紅の瞳のお伽噺

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紅の瞳のお伽噺

 知らない知らない 僕は何も知らない  叱られた後のやさしさも 雨上がりの手の温もりも  でも本当は…… 「さあ、一緒に帰ろう」  これは、名も無い時代の集落の、名も無い幼い少年の。  誰も知らない……おとぎばなし。 ◆◆◆  世界の至るところで起こっていた戦乱が落ち着き、次の世へと移り変わるまでの僅か数十年。歴史上で見れば取るに足らない、振り返られることもないそんな名もない時代。  とある山の麓にひとつの集落があった。長がそこに集う人々を束ね指揮する、どこにでもあるような集落。いや、他の集落と比べれば少し大きい方に入るだろうか。けれどもその集落には、人口や面積などといったものよりも明らかに異色なものがあった。それは……  【忌み子】の伝承。今も濃く残る【鬼の子】の言い伝え。  当時、国内で最も恐れられていた存在である鬼。真に実在するかもわからぬ中、悪いものや不吉なものの源は全て鬼の仕業とされていた世の中。この集落ではごく稀に、生まれた瞬間から鬼に呪われた子【忌み子】が生まれ、その子は災いをもたらすと云われているのだった…… ◆◆◆ 「何をしている! 宴まであと数刻しかないのだぞ、さっさとご用意するのだ!」 「はい只今!」 「まったく、ただでさえ人が足りぬというのに。今宵は周辺の集落の長殿方が集う宴、完璧に準備せねば……」  日の高く昇る頃。宴の準備に賑わう屋敷とは異なり、敷地の奥にひっそりと建つ離れは閑散としていた。  分厚く頑丈な黒塗りの扉に遮られ光のほとんど届かない世界。一度も使用されていないのではと思うほど埃の被った家具が点々と存在し、掃除の行き届いていない床は歩く度にざらざらと不快な音を立てる。  そのさらに奥で、ひとりの幼い少年が壁に背を預け座っていた。薄汚れた薄鼠色の着物から覗く手足は病的なまでに白く細く、今にも折れてしまいそうな程。ろくな手入れもされていない黒髪は背の中ほどまで伸びきってしまっている。脱力したように垂れた頭のせいで表情は髪に隠され、彼が今何を思っているのか読み取ることはできない。  不意に固く閉ざされていた扉が開き、何かが放り込まれた。固いものが床にぶつかる音。すぐさま元通りに閉められた扉。暗がりの中少年の足元へと転がってきたのは、むき出しのパンと一本の瓶だった。パンと言っても大きさは半分にも満たない量、手のひらほどの瓶の中には水らしき液体が僅かに入っている。 「……」  少年はそれらをちらりと見やると、無言でゆっくりと手を伸ばした。傷だらけ、痣だらけの細い指がパンの欠片を掴む。間近で見るとそれが歯も簡単には通らないほど固くなったものだとわかるが、少年は迷うことなく慣れた手付きでそれを口に運び、長い時間をかけて飲み込むと、続いて水を胃に流し込んだ。毎日同じものを同じ量体内に入れていく食事と言う動作。少年にとっては食事の時間だけが自ら体を動かす唯一の時間だった。  空になった瓶に少年の瞳が映る。真っ赤な、紅の瞳。  少年は【忌み子】と呼ばれていた。  鬼の象徴である紅の瞳。禍々しいその色は昼も夜も関わらずギラギラと瞬き世界を捕らえる。この集落で災厄をもたらすとされている忌々しい存在。  産まれついた時から忌み子、鬼の子として少年はその身に余る数多の罰を受け続けてきた。生きているということこそが罪であり反逆だと。  少年は何も期待をしていなかった。悲しいと嘆くこともなく、苦しいという感情を抱くこともなく。淡々と与えられた日々を過ごすだけ。それ以外の日々を知らない。  何故自分は死なないのだろう、と少年は常に考えていた。どんなに殴られ蹴られ、焼かれ切られ……人々の言う罰というものをどんなに受け続けても、少年は死なない。ただ単に生命力が高いだけなのか、あるいは本当に不死身の生き物に産まれたのか。少年自身にも正解はわからなかった。  ……誰にもその生を望まれていないのなら、自分が生きている理由はないのに。いつまで生きているのだろう、何故死なないのだろう。