光のキャンパス

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光のキャンパス

 それは、いわゆる一目惚れというものだった。  漂う絵の具の匂い。部屋の中央に並べられた色とりどりのキャンパスとその目の前に座る部員らしき数人の姿。描かれている絵はどれも素敵なものばかりだったけれど、そんなことよりも、一人の生徒に詩乃の目は釘付けになった。  半分ほど開け放たれた窓から吹き込む風になびく髪。伏せられた睫毛がかける長い影。口許に微かに浮かぶ微笑。真っ直ぐにキャンバスへと向けられている瞳はきらきらと輝いていて。  筆を持った白く細い指が動く度に小さな世界が広がっていく。滑るように現れる線も、鮮やかなグラデーションで彩られる光も全てこの世のものとは思えないほど綺麗で。  一時もキャンバスから逸らされることのないその横顔を廊下から見つめながら、詩乃はからだの底から沸き上がって来る一つの強い感情に思わず胸を押さえた。  ……描きたい。あんな風に、あの人のように。私も描いてみたい。同じ景色を見てみたい。  それが、詩乃が初めて彼女に出会い、惹かれた日だった。 ◆◆◆  暖かい日差しの差し込む午後。出来上がったばかりのコーヒーを片手にキッチンから仕事部屋へと戻ってきた詩乃は、机の上で長いこと放置していたスマートフォンが点滅していることに気付きマグカップを置いた。  代わりに手に取ったスマートフォンを明るくすれば、有名な緑の連絡アプリのアイコンの横に一件の通知表示。送り主の欄に記されているのは、随分と懐かしい名前で。 【久しぶり、詩乃。元気にしてた? 来月さ、俺主催で美術部の同窓会を開く予定なんだ。たまには詩乃も来てよ。俺も皆も詩乃に会いたいからさ】  内容を読んだ詩乃は思わず眉をひそめた。  同窓会。大学生時代にはよく今回のような誘いのメールもきていたが、主催者の夕輝が就活で忙しかったためここ数年は集まりを開いていなかったらしい。久しぶりの同窓会となれば盛り上がるだろうなと詩乃は考え文字を打ち込んだ。 【久しぶり。元気だよ。ごめん、同窓会の件だけど私は行かない。また欠席にしておいて】  すぐに既読がついたが、返事を待つことなく画面を暗くして詩乃はスマホを机の上に置いた。少し冷めてしまったコーヒーを口内に流し込む。  口いっぱいにコーヒー特有の苦味が広がりすっと頭が冴えていく。ふわふわとした甘味ではなく現実へと強引に引っ張ってくれる苦味はここ数年間、気を抜けばすぐに回想に浸りそうになる詩乃を現在に繋ぎ止めてくれている。  詩乃はふうと息をついた。室内に漂う紙の匂い。書きかけのキャンパスは一度集中が途切れてしまうとなかなか手をつける気になれず、その中途半端な世界を詩乃はぼんやりと見つめた。  詩乃は同窓会に顔を出したことが一度もない。高校卒業以来、美術部の面々には会っていなかった。大学に通っていた頃に一度だけ潮田夕輝に会ったくらいで、それも近状を軽く報告し合った程度。上京した詩乃をわざわざ訪ねてきた彼は、大学でも何かに取り憑かれたかのごとく狂ったように描き続けている詩乃に、「詩乃は本当に絵が好きだね」とどこか悲しそうに笑っていた。  それ以降も定期的に誘いは来たが直接会うこともなく、詩乃の方から連絡することもなかった。それでも夕輝は、いつも断る詩乃にもこうして毎度律儀に声をかけてくれる。根が真面目なのだろう。高校の時から変わっていない、あの頃から夕輝は優しい。 「……もう忘れてくれていいのに」  私のことなんか気にしないでくれていいのに。詩乃はマグカップをかたんと音を立てて置いた。  作業に戻ろう。気合いを入れて立ち上がり鉛筆を手に取る。  そう、作業だ。今の詩乃にとって絵を描くことは作業。