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 見たことがない変わった形をした自転車だった。サドルが高く、ハンドルが低くて、タイヤなんて信じられないぐらい細い。 「美しいだろ。乗ってみるか?」  そう声をかけてきた男の外見も、日本では珍しい特徴を持っていた。淡い金髪、広くて少し出っ張った額、高い鼻に、薄いグレーの目。外国人だと一目で分かる顔立ちは、少し憂鬱そうではあったが整っていた。 「日本語上手いね」  おれがそう返すと、男は片眉を上げた。 「お前もな」  黙っていると、男がため息をついた。 「冗談だよ。乗るのか、乗らないのか」  周囲を見渡す。この「ど」がつく田舎に突然現れた一見オシャレなカフェは、宣伝らしき宣伝をしていないせいで全く流行っていなかった。おれが見つけたのも偶然だ。山頂のあたりにある祖父母の家から帰る道の途中で自転車がパンクしてしまい、とぼとぼと押して歩いていたら後ろからクラクションを鳴らされ、ここへ連れてこられた。 ***  朝起きて、食事をしようと冷蔵庫を開けた瞬間、顔に水がかけられた。 「あんた、また客に手を出したね」  冷蔵庫にひっかけてあるタオルを取って顔を拭く。年の離れた姉は怒ると水をひっかけてくるのだが、それはおれがまだ小さかった頃から変わっていない。人間はそう簡単には変わらないのだ。 「……誰のことだろう?ああ、あのロードレーサーか。北岳斗ね。おれに興味がある様子だったから」  水がしたたり落ちる前髪をタオルでおさえ、シンクに置いた。彼女は憎悪に満ちた顔をした。 「昔からそう。あんたは私が一番やってほしくないことばかりする」 「そんな人間をなんで家業に取り込もうと?」  姉とおれは10歳年が離れている。つまり彼女は40の手前だが、見た目は全くそう見えない。 「父の遺言だった」  一瞬、耳が遠くなった気がした。音が消え、意識が遠のく。それぐらいの衝撃だった。 「てっきり親父には憎まれているのかと思ってたけど。ああ、おれはどうして他人に憎まれがちなんだろう、一生懸命生きているだけなのに」  姉さんにも憎まれているし、と軽口を叩くおれを、姉は一瞥で黙らせた。 「あの子は本物でしょ、あんたと違って。人を陥れて自分を慰めるような、品性下劣なことはやめなさい」  北岳斗のことを言っているのだとしたら、本物どころの騒ぎじゃない。あいつは天才だ。  ただ、もう二度と走れない天才かもしれないが。 「そうだね。ちょっと遊んでみただけだから、次はない」  おれは反論できない。彼女の一番大事にしていたものを汚してしまった。きっと一生許されないだろう。おまけに、彼に対しておれは、二度と償うこともできないのだ。 「もう行くよ。そろそろお客が来るだろうから」  適当な嘘をついて、その場から逃れようとする。そのわずかな時間、彼女の目には後悔と悲しみが映った。  非情になりきれない女。おれを追い出すこともできない。憎んでいても、憎みきって嫌うことはできない。  とても哀れだ、と心の内で嘆息した。  おれの日常は単調だがそれなりに満ち足りている。多くを欲していないからだろう。自転車を降りた日から、おれの半分は永遠に死んで二度と戻ってこない。それさえ受け入れてしまえば残りの人生は消費するだけだ。 「サドルの位置も調整しておいたよ。気をつけてね」 「ありがとう、かっこいいお兄さん!」  女性二人組のサイクリストを見送ると、雨がパラパラ降ってきた。 「やじ温泉」で汗を流したサイクリストたちが、「雨だ」「最悪だ」と嘆きながら駐車場に走って行く。  朝の天気予報によれば、雨は激しくなりそうだった。芝生の広場においてあった修理道具を拾うために俯いていると、パキンという枝を踏み折る音がした。 「先日はどうも」  低いなめらかな声。おれは顔を上げずにため息をついた。 「またしゃぶってほしくなった?あいにくあれはおれの屈折した嫉妬ってやつでね。二度とないから帰りな」 「違う。礼がしたかっただけ」  ――フェラチオの?  おれが黙っていると、北がしゃがみこんでおれと目を合わせてきた。 「40日ぶりに勃った。もう二度と無理かと思ってたから助かった」  本当にフェラチオの礼だったので笑ってしまった。これによってこいつを追い払えなくなった。 「この辺でどこか美味い店を知ってるか?」  いよいよ雨の勢いが増してきたというのに、北はまるで焦る様子もなくそんなことを言った。おれは道具をかき集めて蔵の方を指さし、屋根のあるところへ誘導した。いくら休養中だといっても、日本が世界に誇るアスリートを雨に濡らして冷やすわけにはいかない。  ここらの「美味い店」は閉まるのが早いし、雨の中けが人と自転車に乗るのは気が進まなかったので、自宅のランチに誘うことにした。といっても、家の裏でとれた野菜を適当に生地にのせてチーズをばらまき、窯で焼いただけのピザだが。 「ここの生活はあまりにも暇で、おまけに都市ガスなんか通ってないからね。窯を自分で作っちゃったよ」  まあそのへんに座って、と北に声をかける。北は、土間に放置されている、朽ち果てる寸前の木のいすにおそるおそる腰掛けた。  おれの家……小屋といったほうが正確だが……は、やじ温泉の裏側にある。