そんな少年の無意味な想いは今日も暗がりの中に吸い込まれていった。  けれど、光は突然射し込むもので。 「ここかなあ」  カタンと扉が揺れると共に外の空気が入ってくる。食料と水は先程与えられたばかりだというのに、それほど時間を空けず再び扉が開かれるというのは珍しい。そう思って顔を上げた少年は、扉から覗く大きな瞳とパチリと目が合った。 「あれ、ここ蔵じゃ……」 「……」  迷子だろうか。浅葱色の着物を来た子供。少年とほとんど歳は変わらない様に見えるが。  座り込む少年を映した瞳がこれ以上ないほど大きく見開かれる。その瞳にじわじわと滲んでいく戸惑いと……暗い色。 「お、おれ、宴用の杯を取ってくるように言われたんだけど……もしかして、間違えた……?」  その色を少年は嫌というほど知っていた。産まれてから今まで、毎日のように何度も何度も見てきた。恐怖、怯えの色だ。得たいの知れないものを前にした時に人間が見せる色。  きっとすぐに身を翻し出ていく。そして叫ぶのだろう、鬼だと、鬼がいたと。  そんな近い未来を頭に描き少年は顔の向きを元に戻した。不意にはっと息をのむ気配が伝わってくる。 「それ……キミ、怪我してるの?」  ひどい怪我だと焦ったように建物内に足を踏み入れた彼は、埃まみれの床に一瞬足を止め、しかしすぐに少年に向かって駆け寄ってきた。  屋敷の者でも罰を下す時以外近付いてこないというのに、彼は躊躇うことなく少年の側に膝をついた。 「どうしたらこんな体になるのさ……おれと大して変わらない子供なのに……この集落は平和だって言ってたのに」  いつの間にか怯えの色は完全にかき消えその瞳は苦しげに歪められている。無造作に自分へと伸ばされた手を少年はぼんやりと見つめた。また、罰が来るのだと。そう少年は思った。  けれど現実は意外な方へと向かった。 「痛いよね……悲しいよね。もう冬なのにこんなところで一人で……」  ぼろぼろの着物の裾から覗く少年の細い腕にそっと手が触れる。まるで壊れ物に触れる時のように。握り潰すかの如く強く掴むのではなく、包み込むように。 「ねえ」   経験したことのないものが触れた手を中心に広がっていく。そんな感覚を少年は味わっていた。 「おれ、キミの名前が知りたいな」  温かい。そう思った。  話しかけてはいけないのに。ここに来ること自体禁止されているはずなのに。何故今目の前にいる彼はこんなにも自分に歩み寄ってくるのか、真っ直ぐに瞳を合わせられているのか。わからない。  目は合っているというのに一言も発しない少年を不思議そうに見つめて、彼はまさかと眉を下げた。 「キミ喋れないの?」  舌のない少年の口は既に、言葉を正しく発音する機能を完全に失っていた。問われても少年には答えられないのだ。ましてや【忌み子】に名前などあるはずもない。 「じゃあおれがキミの名前を付けてあげる」  少年の心を読んだかのように彼はそう言った。 「キミは……うん、コウだ。コウがいい」   コウ。コウ……少年は心の中で与えられたばかりの名を転がした。不思議な発音をする名だ。 「憶えていて。必ずおれがキミをここから出してみせるから」  その言葉に僅かに目を見開いた少年に、約束だと彼は小指を差し出して微笑んだ。 「おれはナオトキ。よろしく、コウ」  それは光の射し込むことのなかった暗闇に、初めて眩しい笑顔が咲いた日だった。 ◆◆◆ 「チッ、忌み子の分際でしぶとく生きやがって……」 「はあ……長老様もいつまでコイツを置いておくおつもりなのだろうか。いい加減こちらまで呪われてしまいそうだぞ」 「あーあ、いつまでこのお役目を続けなきゃならないんだか」 「……」  鉄臭い独特な香りと赤で埋め尽くされる視界の隅で、棒や提灯などを手にした数人の影が灯りに照らされて揺れた。 「気味が悪いんだよ、鬼の子なんてよお」  さっさと死んでくれ。そう吐き捨てて扉が乱暴に閉められる。始終響いていた叩き付けるような雨の音が遠退いていった。代わりに湿気で重たい空気が辺りを包み込む。 「……」  痛みは感じないが体を起こす気が起きず、床に這いつくばったまま少年は扉を見つめた。