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「かえってきたら殺す、見かけたら殺す、電話してきたらどこにいようが探し出して殺す!!」  これが実家を出る際に親父に言われた最後の台詞である。  信じられるか?実の父親だぞ、血がつながってないとかそんなんじゃなく。しかも右手には出刃包丁が握りしめられていた。おれはあの日死んで享年二十歳となっていてもおかしくなかったのである。  けだるく「いい湯だな」を歌いながら洗い場のタイルをデッキブラシでゴシゴシと洗う。くもった窓ガラスの外は真っ青で、よく晴れていることを示唆している。示唆、というのは外に出て確認したわけではないからで、実際おれはここ2日ほど、全く外に出ていなかった。  このしけた銭湯「やじ温泉」を手伝うようになったのは、ここ半年ほどのことになる。今時流行りの「スーパー銭湯」のような便利さや面白さはない。温泉旅館のような情緒も高級感もない。古いが掃除は行き届いている清潔な公衆銭湯は、その特殊な立地だけでなんとか成り立っている特殊な銭湯である。 「汀(なぎさ)!ぼーっとしてないで腰入れてちゃんと掃除しなァ!!」  後ろから蹴りを入れられた。まさに「腰が入った」、重量感のある蹴りである。40近い我が姉ながらあっぱれな蹴りであった。おれは数メートル吹っ飛び、「やってんだろお」と小声で言い返した。あくまで小声だ。聞こえたらマズい。 「それが終わったらお客さんの相手して。後輪パンクして困ってる人いたから」  吐いて捨てるような物言い。 「ほんと、あの細いタイヤみるたびにうんざりするわ」  姉の蜜は自転車が嫌いだ。  ――ここは日本一有名な自転車道の、始まりに位置しているというのに。    ここ「やじ温泉」がそこそこ繁盛している理由の大きなひとつが、その「日本一有名な自転車道」にあった。日本中からサイクリストが集まり、泊まりがけで橋を、島を渡って、四国から本州へ走り抜ける。自転車に乗る者なら誰しも一度は憧れる聖地、その入り口にやじ温泉があったのだ。 「はーい、どうしましたー、パンク?」  そしておれはというと、スポーツサイクルの扱いに関して、ちょっとしたプロだった。パンクの修理なんて鼻歌を歌いながらでもできる。軽自動車を使ったサイクルサポートをサブの業務として請け負っているため、この温泉は年中サイクリストたちがあつまってきた。 「バーストした」  やじ温泉の前は広々とした芝生のスペースがあり、そこで自転車の修理も引き受けている。太陽の位置関係的に逆光となっていたため、その男の顔はよく見えなかった。ただ声は、低くて掠れた、とてもいい声をしていた。 「ふうん、珍しいね」  バイクさわるよ、と許可を求めると、彼はこくんと頷いた。ずいぶん長身だ。ロードレーサーにしては身体に厚みがある。 「もしかして、下りでブレーキ長く使った?」 「……、やむを得ずそうなった」  彼は素人ではなさそうだった。まず体つき。それに身のこなし。 「うわ、これルアフの最新モデルじゃん。触るの緊張するなあ。お兄さん何者だよ」  ルアフの最新モデル(ロードバイク)お値段百万円也。高すぎるバイクに行き届いた整備。  相変わらず顔は見えなかった。見ないように気をつけてもいた。好みかもしれない、という嫌な予感があったのだ。おれはバイセクシャルで、最近はどちらかというと男のほうが好きだった。しかも自転車乗りにめっぽう弱い。なるべくこの男のことを知らないまま作業を終えたかった。 「自転車乗り」 「それは見れば分かる」  手は休めずに笑いながら言うと、男は黙った。口数が少ない男なのかもしれない。ますます好みの予感がして参った。 「タイヤ交換、チューブ交換、技術料……ざっと七千円ぐらいかな。タイヤって色々種類があるからさ、見て決めてもらっていい?それによって値段も変わるし……ちょっとこっち来てもらえる、バイクは姉に見ててもらうから大丈夫だよ」  万が一盗難にでもあったら大変なので、バイクを器具によって地面に固定し、姉に見ていてもらうよう声をかけてから男を呼ぶ。母屋は銭湯だが、隣に小さな蔵を改装した場所があって、そこを自転車屋として使っているのだ。  蔵の電気をつけてから後悔した。白熱灯に照らされた男の顔はマスク越しにもすっきりと整っており、おまけに目だけが狼のように険しかった。例えるならば、夜の砂漠に浮かぶ三日月のようだった。顔立ちは端正なのに、緑がかった目だけが厳しく、鋭い。おれはこういう男を見つけると何もかも明け渡してすぐ寝てしまう。前世は鶴だったのかもしれない。恩人にすべての羽を投げ出すタイプの。  男がマスクを外した。その瞬間、おれは手に持っていたレンチを落としてしまった。 「……北岳斗」  首を回していた男は、おれと目が合うとはじめて少しだけ笑った。 「気づかれるってことは、少しは日本でも報道されたのか」 「ツールではじめてステージ優勝した日本人だぞ。