平屋建ての木造家屋で、寝室に使っている部屋以外はすべてモルタル打ちされた、冬はクソ寒い掘っ立て小屋だ。自転車を触ったり修理したりするのには最高だが、人間が住む環境で言えば、馬小屋のほうがずっとマシな家だ。 「焼けるのもすごい早さなんだぜ。さあ、召し上がれ」  ビールは?と問いかけると、彼は「自転車だから」と断ったので、ジンジャーエールを出してやった。テーブルも朽ち果てそうなぼろの木製だが、今のところなんとか食い物ぐらいは載せられる。  北は少しの間嫌そうな顔で野菜を見ていたが、思い切って、という様子で口に運んでから低い声で言った。 「美味い」 「お前確か都会生まれ、都会育ちだよな。まともな野菜食ったことないんでしょ。野菜は鮮度が命だからな」  ここに引っ越してきて良かったことのうちのひとつは食い物が美味いことだ。野菜は味が濃く、魚は信じられないぐらい新鮮だ。空気も水も美味い。もちろん物事には表裏あるわけで、良くないことも山ほどあるのだが。 「野菜はスーパーで買ってたけど、美味いと思ったことなかったな」 「スーパーの野菜ってのは、消費者の手元に来るまでかなり日数がたってんだよな。いま食ったそれは朝おれが採ったやつ。勝敗は目に見えてるね」  手前味噌だが相当美味い。新鮮な野菜とチーズを載せれば何でも美味くなるのだから最高だ。おまけに冬は暖もとれる。  何か言いたそうな北を無視してレコードをかけた。よく知らない人間と地雷を避けながら話をするのは苦手なのだ。それなら音楽でも聴いている方がマシである。 「……聴いたことある」  ピザのほとんどをむさぼるように食べ終わってから、北がつぶやく。 「トゥーランドット、『誰も寝てはならぬ』第三幕」 「オペラか」 「おれが好きなわけじゃない。このレコードは友人にもらった」  Ma il mio mistero e chiuso in me、の部分をルチアーノ・パヴァロッティのモノマネで歌ってみせると、北は少し笑った。 「上手だな」 「気に入ったなら他にもあるぞ。友人の遺品でね、オペラと日本の温泉が好きな変わったロードレーサーだった」  北が言葉に詰まってから何か言おうとしたので、手のひらで制した。 「ありがとう、謝罪の必要全くなし」  ニヤッと笑う。北は何も言わずにじっとおれを見つめた。狼の目は、じりじり焦げるような熱をもっておれを突き刺した。 「そいつのことが好きだった?」  質問には答えずに、食べ終わった食器を下げようとすると、北は立ち上がって「それぐらいする」とつぶやいた。おどろくほどむすっとした声だった。 *** 「礼をするつもりだったのに、こっちがごちそうになってしまって」  次は自分がおごる、と北は大きい図体を小さく縮めて小さい声で言った。恐縮している様子でも、相変わらず目だけは捕食者のそれで、まるで感情を隠せていなくて笑いそうになる。こいつ、おれに気があるのか?たった一回しゃぶられただけで? 「なあ、どうせ北みたいなのは」 「岳斗でいい」 「そういう関係じゃないでしょ、いつそんな仲良くなった?」 「肉体関係があるし」  面倒になってきた。おれはうんうんと激しく頷きながら言った。 「あーーーわかった岳斗な。岳斗みたいなやつはどうせ学生のころから自転車漬けで、日本じゃロードレーサーなんか大してモテないし免疫なくて、おれみたいなえっちでかっこいいお兄さんにコロっといっちまうんだろうけどさ、ほんと忘れた方が良いよ、お前の将来のためには。めずらしい犬に噛まれたと思って消毒して、絆創膏はって、とっとと忘れていい女でも抱きな」  自分で言いながら笑い交じりになってしまった。北は真剣な顔で眉を寄せた。 「そういう言い方は感心しない」 「ありがとう、うれしいよ」 「褒めてない」  その皮肉っぽい話し方、まるでアーチーみたいだ、と憮然とした声で北が言ったのを、おれは聞き逃さなかった。 「それ、チームルアフのエースだよな?アーチー・スミスに例えられるなんて光栄だよ」 「皮肉と自虐ばっかり言ってるけど」  でも尊敬してるんだろ、とおれが言うと、北は目を輝かせて深く頷いた。 「もちろん。アーチーのためなら自分のバイクだって喜んで差し出してきた」  家の出口にいるのに、なかなか北は帰ろうとしない。おれは腕を組み、雨が止んだ家の庭を眺めた。芝生というには整備が行き届いていない草原に散らばる雨粒が、雲の間から差し込む光できらきらと輝いていた。 「そうか。早く下りの恐怖が解消されるといいな。ほら、外がもう暗くなってきた」  北は後ろを振り返ってから破顔した。 「英国人の『帰れ』はやめてくれ。わかった、帰るから」  今は昼の15時になったところで、当然まだ外は暗くないのだが。英国人のアーチー・スミスになぞらえて冗談を言ったのが通じたらしい。  背を向けて家の中に入ろうとすると、ぐいと肩をつかまれて口に何か突っ込まれた。 「なにふんだへめえ」  抗議の声は北には届かなかった。彼はふわりと自分のバイクにまたがり、もう坂を下り始めていた。  口の中に突っ込まれたのは、手書きのメモだった。そこにはファンが泣いて喜びそうな――つまり、北岳斗の連絡先が書いてあった。
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