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待宵草 一
月が蒼白い光をアパートの小さな部屋に投げかけていた。
立てつけが悪いガラス窓は、風に打たれるたびカタカタと音を立てた。
月光を奏凪が遮って、殺風景な部屋の壁に大きな影をつけた。
壁紙が古びてよれているせいで、膝を抱えてうずくまる奏凪の影は、歪んで見えた。
動くものといえば、時の流れと、まれにアパートの前を通りすぎる車のヘッドライトだけ。
水滴がシンクを打つ音が、耳に痛い。
夜はふけて、乾いた冷気が奏凪をさいなむ。
ずっと同じ姿勢をしていたせいか、冷気にふれられると、節々がズキズキと痛んだ。
今時めずらしい畳の部屋で、奏凪は部屋の主が帰ってくるのを待った。待ち続ける間、空腹をまぎらわすため、冷たい水道水を飲んだ。
部屋に夜が訪れれば、膝を抱えたまままどろんだ。日の光が額を照らすと、目を覚ました。部屋の主が出勤するのを黙って見送った。
それを数日くり返した。
もともとやせていた四肢は、枯れ枝のように折れそうだった。
双眸は落ちくぼみ、頬は削ぎ落ちる。
それでもあの家に帰ることを一瞬たりとも考えなかった。
奏凪のための部屋があって、暖房がきいていて、フカフカの布団がかかっているベッドがあって、温かい白いご飯が出てくる家であるのにもかかわらず。
あそこは月光も届かない井戸の底だ。もう一度落ちれば、二度と這い上がることはできない。
一瞬でもあの家のことを思い出し、意識が暗い井戸の底に落ちかけた、その奏凪の耳が暗い黒い世界の奥に、なじんだ音を拾う。
夜気を震わすエンジン音。
奏凪にとって特別な光を運んでくるもの。
目が輝いた。
奏凪は勢いよく立ち上がった。
低いうなりが大きくなるにつれ、奏凪の心臓の音も大きくなる。玄関のドアに耳を当て、音のありかを探す。
それは部屋の下辺りで停止し、やがて静まる。鉄骨の外階段を踏みしめる音が奏凪の胸に響き、震わせた。
足音が階段を上りきった時、奏凪はドアを開けた。
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