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「花を、振るい落とせ」全話
(Bianca BlauthによるPixabayからの画像 )
ばささっ! と、ぶどうの枝が落ちてきた。パパは右足をかばいながら、庭に立っている。
「その右の枝も切ってくれ、翠(みどり)ちゃん」
「はい、お義兄さん」
翠おばちゃんは真剣な顔で、ヂャキン! と大きなハサミを構えた。
ばしばしばし。
ためらいもなく、ぶどうの枝に刃を入れた。
「左もね」
「はい」
翠ちゃんの顔は真剣だ。
いつも、のほほんと笑っている翠おばちゃんが笑わないと、変な感じがする。まるで世界が冷えつくみたいだ。
パパは、あたしを振り返った。
「澄(すみ)、コーヒーを入れてくれ。翠ちゃんは昼からずっと働いてくれているから」
「はあい」
リビングの奥にあるキッチンでお湯を沸かす。庭に通じる窓は開けたままだ。
翠ちゃんの声が聞こえた。
「災難でしたね、お義兄さん。会社で足をくじくなんて」
「ほんとだよ。コンペが終わって、立ち上がったとたんにグギリだ。
あのコンペは、最初からゲンが悪かったんだよ。デザイナーのプレゼンを聞きながら、イヤな予感がしていた」
パパは笑った。翠ちゃんも笑った。でも声が少し硬い。今日の翠ちゃんは全体的に沈んでいる。沈んだ声が聞こえた。
「すいません、せっかくお義兄さんの会社の、ロゴ案コンペに呼んでいただいたのに。うまくできなくて」
「翠ちゃんのイラスト、僕はいいと思ったんだ。だが企画部は“悪くないけど……”と煮え切らなくてね」
パパがそう言うと、翠ちゃんは、すん、と黙ってしまった。やがて口を開く。重い声が落ちてきた。
「‟悪くない”。そこが私の問題なんです。
どれだけ頑張っても“悪くない”どまり。だから今回もメインの仕事は小川事務所に取られて、あたしはサブに回ります。
くやしくて、たまりません」
しゅうううっと、やかんのお湯が沸く。あたしはそっとコンロの火を小さくした。
パパの静かな声がした。
「僕は、あの小川事務所の作品がベストだと思わないよ」
「でも彼の絵はあちこちの企業で採用されています。それが結果です。クリエイターは数字が評価ですから」
キッチンから見ると、翠ちゃんのきれいな鼻筋が平べったくなっていた。顔がすけるように、白い。
パパが言った。
「小川くんの絵は、たしかに今の時代に乗っている。明るくて、軽くて、ハッピーだ。
だけどね、見るものを二秒以上とらえ続けることは、むずかしい絵だよ」
「にびょう……?」
翠ちゃんがささやくように言った。パパはうなずいた。
「これは、僕の個人的な意見だがね、商品ロゴはお客さんを三秒ひきつけられれば成功だ。三秒見たものは買ってもらいやすい。
だが二秒では棚に戻される。
小川君の絵は、わかりやすくていい。だが二秒どまりだ」
「あたしは二秒すら引き付けられません。だからコンペで落ちたんです」
「では、精進しなさい。何事も継続あるのみでしょう――この、ぶどうですがね」
と、パパはいきなり話を変えた。
「適切な処理をしないと‟花ぶるい”という現象が起きて、花が勝手に落ちてしまう。花が落ちると実の少ない、スカスカのぶどうができます。食用としては失格だね」
「失格……」
翠ちゃんは茫然とパパの言葉を聞いている。パパは平気な顔で続けた。
「だが”花ぶるい”は悪いことでもないんです。余分な花が落ちて、実の量が調整される。だから実に栄養が詰まっています。
”花ぶるい”の実はワイン熟成にベストな実だ、という意見もあるんですよ――僕はね、翠ちゃん」
いつのまにか翠ちゃんは背筋を伸ばして、じっとパパの口元を見ている。
「僕はきみに、ただの食用ぶどうになってほしくない。花ぶるいを乗り越えて、最上のワインになれる人だと思うから。
だから、次のコンペにも呼びますよ」
パパは顎の線を鋭くして口を結んだ。しばらく翠ちゃんを見てから、ニヤリとした。
「――次こそは、小川のヤロウをぶっつぶせ、翠」
ざわわあぁっと、茶色く乾いたぶどうの枝の下を風が流れた。
冷たいけれど、明るい予感が香る風。
薄あおく見える風が、翠ちゃんの横顔を駆け抜けていった。
しゃわわわ、とお湯がやかんから吹きこぼれた。あたしはつい、大声を出す。
「うわっちゃああ!」
翠ちゃんがキッチンに駆け込んできて、コンロの火を消した。
「澄! あんた、やけどしてない?」
「あー。うん。びっくりした。」
「びっくりしたのはこっちよ。ほんとにもう」
翠ちゃんはふくふくと笑って、あたしを見た。いつもの翠ちゃんと同じ顔に見える。
だけど。
ちょっと違う。
翠ちゃんの顔からは、何かが抜け落ちていた。
たぶん翠ちゃんは、余計な花を振るい落としたんだと思う。
だから何年かしたら極上のワインになるんだろう。すごくいい絵を描くようになるんだろう。だって翠ちゃんは、ここからものすごい練習をするはずだから。
「あたしも、ただのぶどうには、なりたくないな」
え、と翠ちゃんがこっちを見た。あたしは笑った。
落ちたぶどうの枝が、さわさわさわと葉っぱの音を立てていた。
【了】
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