連日テレビ新聞大騒ぎだよ」  男は目をそらして数秒だけ憂鬱そうな顔をした。それから、唇に指をあててささやくように言った。 「おれがここにいることは、誰にも言わないでくれ。SNSにも。休養中なんだ」 「書かない。おれ自身はTwitterもフェイスブックもインスタもやってない。銭湯のはあるけどそっちは姉が管理してる。そのかわり……サインもらったりできる?」  おれの軽薄な物言いに、北岳斗はふ、と吐息で笑った。やけに色気のある笑い方で、ますます寝たくなってしまって困った。  北が選んだタイヤを持ってバイクのところへ戻ると、姉は口を真一文字に引き結び、腕を組んで立っていた。とても機嫌が悪い顔だ。ロードバイクに関わらせるといつもこうなる。 「お待たせ。姉ちゃんありがと」 「お待たせしてすみません」  姉は北をちらりと見てからすぐに顔をそらし、それからもう一度北を見た。サイクルロードレースを心から憎んでいる谷地蜜やじ みつが、北岳斗を知っているとは思えなかったが、一瞬緊張が走った。 「いいえ、とんでもありません。銭湯の日替わり湯は今日はレモン湯になっております。よろしければお越しくださいませ」  愛想笑いを浮かべてから、姉が母屋へ消えていく。その後ろ姿を見送ってから、北は低い声で言った。 「お姉さん、きれいだな」  鼻で笑いそうになった。何もしらない奴はみんなこういう。 「そうかな、凶悪だけどね」  おれの言葉に、北はあの狼の目を細めた。 「アンタのほうが凶悪そうな顔をしてるけど」  言っておくが、おれは姉によく似ていると言われる。姉の顔から女性らしさをきれいさっぱり引いて、性格の悪さ、軽薄さを足せばおれのできあがりである。 「言うね、初対面なのに。さすが、ツール勝つような一流ロードレーサーは違いますねー、今肋骨やってるんじゃなかった、走って大丈夫なんですか?下りが怖くてブレーキ握りっぱなしにしちゃうような人が」  息を吸うように皮肉が出てくるのは、多分に嫉妬を含んでいるせいだろう。この好みの男が「北岳斗」だと分かってから、おれの中からふつふつと湧き上がる嫉妬と羨望がノンストップで脳を刺激してくる。  北は、驚いたような、傷ついたような、無垢な表情をした。それがおれを逆に自己嫌悪の渦に突き落とす。 「ごめん。悪かった」 「いいよ。こっちもセンシティブな内容に突っ込んだし、ごめんな。身体大丈夫なの」  あまりごめんという気持ちはなかったが、後味が悪いのは嫌なのでこちらも謝罪する。忘れていたが、相手はお客様なのだ。3歳も年下で、才能あふれる天才ロードレーサーなんてどうにかしてへこませてやりたかったが、これ以上頑張ってもへこむのはおれの方だと悟った。 「肋骨2本と擦過傷。慣れてる」 「タフだな。まあ、タフじゃないとやってけないか、プロのサイクリストなんてさ」  北はじっとおれを見つめてきて、目が合うとさっと視線をそらした。 「いかれた奴しかいない世界だ」 「それは言えてる。丸腰で下りなら90キロ超えるような速度で公道走ってんだもんな、押し合いへし合いしながら」  日本中のサイクリストを熱狂の渦に巻き込んだツール・ド・フランスが終わってすぐ、練習中に北が落車に巻き込まれ、ケガをしたことは知っていた。それも日本で大騒ぎだった。 「詳しいな。乗ってただけある」  呼吸を止めて1秒おれは真剣な顔したから、とふざけて歌いたくなるぐらい本当に呼吸が止まった。きっかり5秒は。 「谷地汀。イタリアのレースで一緒に走ったことあるよ、覚えてないだろうけど」  狼の目が見ている。  きっと嗤っている、と思った。目を合わせることはできなかったから、分からないけど。 「……出せ」  北は聞き取れなかったのか、おれをのぞき込んでくる。 「しゃぶってやるから出せっつってんだよ」  自我を保つため、全く無意味かつ無根拠に高いプライドを満足させるため、おれは倉庫の陰で、半ば強引に北岳斗のペニスをしゃぶることにした。どんなにすごい男でも、フェラチオされている時の顔は情けなく、無防備で、最弱になる。 「姉貴の顔が好みってことは、おれの顔もイケるだろ。無理なら目閉じて、他の女でも想像してな」  なぜ北が振り払ったり、大声を出したり、逃げたりしなかったのか。まるで分からなかった。ただただ目を丸くして、おれが求めるままに下半身を預け、そのあとは苦しそうな悔しそうな顔でおれの舌を受け入れていた。  北は射精する寸前、おれの髪に指をいれてめちゃくちゃにかき回した。長い指だった。頭皮をさぐる乾いた長い指は、官能的に髪の生え際をたどり、突然襟足のあたりを強くつかんで引いた。あまりにも強い力だったので、髪が何本か抜ける嫌な音がした。大きく力強いペニスが鼻筋に当てられ、ドロドロと頬を精液が流れ落ちた。おれはその精液をすべて舐め取ってから、地面ぺっと吐き出した。北は荒い息で、この世で一番不可解で憎いものを見つめるような顔でおれを見ていた。
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