2. 朝

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2. 朝

 陸が目を覚ましたとき、小川はまだ眠っていた。  布団から出た顔や肩が少し冷たくて、陸は昨夜のぬくもりにすがるべく、寝ている小川に身を寄せた。  休日の彼は、朝寝を楽しむ。つきあう前は少しも見せてくれなかった寝顔を、今はたっぷりと眺めることができる。ぽつぽつと伸びたひげ、薄く開いた唇。力の抜けた寝顔は、起きているときよりも少し幼い。  春から同棲をはじめて半年と少し。あっという間に冬の入口だ。二人で過ごす時間はつきあう前に比べて当然のように濃密で、どの瞬間も、大切で、愛しい。  小川という人は、おもしろい。いつも淡々としていて、真面目な顔して冗談を言うから、笑っていいのかわからないことがある。  クールに見えて実は熱いところもあって、たとえばテレビのニュースを見て陸がなにか感想を言うと、「どうしてそう思うの?」と掘り下げてくる。それは何もお硬い政治の話題なんかじゃなくて、芸能人のスキャンダルとか、ご近所トラブルとか、そんな些細なテーマであっても、ときに深く議論することがある。小川は自分が話すのも、陸が話すのを聞くのも好きなようで、ベッドに入っても、いつまでもおしゃべりがやまない夜もある。  ケンカも、ときどき。といっても大きなものではなく、ちょっとした行き違いがほとんどで、そのたびに二人はよく話し合って、解決していく。  陸にとっては初めての恋愛で、人と比べるべくもないけど。この人でよかった、と、いつも思う。長く過ごしていって、相手を深く知れば知るほど、もっと好きになる。 「…………お腹空いた」  もうしばらく寝顔を眺めていたかったが、ぐうう、とお腹が鳴ってしまった。そろそろ起きることにしよう。 陸は布団の中でもぞもぞと足を動かし、つま先で触れた服を足の指でつまんで手繰り寄せた。昨夜脱いで、そのまま丸まって、布団の中に転がっていたロングTシャツ。しわくちゃになっているが、とりあえず今はこれでいい。それから床に落ちていたスウェットパンツをはいて、椅子に引っ掛けていたパーカを羽織り、そっと部屋を出た。  朝の冷え込むキッチンに立ち、まずはカップに白湯を一杯。それをちびちび飲みながら、鍋に水を張って火にかけた。だしの素とお塩を少々。それからじゃがいもをピーラーで剥いて、ざくざくと適当に切って鍋に入れる。湯が沸いてきたら冷凍庫から細切りにした玉ねぎの袋を取り出して、ひとつかみ鍋へ投入。野菜に火が通ったら弱火にして、味噌を溶かす。  その間、冷凍庫に入っていた、ラップにくるんだ炊き込みご飯をレンジであたためておいた。それを茶碗に盛り、味噌汁をお椀に注いで、小口切りにした万能ねぎをこれまた冷凍庫から出して、ひとつまみ。 「よし、できた!」  トレイに載せて、リビングのローテーブルへ。ラグの上にぺたりと座り、一人きりの朝食だ。 「いただきまーす」  冷蔵庫や冷凍庫に入っている食材は、ほとんど全て陸が入れたものだ。肉や野菜は特売日にまとめ買いして、小分けに冷凍。  バイト先である居酒屋の調理場で、仕込みや味付けを盗み見て覚えたものを家で試したり、レシピ本を見たり。凝ったことをしてもどうせ続かないから、自炊は「頑張りすぎない」をルールにしている。 「おはよー……」  食べている途中で、小川が起き出してきた。 「おはよ」 「朝からうまそーなもん食ってんな」 「お味噌汁まだあるよ? ご飯も冷凍庫」 「あー、……いや、いいわ。食えねえ」  小川は胃のあたりをさすりながら、インスタントコーヒーを入れた。彼の目覚めの一杯はいつもコーヒー。座椅子に腰を下ろして、それを飲み終わるまではぼーっとして動かない。