いつか夕輝が言っていたように好きで描いているわけではない。そんな純粋な気持ちで描いていた時期はとうに過ぎ去ってしまった。あの日、高校に置いてきてしまった。それなのに今でも詩乃が絵を描き続けているのは、そうしていないと駄目だからで。  詩乃はキャンパスに向かい合おうとして、ふと視線を横にずらした。  物の少ない棚の影に隠すようにして置いてある一つのキャンパス。鮮やかな夏の色でひまわり畑が描かれているそれは、物に執着することがない詩乃が唯一捨てられないでいるもの。  ……忘れもしない、彼女が詩乃のために描いてくれたものだった。 ◆◆◆  紺野美玲。その若さに反してプロ顔向けの作品を幼い頃から描き続け、何度もコンクールの優秀賞を得ているという天才。風景画や人物画だけに留まらず版画や水墨画など様々な方面にもその能力を存分に発揮し、その技術の高さはプロも舌を巻く程。世界の注目を集める、輝く将来を期待された話題の少女――  そんな彼女と詩乃が出会ったのは中学三年の夏休み、高校の学校見学の日だった。  校内案内と詳細説明が終わった後の部活見学の時間。このまま帰るのは勿体無いと考えるもとくに目当ての部活もなく、適当に校内を歩き回っていた詩乃は、中学で美術部に入っているからというだけの理由でなんとなく美術室に足を向けた。けれど次の瞬間。  詩乃は堕ちた。  真剣な表情で真っ直ぐにキャンパスと向き合う彼女を見て、あんな風に描きたいと詩乃は強く思った。生まれて初めて、あんな風に絵と向き合ってみたいと思った。  一度思ってしまうと抑えられなくて、詩乃はその日家に帰ってすぐにスケッチブックを開いた。真面目に部活に出たことがなかったから何もかもめちゃくちゃで下手くそな絵。それでも今まで考えていた他の学校を放り出してまでその学校を志望校を決めた。全部彼女に会うため、彼女のように絵を描くため。 「こんにちは。部長の紺野美玲です」  受験を終え無事に入学した詩乃は迷うことなく美術部に入部した。そこで待っていたのは彼女の笑顔で。 「あなたが早坂詩乃ちゃんね。入部してくれてありがとう!」 「は、はいっ……!」 「ふふ、そんなに堅くならなくていいよ? これからよろしくね、詩乃ちゃん」 「よ、よろしくお願いしますっ!」  憧れの気持ちはますます強くなっていった。  美玲は上級生の中でも特に優しく、丁寧に教えてくれた。まずは初心者向けのデッサン。鉛筆の持ち方から手の動かし方、影の付け方まで。おかげで詩乃はどんどん上達していき、同じ新入部員の夕輝たちと共に毎日美術室に通う日々を送った。  春が過ぎ憂鬱だった期末考査も終わり、高校生初の夏休みを迎えてしばらく経った頃。 「あっつー」  頭上で燦々と照り続ける太陽に詩乃はうんざりとして額の汗を拭った。あんなに暑いと感じた午前中から今まで一度も涼しくなることなく、むしろどんどん上がっていく気温。詩乃だけでなく周囲の生徒たちも同じように文句を溢しているのが聞こえてきた。  詩乃はふうと息をついて持っていたバケツを一度地面に置くと、まだまだ元気な様子の頭上に手をかざす。 「せめて日陰があればいいのに……」 「中で休憩でもしてくれば?」  そんな詩乃の横をすり抜け涼しい顔で歩いて行く夕輝の背を詩乃は慌てて追いかけた。 「いやよ。先輩が待ってるもん」 「俺がそのバケツも持っていこうか?」 「そんなに持って行けないでしょ、というか先輩にサボってるって思われるのはいやだもん!」 「何なのさ……」  歩く振動で二人の腕の中にあるペンキのバケツたちがカランカランと音を立てる。詩乃と夕輝が適当な会話で暑さを紛らわしつつ、やっとの思いで中庭へ辿り着くとそこには美玲一人が立っていた。 「あ、美玲せんぱ……」  駆け出そうとした詩乃の足が止まる。  美玲の足元に広げられたブルーシート。