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落花生、という言葉の響きが落第生みたいで、私はあまり好きではない。
別にその所為で受験に失敗した、とは思っていないけれど、母親に持たされたお土産の中には何故かチョコレートがまぶされたピーナッツのお菓子が混ざっていた。それも大きく『落花生』と書かれている。
誰かが電車の窓を開けたのだろう。つんと鼻先が潮の臭いを感じた。
海の香りは私にとって母方の祖父母の臭いだった。浜が近く、小さい頃は学校の長期休みによく海水浴に連れ出された。
子どもは海が好きだ、という思い込みは祖父母に限らないが、少なくとも私は海に連れて行かれたことで嫌いになった訳ではなく、元々海が嫌いだった。海を見て綺麗と言うのは汚れたものや浮かんでいるもの、落ちているゴミに自分の体に付着する砂や泥、海藻に目を瞑って初めて口から出すことのできる、まやかしの言葉だ。もしくは安全地帯からただ眺めているだけの、全く他人事の上辺だけの言葉だ。
そういう薄っぺらい煎餅のような、少し力を入れるとぽきりとなる言葉を、他人は遠慮なく掛けてくる。
「残念だったね。でもまた来年があるよ。一年くらい大丈夫大丈夫」
大丈夫なら気分転換に祖父母の家に遊びに行ったりはしない。いや、そもそも気分転換なのだろうか、これは。
高校生ですらなくなり、私はいわゆる「浪人生」という身分で呼ばれている。自分には無関係な言葉だと思っていたこの“浪人”という響きが、同級生だった人たちから口に出されると思いの外、胃袋にずしりとくる。きっとこういうところから既に大人の社会の仲間入りの訓練が始まっているのだ。
彼らは大学生として楽しいキャンパスライフを送り、順調なら四年後にはそれぞれ拾われた会社へと就職し、社会人と呼ばれるようになる。けれど私は彼らより少なくとも一年、それが遅い。たったの一年だけれど、若い頃の一年というのは大人たちが考えている以上に大きく、その一年が先輩と後輩を分けてしまうように、既に私の人生は少し歪なものとなってしまっているのだろう。
浪人とは流浪の民のことだそうだ。戸籍のある土地を離れ、各地を流離う。そんな人たちのことだ。
何故先人たちは高校生でもなく、大学生でもない中途半端な人間たちを「浪人生」と名付けたのだろう。そこまでして学生に執着したかったのだろうか。
「そんなに勉強が嫌なら就職すればいいじゃない。仕事を選ばなきゃ何でもあるでしょ」
春先まで担任だった菅原沙知絵は私にそう言って、ぽんぽんと肩を叩いた。元気づけたつもりなのだろう。でも私は彼女が「絶対受かるよ。そこなら大丈夫」と言ったことを忘れない。
人は他人のことに無関心だ。自分のちょっとした言葉が他人の人生を傷つけたり、大きく左右するだなんて思っていない。
けれど私の人生は、そんな他人の言葉に揺さぶられて今がある。
行く気がなかった浪人生向けの塾も親に言われるがままに決め、気分転換という名目でお世話になった報告をしろと祖父母の家に使いに出される。
線路の継ぎ目に来る度に揺れて、私はそのリズムに段々と居心地が悪くなり、ボストンバッグを抱きかかえて目を閉じた。
車内アナウンスがあと三十分ほどで祖父母の実家が近いことを告げていた。
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