いつかのようにまた光が入ってくることはない。期待をしているわけではない、夢なんか見ていない。少年は夢のひとつも見ることは許されないのだから。無意味で無駄なことはしない。  五年間、少年の日々が変わることはなかった。少年にコウという名を与えた、ナオトキと名乗った彼はあの日以来、少年の前に姿を見せることはなかった。  ……約束、とは何だったのだろう。自分をここから出すと、彼が言っていたあの言葉の意味は何だったのだろうか。  少年は思考を進めるようにゆっくりと瞬きをした。  まだ知らない、わからないことばかりだった。けれどあの日初めて触れた温もりが、いつまでも少年は忘れられないでいる。初めて見た光が、脳裏に焼き付いて離れないでいる。  けほっと血と共に咳をこぼして少年は床に手をついた。よろよろと重い体を起こしていく。段々と鮮明になってきた視界に映るのは誰もいなくなった空間、毎日毎日見ている世界。  なんとか背を壁に預けることができた少年は静かに目を瞑った。散々に打たれ疲弊した体から力が抜けていく。そのまま、意識は暗闇へと落ちていく…… 「うおっ、何だコイツ! どこから出てきた!」 「ここは立ち入り禁止だぞ!」 「侵入者だ! 侵入……」  不意に外が騒がしくなり、弱まってきていた雨音に混じり何かのぶつかる音と悲鳴が空気を伝って少年の場所まで響いた。見張りの者らしき声が不自然に途切れる。あっという間に元通り静まり返った外から近付いてくる足音。  カタンと扉が揺れ、重い音を立てて開かれていく。奥で座る少年の足元まで光が射し込んできた。その光を背負って何者かが離れの中へと足を踏み入れてくるのが少年には見えた。 「まったく弱い見張りだね。ろくな者を置いていない、形だけじゃないか」  それは、黒髪の青年だった。赤く汚れた棒を片手にぶら下げ、薄い草履に包まれた足で少年へと近付いてくる。そして最も目を引く……浅葱色の着物。 「おまたせ、コウ。遅くなってごめん」  五年ぶりに姿を見せたナオトキはそう言うと、僅かに目を見張った少年の前に手を差し出した。 「さあ、一緒に帰ろう」  居場所はどこにもないのに。帰る場所なんて、ないのに。  君が眩しいほど綺麗に笑うから……沢山の光を背負っていたから。  その手を掴んでみたいと、少年は思った。彼の生きている外の世界を見てみたいと思った。だから。  少年が僅かに持ち上げた手をナオトキはしっかりと受け止めてくれた。あの時よりも大きく、厚くなった手。幼かった子供から光へと導く青年へと変わったナオトキは、あの日と全く変わらない温もりを持っていて。 「……っ……」  手を引かれるままに少年は立ち上がった。ふらふらと慣れない足取りで歩き出す。少年にとってあんなにも大きく、この小さな世界の全てだった扉は、ナオトキの手によってあっさりと開け放たれた。  初めて足を踏み入れた外の世界は眩しかった。紅く染まった空。沈んでいく日。草木に残る雨の名残が光を反射して煌めいている。そんな美しい夕焼けの世界が少年とナオトキの前に広がる道を照らしていた。 「コウ」  ナオトキが振り返り少年の名を呼ぶ。五年前のあの日、彼が与えた名を。少年にとって初めての名を。 「……」  言葉の代わりに、繋いだ手に僅かに力を込めて。コウは小さく頷いた。  交わることのない正反対だった二つの物語が、再び重なった日だった。 ◆◆◆  夜の空気に包まれた森の中に響く二人分の足音。踏み出す旅に生まれる着物の擦れる音。はあ、はあと自分の荒い息が頭に直接響くような感覚に呑まれながらも、手を引かれるままにひたすら足を動かしてきたコウは、自分の体が限界を迎えてきていることに気がついた。  ただでさえ弱っていた体だ。普通に比べ少量の不定期な食事。毎日のように受けた罰の痕。おまけに歩くことに慣れていないコウがいきなり長距離を歩けるはずもなく。 「コウ! 大丈夫?」  段々と失速しついにかくんと崩れ落ちてしまったコウに、ナオトキは慌てたように地面に膝をついた。荒い息を繰り返すばかりのコウはナオトキの声にも応えられず、そんなコウの顔をナオトキは心配気に覗き込む。 