ふらいやぁ

1/1
3人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
 染められることもない塗り絵の1ページみたいな大学生活だ。  それはきっと、自分の顔のある箇所が気になって、気になって気になって、気になって気になって気になって、もはや他者を自然と避けてしまうほどの劣等感に成熟してしまっているせいだ。  鼻。鼻の表皮。その毛穴だ。いや、鼻だけじゃないかもしれない。いやいや待て待て、あまりにも過剰になってしまっている。そのせいで顔全体にまで嫌悪感が広がってしまっているだけではないか。……だが鼻、この鼻だけは間違いない。いわゆるイチゴ鼻ってやつだ。俺のは特にひどいんだ。毛穴が大量の隕石が落下した後のクレーター状態なんだ。そのぼこぼこの汚鼻を自室のユニットバスの鏡で、通学路の車の窓越の反射で、バイト先のコンビニの『笑顔で接客』と上に張られた姿見で目撃する度に俺のその嫌悪感はジュクジュクとますます汚く熟成されて、ますます劣等感に苛まれていくんだ。ああ、いっそのこと、こんなキモい鼻取って捨ててしまいたい。  特に今の季節は最悪だ。猛暑でさらにかっ開いた無数の毛穴から絶えず脂汗が滲み出して止まらない。バイト中は新しいマスクに替えて隠しているけど、また脂汗でマスクが変色していないか気が気でない。あぁ、もう今だって絶対―― 「――くん、フライの補充よろしくね」 「あ、はい」  鼻の脂汗に気を取られていた俺に店長の柔らかな声が掛かる。彼はそのままバックヤードへと下がっていった。  俺は一度店内の客数を視認する。雑誌コーナーで立ち読みしている少年が一人だけだった。この状態ならスムーズに作業ができると踏んで、フライヤーに熱をかけてから冷凍庫へ。店で一番人気のフライドチキンのパックを手に戻ると、フライヤーの温度も準備が出来ていた。  小波ひとつ立たない琥珀色の油を見下ろす。その滑らかな水面に、妙な嫉妬を抱いてしまう。あぁ、俺の鼻もこれくらい滑らかで綺麗であれば―― 「――あの、すみません!」 「あ、すみません」  いつの間にか若いOLと思われる女性が会計を待っていた。俺は俯いた格好で粛々と会計を済ませる。女性が去った後、指先でマスク越しに鼻を触る。良かった。大して濡れていないことに安堵すると、再び嫉妬するフライヤーに向かった。  パックからフライドチキンを取り出し、四個分を放り込んだ。  瞬く間に油の水面がブクブクと気泡で溢れかえり、先程の滑らかな表面が醜く泡立ち始めた。  俺はなんとも居た堪れなくなった。  きっと俺の鼻だって、産まれた頃は綺麗だったはずだ。  それが、今ではこの泡立つ揚げ油のように……。  今日はいつになく憂鬱なバイトだった。アパートに帰宅し、さっさとシャワーを浴びて鼻の脂汗を綺麗にした。ほとんど神経症的なまでにゴシゴシとそれを洗浄すると、ちょっとだけ気持ちが和らいだ。ふぅ。畳に敷いた布団に座り、廃棄の唐揚げ弁当を温めずにそのまま開けて食べ始める。空腹だったので、掻っ込むように食べていると、案の定、喉が詰まった。慌てて冷蔵庫からビールを取り出し、缶詰と同じようなその蓋を開けて流し込んだ。ふぅ。  また布団に胡坐をかくと、グラスのように中が見えるデザインの缶内部で、白く泡立ったビールが目に留まった。なんだか嫌な気分になり、唐揚げに割り箸を伸ばす。そこで手が止まる。唐揚げに小蠅がくっ付いていた。夏になると家中に湧いて出るそいつが、黄土色に劣化した唐揚げの表面を美味そうに舐めているようだった。まさか唐揚げごと手で押し潰すわけにもいかない。手の甲で小蠅だけを退かす。そいつは音もなく室内のどこそこへと消えていった。  まったく不快な虫だ。こいつらは潰しても潰しても泡みたいに湧いて出てきてはどっかに無許可で止まったり、目の前をチラチラと泳いだりして、俺を日々苛立たせるんだ。  ほんと、いったいどっから湧いて出てくるんだよ、こいつらは。  今日は、本当に憂鬱だ。何もかもに苛立つ。顔が綺麗な壮年の店長のあの余裕のある感じ。OLの女性の俺の鼻への憐みの視線。フライヤーとビールの醜い泡。唐揚げに止まった鬱陶しい小蠅。  俺は弁当を勢いよく掻っ込み、ビールの残りを一気に流し込むと、寝転がって布団にくるまった。しかし思い直して歯磨きに一度立ち、ユニットバスの鏡を見ないように済ませると、倒れるようにまた寝転がった。  ぼんやりと中空を見ずとも眺めていると、黒い小さなモノがその前を過った。堪らず手で振り払う。暫くぼんやりする。また過った。手で払う。またぼんやり……、そんなことを繰り返しているうちに、振り払うのも億劫になるほど消沈し切ってしまった。次第にうとうとし始めた俺のぼやけた視界にその黒い小さなモノが近づいてくるのが見えて――  そこで、俺は不健康な眠りに落ちてしまった。  気が付くと、既に昼頃だった。  起き上がり寝ぼけ眼にスマホに手を伸ばす。  さっそくテーブルに小蠅を発見し、思い切り手で叩いた。  その衝撃でテーブルの上の空のビール缶が倒れた。飲み干していたので零れることはなく、乾いた音を立てて俺とは反対に寝転んだ。小蠅は仕留め損ねた。チッ。  スマホを開いて、LINEを確認する。が、特に誰彼から連絡があるわけでもないことはロック画面で分かっていた。期待感で癖になっているだけだ。そうやって同じ惨めな寝起きを繰り返すんだ。そのやるせなさに指先を伸ばす。触り慣れたざらついた感触。あぁ、この鼻さえ、この鼻さえせめて普通であれば――、クソッ!  苛立たし気にスマホを布団に投げつけた。  投げつけたところから、小蠅が数匹飛び立つのが目に映った。  クソッ!クソッ!こっちはたくさんいやがって、なんでだよ!鬱陶しいんだよ、マジで!  あぁ、寝起きからむしゃくしゃする!ほんとなんなんだよ!昨日からいったい!なんでこんなにいんだよ!いったいこいつらどっから湧いて――  俺の眼に黒くて小さなモノが映りこんだ。それは現れた。  一匹、二匹、三匹……と無数の小蠅が、のが見えた。  な、なんだ、いったいどうなって――  テーブルに伏せてある折りたたみ式の鏡を掴んで覗くと、 「うわぁあぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁ――――――――!!!!!」  そこには、
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!