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 正直にいって、レースは楽しかった。いや、正確にいえばレースではなくファンライドなのだが。  やっぱり、自転車に乗るのが好きだ。おれにとって、あれ以上に気持ちがいいことはない。酒よりもセックスよりも最高だ。分かってはいたけど。  けれど、その余韻に浸っている暇はなかった。  レースが終わって、家に帰ったら姉が消えていたのだ。 「やじ温泉のことは、適任者に頼んであります」 とだけ書き置きを残して。  適任者が誰なのか分からないまま3日が過ぎた。臨時休業でなんとかしのいだがそれも限界だった。  姉の行方は杳として知れない。電話をしても使われていないという無機質な音声が流れるだけで、そもそも姉の交友関係を全く知らなかった。知っているのは婚約者だったセルジュぐらいだ。彼が生きていれば、姉の行き先はすぐに分かっただろう。  だがもういない。おれのせいで。  おれは頭をかかえた。 「まだ見つからないのか。もう三日だろう」  警察に届け出たほうがいいのでは、と北は心配そうな顔をしたが、置き手紙があると警察は相手にしてくれない。成人している人間が、自分の意志で家を出たのだから、それは「行方不明」ではないのだ。 「親戚関係とか思い当たるところは全部当たったけどハズレ。パスポートがなくなってるから、日本にいないかもしれない」  声が掠れる。これからどうすればいいのか、さっぱり分からなかった。途方にくれてばかりいられない。生活がある。自転車店を開けながら銭湯も経営するなんて絶対に無理だ。  先日のファンライドのおかげで、店の知名度が上がって客が増えた。それはありがたいことだが、目が回るほど忙しい。出張修理、車体の納車、ライドイベント、とひとりではとても無理なので、最近アルバイトを雇うことを考えはじめたぐらいだ。 「しめるしかないかもしれない」  よく晴れた空の下、銭湯の前の雑草をむしりながら、地面に向かってつぶやく。何も頼んでいないのに、同じように雑草をむしってくれている北が、こちらに視線を向けた。 「おれだけじゃ無理だ」  情けなかった。あの親父が、包丁をもっておれを追い回した挙げ句勘当だと叫んでいた親父が、帰国して生活に行き詰まったときのために残してくれていた銭湯。おれのせいでしめるなんて。どこまで役立たずなんだ、と心の中で自分をあしざまに罵った。 「決めるのはまだ早いのでは?」  俯いていた顔に影が差す。おっくうに顔を上げると、そこにいたのは―― 「僕がここを頼まれたんだけど、ごめんね。来るの遅くなっちゃって。いやあ、サシバの観察がはかどっちゃってね、つい」  元彼のひとり、『片桐先生』だった。  そうか、サシバの「わたり」があるから来たんだな、と閃いたときにはすでにやじ温泉の中に入り込み、勝手に湯を沸かしてお茶をいれていた。いやあ喉がかわいたなあ、と朗らかな声で言いながら台所をごそごそと探し回り、茶を淹れ、ダイニングテーブルに座った片桐先生を見たまま、おれも北も呆然と立ち尽くしていた。 「誰なんだ」 「鳥類学者の片桐尊。本も出してる。……イタリアコンチ時代の知り合いというか、そんな感じ」  おれのぼそぼそとした声がきこえたのか、片桐先生が立ち上がって大げさな身振り手振りで嘆いてみせる。 「……知り合い?冷たいな!あんなに深く愛し合ったじゃないか!僕の家で毎日のように貪りあったあの日々をもう忘れてしまったのかい?なんて薄情なんだ」  いつの間に近づいてきたのか、両手でおれの右手を握り込んで顔を近づけてくる。 「薄情はどっちだよ、研究でどっかの島に行くから別れよう、じゃあさようなら、いますぐ出て行ってくれって言ったのはそっちの方だろ。いきなり言われて住むところにも困ったんだからな」  のけ反りながらおれが言うと、片桐先生はひとさし指でおれの顎をひょいと持ち上げてにっこり笑った。 「相変わらず君はとてもきれいだ。あの蜜さんも、『おなじような顔なのになぜか弟の方がモテる』って嘆いていただけある」  黙って見ていた北が、おれの先生の間に割って入ってきた。 「お姉さんの居場所を知ってるのか?」  片桐先生は大げさに肩をすくめた。 「知るわけないじゃないか。人間に興味なんてないよ。頼まれたから来ただけだ、僕はこうみえてそこそこ忙しいからね」  おれはたまった息を吐きだすように溜息をつき、北は苛立ったように唇を歪めた。 「そう、誰にだって興味を持たない。人間は疲れるから。僕はいつだってそうやって身軽に生きてきた。その生き方に疑問を持ったことなど一度もなかったさ。けれど、君ときたら。そんな僕を変えてしまった」  芝居がかった物言いは片桐先生が人をからかっているときのクセだった。 「よく言う。おれのことなんか忘れてたくせに」  へらへらしていた片桐先生が、突然真剣な顔をした。 「忘れてほしかったのは君だろう?君は僕のことなんか、これっぽっちも愛しちゃいなかったんだから。僕は、出来る限りのことをしたつもりだよ。けれども、何をしたって君からセルジュの影を追い払うことができなかった。だから――」  机をたたく、激しい音がこだました。  もういいから、とおれが叫ぶと、ようやく片桐先生は黙った。 「こんなところで油売ってる暇ないだろ。また嫁に烈火のごとく怒られますよ」  おれの精一杯の棘に、片桐先生は余裕の笑みを浮かべた。  彼に怒鳴るなんて行為は無効だと分かってはいたが、本当にまるできいていなくて笑うしかない。 「とっくに離婚したさ。これで僕はバツ2ってわけだね、ハハハ」  君に頼まれたんじゃない。ほかならぬ君のお姉さんの頼みだから、僕はここにいる。  帰るつもりはないよ、と片桐先生は言った。もはやおれは――がっくりと肩を落とすことしかできなかった。
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