「そっか……外出たことないんだよな。草履もないし。ごめん、歩くの速かったね。少し休む?」  コウは微かに首を横に振った。それを見たナオトキは少し悩むような素振りを見せてから、そうだと顔を上げた。 「コウ、落ちないように俺にしっかり掴まっててね」  そう言うなりナオトキはコウを背負い、腕を自身の首に回させると立ち上がり再び歩き出した。驚くコウの気配を察知したのか彼は苦笑を溢す。 「揺れるだろうけど我慢してね。追っ手が来ているだろうし、できることなら進めるとこまで進んでおきたいんだ」 「……」  ナオトキは真っ直ぐに前を見つめていた。コウに話を振っては明るく笑い、何か物音が少しでもすれば立ち止まって慎重に気配を探る。それでもコウを下ろして一人で進もうとすることは決してなかった。  何故そこまで必死になってくれるのだろう。何故やめないのだろう。何も関係がないというのに、どうしてそこまで…… 「コウ、どうかした?」  くいっとナオトキの着物を軽く引っ張れば、彼はすぐに気付いてコウを肩越しに振り返った。その瞳は確かにコウを映していて、コウの禍々しい紅の瞳もはっきりと読み取れるというのに。 「……」  忌み子の自分を助けるなんて重罪に入ることだろう、それを外の世界で生きていたナオトキが知らないはずがない。それなのに何でやめないんだ。見つかれば殺されちゃうくせに、どうしてそこまで。忌み子の自分が怖くないのか。鬼の子と呼ばれる自分が恐ろしくないのか。  言葉にはならないものばかりがコウの胸の内に溜まっていく。思わずコウはナオトキの肩を掴む手に力を込めた。 「不思議そうだね、コウ」 「……」 「何で助けたのか、って考えてるでしょ。俺人の心読むの結構得意なんだよね」  戸惑うように瞳を揺らしたコウに、ナオトキはクスッと笑った。 「大した理由じゃないよ。一言で言ってしまえばこれは……そう、自己満足だ。俺はただ許せなかった。それだけなんだよ」  真っ直ぐに前を見つめるナオトキの瞳は確かな意思の光を持っていた。強い想いの光。今までのコウにはなかったもの。 「裏で忌み子だとか訳のわからないことを言ってコウを傷付けているくせに、表ではこの集落は平和だと平気で口にする上の連中のことが許せなかった。だけど一番許せなかったのは、そいつらの言葉を鵜呑みにして、何も疑わず何も知ろうとしないで平和に浸っていた俺自身なんだ」  さわさわと風に草木が揺れる音。どこからか梟の鳴き声が聞こえてくる。深まっていく夜の気配が二人を包み込んでいた。 「初めてコウと出会った時、俺はコウの瞳を綺麗だと思った」  その言葉にコウは目を見張った。醜い、忌々しいとは何度も言われてきたが綺麗だと言われたことなんて一度もなかった。だってこの目は忌み子の証なのだから。気味が悪いだけだろう。 「鬼の象徴なんかじゃない。禍々しくなんてない。俺はコウの瞳以上に綺麗なものを見たことがないよ。今でも心からそう思ってる。嘘じゃないよ」  コウに回される手に力が込められる。 「あの日……コウの瞳の中は暗かった。折角綺麗な瞳なのに勿体無いって思った。何でそんなに暗いのか、何が暗くしていたのか、当時の俺は全く知らなかったから。でもさ、見えた気がしたんだ」  遠くの方へと視線をやってナオトキは目を細めた。  「コウの瞳の中に光があった。小さかったし今にも消えそうなくらい弱々しかったけど、確かに見えた。俺にはその光が外に出たいって、ここから抜け出したいって訴えているように見えたんだ」  だから、とナオトキは続けた。 「叶えてやりたいって思った。コウに外の世界を見せてやりたい。そのために俺にできることは何でもするって。五年も掛かっちゃったけど、ようやく今日コウを迎えに来ることができた。覚悟だって決めてきたよ」 「……」 「ねえコウ」  もう一度、ナオトキはコウを肩越しに振り返った。前を見つめていた瞳がコウを映し出す。 「俺はコウの傍にいる。この先何があっても、俺はこの手を離すつもりはないよ、コウ」  約束だと。いつかと同じようにナオトキは微笑んだ。