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1. バイト帰り
23時過ぎ。家の最寄りのコンビニに着いたところで、武藤陸は恋人である小川慎に電話をかけた。
「あ、慎くん? ……そーそー、なんかいるものある?」
電話に出た小川は、陸がコンビニに着いたことを既に承知している。バイト帰りには毎回ここから小川に電話をしているので、もう慣れたものだ。
「えっ? うんいいけど。……わかった、中で待ってるね」
陸は電話を切って、店内を歩く。雑誌などは袋がかけられていて読めないので、表紙を眺めるばかり。ファッション誌に目が行くが、今は親元を離れた学生の身、掲載された服はどうせ高くて買えなくて、虚しくなるだけだからと目をそらす。
「よ。お疲れ」
「おつ」
五分ほどで小川が入ってきた。いつもは電話で頼まれるだけだが、今日は「おれも行くわ」という返事だった。
「そっか、今日金曜だから?」
「うん。なんとなく」
小川は厚手のパーカを着込んでいるが、足元は素足にサンダル履きだった。
「なにそのカッコ」
「上羽織っただけでそのまま来ちゃった」
と笑う小川をよく見ると、ボトムスも部屋着のジャージだ。
二人で店内をうろうろ。普段の小川ならもう寝る時間が近く、夜食をとることはあまりない。陸に何か頼むときも、せいぜい飲み物か、明日の朝食べるものとかそれくらいだ。
ただし今日は金曜日。休日前夜とくれば自然と心も浮き立つものだ。
「陸、おでん食う?」
「あ、食べたい。大根、卵、巾着」
「はいはい」
この店のおでんは店員が取ってくれるスタイルなので、小川は口頭で注文を連ねていく。大根と卵は2つずつ、巾着に厚揚げ、それとこんにゃく。
その間に陸はおにぎりやお菓子を入れたかごを持ってきてレジに置いた。
「あ、そっちもまとめて払う。会計一緒にしてください」
前半は陸へ、後半は店員に向けて、小川が言った。
その申し出に、陸は素直に財布を引っ込めた。代わりにエコバッグを取り出して、手際よく詰めていく。
「レシート後で見せてね。おれの分払うから」
無事買い物を済ませコンビニを出たところで、陸が小川に言った。
「ははは。いいよ今日ぐらい、おれに払わせろよ」
「え、いいの? マジで? やったー、ありがと」
大げさに喜ぶ陸を見て、小川は苦笑した。
それから、少し彼に厳しくし過ぎたかもしれないと、小川は反省するのだ。
二人暮らしをはじめるとき、自分たちは対等の立場になったのだと告げた。教師と生徒ではなく、恋人なのだから。生活の上での都合、不都合、不満などは溜め込まず口にすること。一方的に相手に負担を求めないこと。自分のことは自分ですること。どうしてもできないときは遠慮なく頼ること。挨拶や礼儀を欠かさないこと。
ほとんどは小川が決めたものではあったが、陸は全て納得して、それがいいと思う、と言った。
もともと、小川の性分として、恋人にべったり依存する人間は好みではない。過去につきあいのあった相手もみな、自立心があり、今思い返せばドライな関係だった。
それは多分、ドライ過ぎたのだ。
だから結局、続かなかったのではないか。と小川は思う。
互いの呼び方は、「陸」と「慎くん」に落ち着いた。
「小川っち」とか「慎ちゃん」「慎さん」とか候補はあったが、いちばん呼びやすいと陸が決めたのが「慎くん」だった。それでも最初のうちは「先生」と呼ぶ癖が抜けなくて、普段はいいとしてもやっぱりベッドの中で「先生」と呼ばれるのは抵抗があった。
さすがに最近は言い間違うことはなく、「慎くん」と呼ぶ陸の声に、小川はとても癒やされている。
「ただいまー」
「おかえり、ただいま」
「おかえりー」
玄関で互いに声を掛け合って、奥のリビングへ。
「あーっ、あったけえ……、しあわせ……」
気温はそれほど低くなかったが、外は風が冷たかった。小川が暖房をつけたままにしていたので、おかげで二人は暖かい部屋に帰ってこれた。
「ちょっと先に着替えてくるね」
「うん。おでんあっためようか?」
「だね。熱々食べたいかも」
「わかった」
自室に入る陸を見送って、小川はキッチンへ。手を洗ってから、買ってきたおでんを小鍋に移し、コンロの火をつけた。
部屋着のスウェット上下を着込んできた陸は、そのまま洗面所に向かいうがいと手洗いを済ませるとようやくリビングへ。寒いのか、靴下は履いたままだった。
リビングのローテーブル。小川は前のアパートから持ってきた座椅子、陸はこの部屋で新しく買ったビーズクッションが定位置だ。
「いただきまーす」
「はい、いただきます」
小川は缶ビールを、陸はお茶のグラスを持ち上げて軽く乾杯。
「慎くんが飲んでるとこ見んの、久々かも」