その上に立てられた大きなスタンドと大きなキャンパス。彼女の視線は目の前の巨大なキャンパスに真っ直ぐ向けられたまま逸らされることがなく、刷毛を持った彼女の手は滑るように流れるように動き続けている。  その真剣な横顔に詩乃と夕輝は声をかけるタイミングを逃してしまい、不自然に立ち尽くしたまま美玲の手の動きを追った。  いつものキャンパスよりも何倍も大きい、さっきまで真っ白だったはずのそれは今、二人の目の前で美玲の手によって鮮やかな世界へと生まれ変わろうとしていた。  夏らしい日差しの下で、それぞれカラフルな風船を手に走る笑顔の少年少女たち。辺りにはシャボン玉が飛んでいて、まるで夏の一ページをそのまま切り取ったかのような、文化祭らしく賑やかで明るい絵。まだ色は半分ほどしか塗られていないが、その世界は確かに広がっていて。  ふいに美玲が手を止め息を付いた。刷毛にのせた色が薄まってきたのだろう。そのままバケツに刷毛を突っ込み、軽く伸びをした彼女の瞳が二人を見つけパチパチと瞬いた。 「詩乃ちゃん夕輝くん! 追加のペンキ持ってきてくれたのね。ありがとう!」 「あ、いえ……」  その声にハッと我に返った詩乃は慌ててバケツを抱え直す。カツンと鈍い音が鳴った。 「遅くなってすみません、先輩。ここに置いて大丈夫ですか?」 「うん、お願い」  よいしょっと夕輝がブルーシートの隅にバケツを下ろし色別に並べていく。周辺には予備の刷毛やら筆やらが用意されていたが、どれも色や水が付いてないのを見るに美玲一人で描いていたのだろう。まだ作業を開始してからそれほど経っていないはずなのにほとんど完成している看板に、詩乃はさすがだなあと美玲を見つめた。 「これ文化祭のメイン看板になるんですよね」 「そうよ、美術部がいつも任されているの。去年は先輩も多かったけれど今年は人数が少なくて大変だわ」 「素敵な絵ですね。とても文化祭らしくて俺好きです」 「そう? ありがとう」  ふわりと微笑む美玲。詩乃は眩しそうに目を細めた。 「やっぱり先輩はかっこいいですね」 「え?」 「私、いつか先輩みたいな絵を描きたいです!」  詩乃の言葉に美玲は一瞬戸惑ったように瞳を揺らしたが、すぐに微笑んだ。 「ありがとう。そう言ってもらえて嬉しいわ」  だけど、と視線を落とす。刷毛やバケツから跳ねたペンキが飛び散ったブルーシートには古い絵の具の跡もあって。昔からこうして使われてきたであろうことがわかる。 「詩乃ちゃんは、詩乃ちゃんだけの絵を描いてあげてね」  どういう意味だろう。詩乃は続けて聞こうとしたがそれよりも一足早く美玲が立ち上がった。 「さあ、もうひと頑張りしましょうか」  振り返った彼女の笑顔はいつも通りだった。もうこの話は終わり。詩乃はそれ以上聞くことはできなかった。  夏休みも終わりに近付いてきた頃、詩乃たちは文化祭で展示する絵の部内鑑賞会を開いた。美術室内に並べられた部員たちの絵をそれぞれ鑑賞していく。描き手が違えば描き方や表現の仕方、色使い、作品の雰囲気なども全て異なる。それぞれが自分のペースでゆったりと鑑賞する中、詩乃はひとつの絵の前で立ち止まった。  作者、紺野美玲。それは屋上から見る曇り空だった。晴れでもなく雨でもなく、一番光加減の難しい曇り空。繊細な表現が必要になってくる難しい題材でも、さすがと言うか美玲は完璧に描いていて。 「詩乃、見すぎ」  夢中になってじっと見つめていた詩乃の隣に夕輝が並んだ。我に返った詩乃がその声にバッと振り返る。 「は、はあっ?」 「先輩の絵ばっか見てるじゃん。駄目だよ今は全員の作品を見る時間なんだから」  その言葉に詩乃はうっと言葉を詰まらせたが、でもとすぐに夕輝を睨み付けた。 「そういう夕輝だって人のこと言えないでしょ。