その笑顔が眩しくてコウは目を逸らす。 「コウは……俺にとって、光なんだ」  その言葉の意味も、そこにどんな想いが込められているのかも、コウにはわからなかった。けれどその声はとても穏やかで、優しくて。コウはそっと目を瞑ると力を抜いて全身をナオトキに預けた。  温かい。冬の夜特有の冷気で冷えきった体が、ナオトキと触れている箇所から温まっていく。慣れないその人の温もりはコウにとって違和感だらけで、心地好くて。  それから夜更けまでナオトキは先を行き続けた。すっかり辺りが見えなくなると茂みに身を隠しながら二人は色々な話をした。ナオトキは今まで下人の子として屋敷に度々出入りをしていたこと、ここ五年間でたくさんの集落を見てきたこと、世界は本当に広くあの屋敷はほんの一部にしか過ぎないこと。 「すごく綺麗な湖のある村があったんだ。暮らしている人たちも偏見なんてない優しい人たちだった。あんな小さな集落なんかが全てじゃないんだよ。一緒に行こう、コウ。これから俺たち二人で世界を旅するんだ」  その時並んで見上げた満月が印象的だったのをコウはよく憶えている。自分へと真っ直ぐに向けられるその瞳が嬉しかった。 「俺たちきっとどこにだって行けるよ」  初めて夜明けを知った。深く暗かった夜が光に照らされ徐々に輝きを得ていく。その光景はとても美しくて幻想的で、コウの脳裏に強く焼き付いた。  世界は広い。それをナオトキはコウに見せてくれた。教えてくれた。知らなかったことがひとつひとつ明かされていく。あの世界に閉じ込められたままでは知ることのできなかったものをひとつひとつ見つけていく。それを楽しいとコウは思った。ナオトキと共にこの広い世界を旅する。なんて魅力的な話だろうと想像しては浮かれた。そんな未来が待っていればどんなにいいだろうかと心から思うようになった。  けれど、コウは本当はわかっていた。自分には光など似合わないことを。夢なんて見れないことを。鬼という邪な存在は不幸しか招かないことを。 「いたぞっ! あそこだ!」  それは夜明けが過ぎ、再びナオトキがコウを背負って歩みを再開してしばらく経った時だった。二人の背後から不意に響き渡った声にコウとナオトキはビクッと肩を揺らした。振り返れば屋敷の役人らしき数人の男たちが二人を指差し叫んでいるところで。 「そんなっ、早すぎる……まだ一夜しか経っていないのに……!」  驚きに目を見開いたナオトキがすぐさま身を翻し、男たちとは反対方向へと駆け出した。決して振り落とすことのないようにコウを背負う手に力を込め、整備されていない道へと踏み入れる。 「コウ、絶対に俺から離れないで!」 「……っ!」 「おいさっさと捕らえるぞ! 絶対に殺すなよ!」  大声と共に追い掛けてくる気配。ナオトキは息を乱しながらもぐいぐいと速さを上げていく。コウは言われた通りナオトキの背にしがみついたが、所詮子供の足が大人に敵うわけもなく。 「このっ、鬼め!」 「っ……!」  背後から伸びてきた腕がコウの着物の襟を掴んだ。ナオトキから引き剥がされたコウの体が勢いよく地面に叩き付けられる。痛みに顔を歪めたコウの傍を男たちが荒々しく駆け抜けていった。 「コウッ!」  少し離れた所で地面に押さえ付けられているナオトキが抵抗しながらコウを見る。 「逃げてっ……はやくっ! コウだけでも……!」 「黙れ!」  込められる力が強くなったのだろう。ぐっと苦しげにナオトキの顔が歪むのを見てコウは慌てて体を起こし立ち上がった。 「……っ!」  ナオトキ! そう呼んだコウの声は届いただろうか。 「おとなしくしろ!」  ぐいと乱暴に腕を掴まれ再び地面へと叩き付けられる。コウは必死になって暴れたが、弱った体で敵うはずもなく簡単に押さえ付けられてしまった。 「……コウ……」  その声にコウが顔を上げれば、同じように取り押さえられているナオトキと目が合った。かろうじて自由となっている腕をコウに向かって必死に伸ばしてくる。コウも夢中になって自分の腕を伸ばした。手と手の距離が徐々に縮まっていく。もう少しで指先が触れる…… 「何してんだっ!」 「いっ……!」  