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プロローグ
「貴方さえいれば、もう何も要らない」
あの瞬間、私は確かにそう思った。
看護師さんに抱えられて顔をくしゃくしゃにして泣いている、私とあの人の赤ちゃん。
目を閉じたまま、今初めて自分の肺を使ってこの世界の空気を吸い、懸命に泣いて、呼吸をしている。
「おめでとうございます!
元気な男の子ですよ!
うわっ!!!おしっこした!!!」
私のお腹から出た息子は、体重を測ろうとした看護師さんにいきなりおしっこをかけ、私と看護師さんと先生は、顔を見合わせて笑った。
私はこの子に和磨と名付けた。
一生のうち、全部を失っても構わないほどに好きになってしまった、あの人の名前の、一部分を貰って。
あの人が、好きだった。
あの人と同じ空間にいれるなら、それだけで良かった。
許されない事だと分かっていたし、自分は不倫なんて馬鹿な真似は絶対しないと思ってたのに。
あの人を好きになったら、もう止められなかった。
好きで好きで、会いたくて。
触れたくてしょうがなくて。
私は世間の目を盗んでは
あの人と愛し合った。
私と同じ白い肌に、黒い髪。
真っ黒い瞳。
「琴葉ーーーー」
低くて、耳を澄ませなければ、何処かに溶け込んでしまいそうな優しい声。
「愛してるよ」
あの人は何度もそう言って私を求めた。
あの紫がかったピンク色の、薄い唇でそう囁いてから、私にキスをした。
会うのはほとんどホテルの部屋か、個室のレストランのような人目につかないところばかりだったけど。
それでも私は幸せだった。
あの人を好きな理由が説明できないのに、私は心の底から、あの人が好きだった。
あんなに誰かを好きになるなんて、思っても無かったし、あんなに誰かを好きになれるという事を、当時の私は知らなかった。
メリットなんて無い。
普通のデートは出来ない。
バレたら、社会的に抹殺される。
それでも良い。
それでもあの人が好きって。
私は本気で思っていた。
そしてそれは
あの人もそう思っているに違いないと
信じて疑わなかった。
「別れてくれ。奥さんにバレたんだ」
それは突然やってきた。
呆然とする私に、あの人は更に言葉を投げつける。
「別れないなら、俺達の事を世間に公表するって。
今日で終わりにしてくれ。
ーーーーそしたら不倫相手がーーー琴葉だって事も黙っててくれるって」
私が不倫相手って。
奥さんは気づいてたのかと、そこで初めて気がついた。
声が出ない。
この人を失うなんて、耐えられない。
私は涙目で、あの人を見上げた。
「琴葉」
いつもと変わらない、低くて優しい声。
「じゃあな」
肩越しにすり抜けていくあの人。
残酷に閉まるホテルのドア。
あの人の、CHANELの19番の香り。
もう、これが、最後。
私はあの人に、もう2度と会えない。
会う事が、許されない。
私は意味もなく、ホテルのカーテンを開け、窓の外に目を向けた。
羽毛のような大きな雪が窓ガラスに落ちては、溶けて消えていった。
別れのキスも、SEXも、ごめんも無い。
そんな一方的な別れが信じられなくて、私は1人ホテルの部屋で突っ立っていた。
これが私が愛した、塔野一朔との最後だった。
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