序章 氷輪

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 ヘドロをすくい上げていた手のひらを見た。汚れはいつの間にか消えてなくなっていた。  体が楽になっていた。立ち上がると、どこからともなく霧が身にまとわりついてくる。  再び、歩き続けなければならない。終止符が打たれるその瞬間まで。  息苦しくても、喉がひりつくほど渇いても、方向感覚が失われ、足がもつれても、たった一人の世界で立ちどまることはできない、立ちどまることが、すべての終わりだった。           *  名前を呼ばれて我に返った。  辺りをキョロキョロ見回すと、こちらを見ている人と目が合った。  その人はいぶかしげな表情をして、受付と書かれた名札が置かれているカウンターに上体を乗り出し、こちらを見守っている。 「お支払いをお願いします……」  おずおずと声をかけられて、ここが病院で、診察を終えて待合室で呼ばれるのを待っていたことを思い出した。  うたた寝をしていたのだろうか。待合室の椅子に座ってから受付の人に呼ばれるまでの記憶が、ストンと抜けていた。 「すいません……」  財布を取り出しながら受付に行くと、 「体調がすぐれませんか?」  受付の人が心配げに見上げてきた。 「いえ……大丈夫です……ちょっとうたた寝をしてしまって……」 「……はあ……うたた寝を……?」  受付の人はひどくとまどいながら会計をすませた。  それもそのはずである。この患者が待合室に戻ってきて椅子に座ったばかりの時に、自分が声をかけたのだから。  病院は時たまこういうこともある。  診察結果が思いがけなく悪いと、精神的に弱って混乱する患者もいる。この患者もそういう中の一人だと思った。 「お大事に」  あえて追求はせず、にこやかに処方箋と診察券を渡した。思いのほかその患者はしっかりした足取りで帰っていく。
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