ずっとここに立って見てるじゃない」 「まあね」  詩乃の指摘に反論することなく夕輝は素直に頷いた。 「紺野先輩の絵は本当にすごいから」  羨望の眼差しで離れた場所で部員と話す美玲を見つめる。この学校の美術部員の能力は他の学校と比べ随分高い方だが、その中でも彼女の絵はやはり特別だった。  紺野美玲は皆の憧れだった。彼女の絵は魅力的で、彼女の描く世界は美しくて。彼女の光は眩しかった。輝きを失うことなんて永遠にないと誰もが信じきっていた。  けれど、その日が来たのは突然だった。 「紺野先輩、今日は珍しく来ないね」  洗ったばかりのパレット片手にやってきた夕輝が、ドアの方をちらりと見やってからそう口にする。つられて詩乃も顔を上げた。いつも美玲が座っている席は空っぽだ。滅多に部活を休まず、休む時も必ず始めに顔を出しにくる彼女にしては珍しい。 「さあ。忙しいんじゃない?」  素っ気なく返しはしたが、内心では詩乃も気になってしょうがなかった。美玲に会えないのは寂しい。 「画材とかの買い出しかもよ」  前回の部活の時に絵の具が無くなったって言ってたし、と詩乃は付け足す。夕輝はうーんと苦笑いを浮かべた。 「それだけだといいんだけどなあ」 「なに、先輩に用事でもあったの?」 「そういうわけじゃないけどさ。なんか落ち着かなくて」  改めて見渡せば、いつも静かな空気に満ちている室内がどことなくざわざわとしていて。  その時ガタガタと窓が揺れ出したかと思えば、突然降り出した雨が叩き付けるように音を立てて。皆が一斉にしんと静まり返ったのがやけに印象的だったのを詩乃は覚えている。  そして、詩乃たちがある一つの事実を知ったのはその翌日だった。  ――紺野美玲が、自殺した。 ◆◆◆  ズキッと鋭い痛みが走り、詩乃はこめかみを押さえた。耳元でドクドクと激しく波打つ心臓の音が、ここが変わらない現実であることを訴えかけてくる。  学生時代、詩乃が憧れていた先輩は死んだ。これからまた一年が始まるという春の日だった。まだまだ教わりたいことがあった。話したいことが、聞きたいことが詩乃にはたくさんあったのに。  感情のままに手の中の鉛筆を握り締める。がりっと硬い感触が伝わってきて、爪がじんと痛んだ。  彼女の見ている世界を、詩乃はずっと見てみたいと思っていた。彼女だけに見えているその景色を一緒に体感してみたかった。彼女の目にはこの世界がどんなに美しく見えているのだろう。どんなに光で溢れているのだろう。そう考えてばかりいた。  それなのに。 「……どうして……」  美玲は死んだ。  いったい彼女にとってこの世界は何だったのだろう。彼女の手によってあんなにも綺麗に描かれていたはずのこの世界が、彼女を死へと追い詰め殺した。そのことが詩乃は信じられなかった。  美しく見えていたのではなかったのか。光で溢れていたのではなかったのか。詩乃がそうだとばかり思い込んでいた、見たいと思っていた美玲の世界は、実際は暗闇に包まれていて醜く歪んでいたのだろうか。  詩乃は何も知らなかった。何も気付けなかった。当時の詩乃はよく美玲にくっついてまわっていたというのに。休日に一緒に出掛けたり、画材を買いに行ったりもしていたのに。近くにいたのに。  絵の中で上を向いて咲く鮮やかなひまわりが、詩乃には眩しかった。  小さく息をついてから、詩乃は立ち上がって絵の前まで歩いた。はずれていた布をまた元通りにかけ直そうと手に取る。思い出に蓋をするかのように。あの頃を、彼女への思いを封印するかのように。そうして詩乃は生きてきた。一緒にいれば嫌でも思い出してしまうからと、卒業後は美術部の面々と関わることを徹底的に避けた。  美玲が世界からいなくなったと知ったあの日から、彼女への想いを消すために詩乃はひたすら絵を描いてきた。彼女の絵を超えることができれば忘れられると、何の確証もないのにそう思い込んで。  