それは平日でも休日でも同じだ。 「それ、何入ってんの」 「じゃがいもと玉ねぎ。おいしいよ」 「へえ。ちゃんとしてんね、キミは」  まだ半分目が開かない顔で、小川が言った。  陸と違って、小川は自炊をほとんどしない。一人暮らしの頃から食事は弁当や惣菜、インスタント食品、それにデリバリーや外食で済ませてきた。たまに気にして冷凍のブロッコリーだのほうれん草だのと買ってみるが、大体はインスタントラーメンかレトルトカレーにトッピングするくらいしか使い道がない。  二人暮らしを始めてから、冷蔵庫がちゃんと活用されていることに、小川は密かに感動している。チルド室ってそういう役割だったんだ、とか、野菜の冷凍ってそうやってやるんだ、とか、新しく知ることばかりだった。 「ごちそうさまでした」  陸は朝食を終え、食器を下げる。その場でささっと洗ってしまい、水切りかごへ。  二人の食事は各自で済ませることが多い。陸は親元を離れ自由を謳歌しているので、気を使わせたくないという小川の思いもある。ただ、休日の昼と夜は、なるべく二人で同じものを食べようね、という約束はしている。 「洗濯機回すよ。あるんだったら一緒に入れちゃうけど」  陸が声をかけると、小川は少し考えて、 「じゃあかごに入ってるやつだけお願いしていい?」と答えた。陸は「わかった」と言って洗面所へ。  小川はこまめに回す派で、陸はまとめて回す派だ。自分のことは自分で。でも、ついでがあるなら負担にならない範囲で手を貸すことも。  互いに気遣い合うことで、二人は本当に、居心地の良い空間を築いている。 「昨日は結局、なんか曖昧になっちゃってたけど。今日どうする? 行きたいとこある?」  コーヒーで目が覚めてきた小川が、陸に尋ねる。 「んーんん、特に行きたいとこってないんだけど、でもせっかくだから出かけたい」 「そうだね。おれスリッパ買おうと思ってたんだった、そういえば。いま思い出した」 「スリッパ?」  陸が訝しい顔をする。小川は淡々とした調子で言った。 「最近冷えてきたし、キミのスリッパ夏用でしょ? いつも寒そうにしてるの気になってたんだよ」 「えーっ、うそ、おれのスリッパ?」 「そうそう。陸のスリッパ」  予想外の小川の発言に、陸は目を輝かせる。そんなところを見てくれていたのかという、嬉しさと恥ずかしさと。実際陸のスリッパは畳敷で、この季節、素足で履くには寒いなと思っていたところだ。 「へへ。そっかー……おれも慎くんになんか、買ってあげたいな」 「その気持ちだけでじゅうぶん、嬉しい」 「ふふ」  目が合って、軽くキス。  小川はロマンチックなせりふなんかひとつも言わないが、スキンシップは多いほうだと、陸は思う。もちろんこれも、他と比べたことはないからわからないけど。  朝でも夜でも、目が合えばふと顔が近づいてくる。最初の頃は慣れなくて、いつも驚いていた。ただ、この習慣が当たり前になってくると、キスがなければ落ち着かなくなった。  背後から抱きしめられたり、膝に抱えられたり。そういうわかりやすい愛情表現はもちろん嬉しい。でも、他にもただくつろいでテレビを見たり、本を読んだりしているときに、肩や膝、ときには足の裏なんかがぺたっと触れてくるのも、なんだかとても嬉しいのだ。  洗濯を終えた陸がだらだらしていたら、小川はさっさとフロアワイパーをかけて簡単に掃除を済ませ、着替えて出かける支度を整えていた。 「ほら、陸! いつまでそんなカッコしてんの!」  と、母親のような小言を投げてきて、さすがにそのときは、少し笑った。
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