ナオトキの指を男の一人の草履が荒々しく踏みつけた。ぐいっと体を引き上げられ二人の距離が開く。 「コウ……!」  布を被せられ視界が閉ざされる。真っ暗となった世界でもしばらくは遠くから微かに聞こえてきていたナオトキの声も途絶え、ついにコウはひとりきりになってしまった。  寒かった。暗闇を怖いとコウは思った。見えない敵相手にどんなに暴れて抵抗しても押さえられる力が一層強くなるだけで。ついにどこからか伸びてきた手に首の裏を打たれ、コウは意識を手放してしまった。  それは、何年何十年……いや、何百何千何万年……もっともっと長いように感じた日々の中、たった一夜に起こったあっという間の出来事だった。 ◆◆◆  気が付けば、また暗やみの世界に戻っていた。 「……」  少年は自分の体を見下ろす。傷だらけ泥だらけの足。確かに外に出た、その証は残っているというのに。  ジャラリと少年が動く度に鎖が鳴った。両の手首と足首。冷たく固い感触がキツく触れる。治まりかけていた傷や痣も増えて悪化していた。  ……きっとこれは、罰だ。忌み子の分際で、鬼の子の分際で外の世界を望んだ罰。  夢のひとつも見ることは許されていないというのに、夢を持ったから。卑しい身分の癖に光に憧れたから。だから罰を受けたのだ。 「……」  ナオトキ。彼は大丈夫だっただろうか。今どこにいるのだろう。無事なのだろうか。  少年は膝に力なく頭を押し付けた。何を考えても無駄で無意味なこと。今までそう割り切れていたことが今はもうできない。思考を、自分の心を消すことができない。一度知ってしまったものを、もう手放すことなんかできない。  じくじくと体が訴えかけてくる痛みを抑え込むように少年が丸くなっていると、少年の世界を隔てる重い扉が乱暴に開け放たれた。 「はは、随分とおとなしくなったなあー。始めからそうしてりゃよかったのによお。忌み子の癖にあんなに暴れて手間かけさせやがって」  ニヤニヤと下品で卑しい笑みを貼り付けた男が入ってくる。少年は顔を上げなかった。  わかっていた。扉を開けたのは彼ではないこと。期待なんか……期待なんか、していない…… 「チッ、無視かよ」  憎々しげに少年を見下ろすと、男は手に持っていた棒を少年に向けて振り下ろした。 「っ……」  痛みに息が詰まる。今まで痛みを感じたことなどなかったのに。少年の体は男が棒を力任せに振り下ろす度に跳ねた。傷痕が増えていく。至るところを赤い線が伝っていった。 「ああ……そういえば、お前に良い知らせを持ってきてやったんだった。感謝しろよ」  不意に男が棒を手の中で弄びながら少年を見下ろした。 「あいつ、お前といた奴だけどな」  ハッとして少年は顔を上げた。ナオトキ。ナオトキのことか、いったい彼は今どうしているのだろう。また―― 「――昨夜処刑されたよ」  その言葉に、目の前が真っ暗になった。 「可哀想になあ。忌み子なんかに心惑わされて死ぬなんて。愚かな奴だ」  少年は全ての感覚が遠退いていくのを感じた。男の声が歪んでいく。キーンと耳障りな音が頭に響く。  ……ナオトキが、死んだ? 「忌み子を外に出したなんてこの集落で収められる話じゃない。お国に対する反逆罪、大罪だ。まあ当然の刑だな」  ……また、会いたい。なんて。叶わない望みだった。  外から誰かを呼ぶ声が聞こえてくる。何やら言い捨てて男が出ていったが、少年はそんなことにも気付かなかった。  ナオトキが、死んだ。なんで。ナオトキは悪いことなど何もしていない。ただ助けてくれただけだ。外の世界を見せてくれただけだ。ボクの望みを叶えようとしてくれただけなのに。 『覚悟だって決めてきたよ』  あの日のナオトキの言葉が甦る。その覚悟は死に対するものだったのだろうか。少年を救うという行動が反逆罪となることを彼は知っていたのだろうか。  少年はグッと拳を握り締めた。  最低だ。理不尽だ。忌み子として生きる少年だけでなく何の関係もないナオトキの人生までもをこの世界は潰した。それが許せない。それが憎い。 「っ……ぁあ……」  ……こんな世界、皆いなくればいい。ボクとナオトキ以外、皆いなくなってしまえばいいのに。