美大を卒業して画家になった。こうして小さなアトリエを構えることができるまでに詩乃は成長したが、一日の大半を絵を描くことに費やす、そんな日々を毎日繰り返すばかり。描いても描いても忘れることなんてできずに、いつまでも美玲の光に囚われたまま。 「美玲先輩……」  詩乃は布を手にしたまま腕を力なく下ろした。 「……私は、どうしたらいいですか……」  忘れられない。あれからもうすぐ十年が経とうとしているというのに、詩乃はまだ前を向けていなかった。 『詩乃ちゃん』  ふわりと微笑んで名前を呼んでくれる。美玲の姿を詩乃は今でも鮮明に思い出すことができた。詩乃の中の美玲はいつも笑っていて、明るくて。そんな彼女に誰もが惹かれたのだ。詩乃も、夕輝も、他の部員も、世界も。  こんなにも簡単に思い出すことができるのにもう美玲はいないのだ。  もう一度、彼女に会うことができたらどんなにいいだろう。話せなくてもいい。遠くから見るだけでもいい。数秒でもいいからもう一度……もう一度、彼女に会うことができたのならと。そんな願いばかり思い浮かんでくる。 「私だけなのかな……」  まだここにいるのは。いつまでも美玲を追い掛けてしまっているのは。  同じ美術部員の中で、詩乃と同じように美大を目指した人はいなかった。きっと今は美術と無関係な生活をしている人が多いのだろう。少なくとも詩乃のように、絵に執着してはいないはずだ。  詩乃だけが高校時代に取り残されている。そんな感覚がどうしても離れなくて。  気が付けば詩乃は、もう一度スマホを手にしていた。無機質な呼び出し音が響き渡り途切れる。 『もしもし』  その声は記憶よりも少し低くなった、けれども懐かしい声で。ああと詩乃は目を瞑った。夕輝だ。 「……私。早坂詩乃。突然電話してごめん」 『えっと……えっ、ちょっと待って、ほんとに詩乃? 俺の知ってるあの早坂詩乃?』  戸惑ったような混乱したような、そんな声が聞こえてきて詩乃は思わず苦笑いをした。 「驚きすぎでしょ」 『いやだって、全然連絡してなかったしさ。しばらく会ってもないし。あれ以来じゃない? 大学の時に俺が詩乃に会いに行った時』  うわー懐かしい、と笑う夕輝は変わっていない。あの頃から少しも。それでも本当は変わっているのだ。詩乃よりもずっと先にいる。夕輝は前に歩いている。  詩乃は小さく息を吸い込んだ。 「あのさ。夕輝に聞きたいことがあって」 『俺に聞きたいこと?』 「どうしたら、一度見た光を……忘れられるかな」  意味がわからなくてもいい。伝わらなくてもいい。とにかく詩乃は聞きたかった。 『……それは……』  あの日を乗り越えた夕輝はどうやって忘れたのか知りたかった。答えを出すにはもう、詩乃一人じゃ無理だから。 『詩乃は忘れたいの?』  夕輝の問いに詩乃は言葉を詰まらせた。 「私は……」 『忘れられないってことはさ、詩乃の心がそれを忘れられるほど、今に追い付いてないってことじゃない?』  追い付いて、いない。その通りだと詩乃は思った。  忘れたくない。だけど忘れられないから詩乃は今、前に進めていない。そうしていつまでも、いつまでも現実から目を逸らしている。信じたくないと逃げて、全部嘘だったと信じていたくて。 『……大丈夫だよ、詩乃』  黙り込んだ詩乃に夕輝は静かに告げた。 『詩乃だけじゃない。俺も皆も……忘れてなんかないよ』  その言葉にハッとして詩乃は顔を上げた。目の前の鮮やかなひまわりが詩乃の視線を受け止める。 『簡単に忘れられるものじゃない。今でも覚えているよ。忘れたことなんて一度もない。俺も、たぶん皆もね』 「でも皆は……」 『別にさ、無理に忘れようとしなくてもいいんじゃない?』  その言葉は、声は真っ直ぐだった。 