「そうだっけ? 毎晩飲んでっけど」
「え、ほんと? ……あー、おれが家いねーのか」
陸はこのところ忙しくしている。平日はほとんどバイトだし、バイトがない日は学校に残っている。グラフィックを専門に学ぶ学校のため、課題をやるにも学校のPCを使うほうが都合がいい。授業のあとも居残って自習を行い、それから友達とご飯を食べて帰るので帰宅が遅くなる。
一方で小川は教師という職業柄、早寝早起きを習慣としている。陸が帰ってくる頃には小川は寝る準備を整えていて、せいぜい短い時間、会話を交わすぐらいだ。
「最近すれ違いだったもんなー。明日は? なんか予定ある?」
小川が尋ねると、陸はぶんぶんと首を振る。
「ない! ほんとは朝からバイト入ってたんだけど、来週の休みと代わってって頼まれたから、ちょうど空いたんだよね。慎くんも休みでしょ。なんかする?」
「うーん……」
くぴ、と缶を口につけ、小川は考える。
二人とも予定のない休日は久しぶりだ。小川のほうも、学校行事なんかであれこれ調べ物や準備に忙しく、落ち着いて休みを過ごせない日々が続いていたから。
陸はわくわくした顔で小川を見つめている。なんか素敵な提案を待っている。そんな表情だ。
せっかくの機会、デートに出かけるもよし、家でのんびりするもよし。そんなことをぼんやりと考えていた小川の口から最終的に出た言葉は、
「じゃあ、早めの大掃除しよっか」だった。
「へ?」
ぽかんとする陸に、小川は続けた。
「明日、ちょっと気温も高いし晴れるみたいだから。ほら年末ってバタついてるし、寒いし、大掃除どころじゃないだろ。今の時期にやっとくほうが何かと都合がいいんだよ」
「…………」
「あ、ベランダもさ、土埃溜まってきてたろ? ベランダと風呂場と、あとは換気扇か。そこやっつけとけば気が楽だもんな」
ジト、と睨まれていることにも気づかず、小川はうんうんと自分の発言にうなずいていた。必要な道具は揃っている。洗剤にゴム手袋、バケツ、雑巾、デッキブラシ。
「……しんっじらんねえ」
思いがけない低い声に、小川は驚いて顔を上げる。陸はわなわなと唇を震わせており、その表情には怒りをにじませていた。
しまった、と思うが、もう遅い。
「もう、サイテー。ここは甘い空気出すとこでしょ! 絶対デートに誘われると思って待ってたのに!」
「ああ、ごめん。ほんとごめん」
こういうところだ。自分のよくないところが出た。
ついさっき反省したばかりなのに、小川はまたやらかしてしまったのだ。このドライ過ぎる態度はいつも、相手を呆れさせてきた。
「慎くん、釣った魚に餌やらないタイプ?」
「ちょ、ちょっと待ちなさい。それは聞き捨てならんセリフだ」
「だってそーじゃん。つきあう前はもっと、色んなとこ連れてってくれたのにさ。最近家で過ごしてばっかだし、いきなり大掃除とか言い出すし」
そんなふうに感じていたのか。
陸の言葉に、小川はショックを受ける。
いかん、どう考えてもこれはいかん。
「……悪かった。ほんとごめん。不満があるなら、いま、全部言って欲しい。おれはキミが大事で、釣った魚とは思ってない。おれの態度に問題があるなら、ちゃんと直したい」
真面目な顔でそう言うと、むう、と唇を突き出していた陸は眉根を寄せたまま、小さく笑った。
「あーあ、もう。……そういうとこ!」
「どういうとこ? 何が嫌だった?」
「違うよ。そういうとこが好き」
ふい、と目をそらしながらも、陸は表情をやわらげる。
「えっ。えっ、なに。そんな話してた?」
陸を怒らせたと思っていたのに。突然の「好き」に小川は動揺してしまう。それでも陸は困ったように笑って、はあ、とひとつ息を吐く。
「すぐ真面目になっちゃうとこ。別に本気で怒ってたわけじゃねーし、ちょっと拗ねてみただけじゃん。慎くん、なんでも正面から受け止めて、かしこまって話しようとするよね。……でも、そういうとこが、好きなんだよなあって、思っただけ」
言いながら恥ずかしくなったのか、陸は照れくさそうにうつむいた。
「りく」
名前を呼んで、小川は陸を抱き寄せる。
「ん」
「可愛い。ちゃんと好きって言ってくれて、嬉しい」
「~~~~ッ。ねえ、ほらそういうとこ!」
小川の腕の中で顔を真っ赤にして陸が悶える。
「なに? 今度はどういうとこ?」
「もう、知らねー!」
「あはは」
ぎゅ、と抱き返されて、小川は笑う。
しばらくぎゅうぎゅうと抱き合って、それからお互いの顔を見て、目が合うと、陸はすぐに目を閉じた。そうしたらもう、小川のすることはひとつ。差し出された唇に、キスを落とすことだけ。
その夜は、小川の部屋のベッドで、二人で眠った。
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