そうしたら、そうしたら。ナオトキは死ななくてよかった、ボクらは自由になれたのに。皆いなくなればいいんだ。消えてしまえばいいんだ。無くなってしまえばいいんだ。こんな世界なんて。  こんな世界なんて、ボクにはいらない。 『叶えてやろうか?』  少年の頭に直接響き渡るようにして聞こえてきた、知らない声。ざらざらとした低音が鼓膜を揺らす。少年はのろのろと顔を上げた。視界に映るのは誰もいない真っ暗な世界。 『忌み子と名付けられ生きる子よ。憐れな鬼の子よ』  その声は続いた。 『人生とはひとつの物語だ。ひとつとして同じものはない。選ぶがいい。ここでソナタの物語の続きを生きるか、物語を終わらせるか』 「……っ……」  誰かもわからない。この声が何なのかもわからない。だけど。 『選べ』  気が付けば少年は立ち上がっていた。体中に走る鋭い痛みが動きを鈍くする。体を支えているだけでも限界だったが、そんなことは少年の意識にはなかった。  誰でもいいと少年は思った。この声が何であっても、誰であっても構わない。関係ない。  答えなんて決まりきっていた。この日々を物語というのなら、そんなものすぐに捨ててやる。続きなんかいらない。こんな物語、もう終わりでいい。迷うことなんてなかった。  少年は顔を上げて天井を睨み付けた。どこからか響いてくる声が笑う。 『ソナタのその望み、叶えてやろう』  次の瞬間、目が眩む程の光が辺りに広がり、少年は思わず目を瞑った。周りの世界だけが少年を置いて光の方へと吸い込まれていくような感覚。全てが歪んで、壊れて、離れていく。  少年の意識はそこで途切れた。 ◆◆◆ 「……コウ」  声がする。 「いつまで寝ているんだよコウ、ほら起きて」  ボクの名前を呼ぶ声。優しい、懐かしい声。安心する声。ボクはこの声の持ち主を知っている。 「コウってば」  ボクに名前をくれた。ボクに世界を見せてくれた。ボクに雨上がりの手の温もりを、人の手の温もりを教えてくれた…… 「目を覚まして、コウ」  その言葉に導かれるようにコウは重い瞼を持ち上げた。目の前に差し出される大きな手のひら。その向こうで光を背負い笑顔を咲かせる青年の姿。 「っ、ナオトキ……」  コウははっとして口許を手で覆った。声が、出る。言葉を紡げる。舌も体の傷も痣も全てが治っていた。今まであんなに重く感じていたのに、自分の体じゃないみたいに軽い。 「おはよう、コウ」  やっと起きたねと青年は微笑む。驚いたように瞬きを繰り返すコウの手を取り立ち上がらせた。 「このまま目を覚まさないつもりかと思ったよ。ほら見て、もう日が暮れちゃったよ」  いつの間にかコウたちは広い草原に立っていた。どこまでも、見渡す限り続く自然。見上げた空は初めて外の世界を見た時と同じ、綺麗な夕焼けが世界を染め上げている。 「ここは……」  どこなのだろう。コウと青年以外誰もいない。何もない。ここもナオトキがコウに見せてくれた外の世界の一部なのだろうか。それとも。 「……ナオトキ」 「なに?」 「無事……だったのか」  ナオトキは、処刑された。その命はもう…… 「何言ってるんだよ、コウ」  青年は笑った。 「俺はコウの傍にいる。そう言ったじゃないか」  俺は嘘は言わないよと彼はコウの目を見て言う。どこからか吹き上げてきた風が二人の間を揺らし髪を掬っていった。 「ほら、早く行こう」 「行くって……どこに」 「決まってるじゃないか。コウが望んだ世界にだよ」 「ボクが……望んだ、世界」 「そうだよ。もう俺たちは自由だ」  知らない知らない 僕は何も知らない  これからのことも君の名も だけど…… 「さあ、一緒に帰ろう、コウ」  今はこれでいいんだと ただ本当に思うんだ  目の前に差し出された手をコウは迷うことなく取った。手を引かれるままに走り出す。二つの影が草原を駆けていく。大きな空を飛ぶ鳥のように、広い海を泳ぐ魚のように。自由な世界へ旅立つ。そして影は……  夕焼けの中に吸い込まれて消えていった
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