣の体はほどけて粒子に戻り、雲と同化して漆黒の闇の果てへと流れていった。
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