『俺たちが過ごしたあの一年間は確かにあったものなんだから。それに、詩乃や他の仲間にも出会えた。封印なんてできないよ。俺の中で一番輝いていた時期は間違いなくあの頃だから』  夕輝の言葉は真っ直ぐで、力強くて。けれど優しくて。 『だから詩乃も、忘れなきゃって変に思い詰めない方がいいよ。本当に忘れたいなら話は別だけど、違うんだろ』 「……うん」 『じゃあそれでいいよ』  忘れなくていい。夕輝はそう言った。 『それがきっと詩乃の答えだよ』  わたしの、こたえ……詩乃は口の中で繰り返す。忘れたくないなら忘れなくていい。それが、答え?  美玲の光は詩乃にとって眩しくて。それは今も変わっていない。どう頑張ってもどんなに再現しようとしても彼女のような絵は描けなくて、追い付きたくても追い付けなくて。  美玲がいなくなって辛かった。苦しかった。だから詩乃は忘れなきゃと狂ったように絵に向き合った。けれどその辛さは、苦しさは……全て美玲を失ってしまったことに対する悲しみから来たものだ。楽しかった日々を、充実した時間を与えてくれた彼女にもう会えないことに対する悲しみだ。それなら夕輝の言う通り、無理に忘れる必要はあるのだろうか?  あの一年は確かにあったもの。あの日々は確かにあったもの。彼女にもらったたくさんの言葉は確かに彼女からもらったもの。夕輝だけじゃない、詩乃にとってもあの日々が一番輝いていた時間で、封印なんて簡単にできるものじゃなくて、忘れたいとは思えないもので……  忘れたくない、大切なものだ。 「……なんだ……」  見えていなかっただけで、答えはこんなにも近くにあった。ちょっと素直になれば簡単に見つけられたのだ。詩乃が自分の気持ちに向き合っていれば、もっともっと早く見つけられた。  忘れられない。忘れたくない。なかったことになんてしたくない。それでいいんだ。 「夕輝」 『んー?』  詩乃はそっと目を瞑った。あんなに逃げていたのが馬鹿みたいだった。 「私も行く」  もう逃げない。大丈夫。 『え? どこに?』 「同窓会。来月開くんでしょ」  少しの沈黙。詩乃の脳裏に夕輝のポカンとした顔が頭に浮かんだ。きっと今そんな顔をしているのだろう。 『え、ええっ! 詩乃来てくれるの! 待って珍しすぎる超レアじゃん、早く皆に連絡しないとっ!』 「あはは、うるさあ……私なんかが行くくらいで大袈裟すぎでしょ」 『そんなことないよ』  相変わらず騒がしいなあと笑う詩乃に夕輝は違うと否定した。 『毎回毎回集まる度に皆さ、詩乃の話してるよ。今も絵を描いててすごいって、詩乃は俺たちの誇りだーって』 「誇り……」 『だから皆、詩乃が来るって聞いたらめちゃくちゃ喜ぶよ』  夕輝の言葉に携帯を持つ詩乃の手が震えた。 「っ、そっ、か……」  絞り出した声は揺れていた上にひどく掠れていて。 『詩乃? どうかした?』  夕輝の心配げな声が流れてくる。優しい、けれど美玲とは違う高さで。  ずっと、一人きりだと詩乃は思っていた。美玲という光を失って何をしたらいいのかわからなくなった。それほどまでに、詩乃はあの一年を彼女と絵に注いでしまっていたから。簡単には切り替えられないほど夢中になってしまっていたから。心配してくれた夕輝も声をかけてくれた美術部のメンバーも見えなくなっていた。そのまま卒業して、一度も会うことなく現在に至るというのに。 「……優しすぎるよ……」 『え? なにか言った?』 「何でもない」  夕輝、と詩乃は小さく呼んだ。 「ありがとう」 『えっ、何が?』  戸惑う夕輝に詩乃は笑った。 「これからは、私らしい絵が描けそう」  それは何かが吹っ切れたような、夢を瞳に浮かべていたあの頃のような。そんな笑顔だった。
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