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夜明け
陸の運転する車の助手席で、行先も知らされず、窓の外を流れていく街灯の明かりを眺めていた。
仕事はしばらく休むことになったのらしい。異常のことが知られてしまったわけではなく、このところの働き方が労働安全衛生の観点から問題になってしまって、休暇を取ることになったのだそうだ。
「そういえば、今日薬局に来たりしてないよね?」
昼間、陸に似た男が現れたのを思い出して尋ねた。
「バレてた?」
ハンドルを握る陸の横顔が、苦笑いしている。
「嘘、本当にりっくんだったの?最低。悪趣味」
「何でだよ。がんばってたじゃん。サチが働いてるところ、ひと目見たくてさ。サチだって俺の職場に来たんだから、おあいこだろ」
「おあいこじゃないよ。あんな変装しといて」
「バレて邪魔したら悪いと思ったんだよ。医者は風邪引かないようにマスクしなきゃいけないんだろ?」
陸のことだから、それがただの口実だったことも見破っているだろう。本当にタチが悪い。
「じゃあなんで眼鏡なんか。ていうか目良かったよね?何で眼鏡なんて持ってるの?老眼?」
「老眼って。ちげーよ。ブルーライトカットの眼鏡だよ。パソコンの画面見てると目が疲れるって言ったら、ヨーコがくれて」
「ふーん、陽子さんね」
「うん」
再び窓の外に視線を転じた。素直になるのは難しいなと思った。
「何でわたしが働いてる薬局が分かったの?」
まさか近所の薬局を全部巡ったのだろうか。
「権田の母ちゃんが教えてくれたんだよ。相変わらずパワフルだったな。聞いてもないのにすごい喋る」
それを聞いて安心した。一軒一軒回ったのだとしたらどうしようかと思った。
「ユカちゃんの家に行ったんだね」
宙ぶらりんになっていた話に移行した。
「うん。サチにキスしてる写真見せられてさ。あの時は心臓が止まるかと思ったな」
「ごめんね。まさかりっくんがユカちゃんとばったり会っちゃうとは思わなくて……」
わたしが本当のことを打ち明けていれば良かったのだ。
「いや、ばったり会ったわけじゃないんだ」
陸は否定して言った。
「最初から権田の家に行くつもりだったんだよ。勇気が出なくて家の周りをうろうろしてるところをユカリちゃんに見つかっただけなんだ」
「そうだったの?ユカちゃんの家に何しに行ったの?」
「自分の問題と向き合うために」
陸はまずひとことそう答えた。
車が、わたしたちが通っていた小学校の横を通り過ぎて、かつて陸と何度も歩いた思い出の坂道に差しかかる。
「初めて記憶が飛んでることに気付いた時、俺、権藤の家の団地の駐車場にいた。何でこんなところにいるんだって混乱した。スマホ見たら知らない番号に発信した履歴もあって、怖くなって家に飛び帰ったんだ。権田に会った記憶はなかったけど、あの時逃げずに権田のところに確認しに行ってたら、サチを傷つけることもなかったのにな」
後悔するように陸は声を沈ませた。
そんなことが起きたら誰だって怖くて逃げたくなるだろうと思った。
「ずっと、何とかしなくちゃって思ってた。けど、サチに会って、好きになればなるほど、知るのが怖くなった。でも、サチに二回目に乱暴した時、また記憶が飛んでて、自分がサチに手を出したらしいって分かって、本気でこのままじゃダメだって思った。自宅に戻ったのは、論文を書かなきゃいけなかったのもあるけど、またサチに何かしちゃいそうで怖かったのもあるんだ。論文がひと区切りついたら、権田に会いに行こうと思ってた」
信号が青になって、陸がアクセルを踏みこんだ。車が急な坂を上っていく。もう目的地はわたしにも分かっていた。
「それで、論文を書き上げた後、権田の家に行ったんだ。権田は仕事でいなかったけど、代わりにユカリちゃんが教えてくれた。最初に記憶が飛んだ時は、サチの住所を聞くために権田の家に行って、発信履歴はユカリちゃんにかけたものだったってこと。二回目に飛んだ時は、サチの家に行ったってこと。かつて俺がサチと付き合ってたってこと。写真を出されなかったら信じてなかったかもしれない。ユカリちゃんには本当に感謝してるよ」
公園の駐車場に入った。先客はない。
「俺、サチが何かを必死に隠して苦しんでるのは分かってた。何に苦しんでるのか気になってたけど、話してくれるまで待とうと思ってた。まさか、自分が忘れてるせいで苦しめてるなんて思わなかったんだ。正常バイアスってやつだな。記憶が飛んだりしてるのに、自分がそこまで異常だなんて、思ってもみなかったんだよ。本当に、馬鹿だよな、俺」
首を横に振った。
悪いのはわたしだ。陸がそんなに悩んでいたのに、嘘をついてばかりで、何もしてあげられなかった。
「論文が片付いたら帰るって言ったのに、約束破ってごめん。俺、また逃げた。サチを幸せにする自信がなくなったんだ。問題が片付いたら、サチに改めて結婚しようって言うつもりだったから」
車を停めた陸は、そう言って謝った。
車を出て、公園に続く階段を陸と二人で上った。
ここは、陸と何度も星を見に来た公園だ。わたしが色を取り戻したのもここだった。小高い丘の上にあるこの公園は、この辺ではちょっとしたデートスポットでもある。
公園に着くと、降るような星空がわたしたちを包んだ。
陸は自販機でわたしにホットココアを買ってくれた。無人の公園のベンチに腰を下ろして、ココアを飲み終わるまでの間、陸と星の名前を辿った。記憶の奥にしまいこんだまま十年以上取り出していなかったのに、案外思い出せるものだなと思った。
「サチは星座の神話も詳しかったよな。天文学者になるつもりなのかと思ってたよ」
ひと通り主要な星座を見つけた後、陸は呟いた。
わたしはゆるゆると首を横に振った。
「確かに星を見るのは昔から好きだったけど、別にすごく興味があったわけじゃないよ」
星座の図鑑を読みこんでいた日々を、今懐かしく思い出している。
「りっくん、人気者だったじゃん。わたし、地味でつまんないから釣り合わないって言われてさ。だから、少しでもつまんなくない人になりたくて、それで星の勉強をしてたの」
そうだったのか、と陸は少し驚いたようだった。
「天文学が学べる大学とか調べてたのに」
笑った。それが目に浮かぶようで。
「俺、サチのこと地味とかつまらないなんて思ったことないよ。むしろ、俺の方が愛想をつかされないか心配だった」
空を見上げていた陸は、ゆっくりと俯いてそう言った。
「嘘だ。いつも自信満々だったじゃん」
「そんなことないんだけどね」
信じられなくて反論したわたしの横で、陸は凍えるように身を縮こまらせた。
「でも、もう愛想をつかしてもいいんだよ」
白い息とともに吐き出された言葉は、もやもやと空中を漂った。
「他の人と始めたかったら、それでもいいよ。俺たちはもう別れてる。サチの好きにしたらいいんだよ」
「何なの、それ」
腹が立った。
「だったら何でわたしのところに戻ってきたの?」
さっきの思わせぶりな言葉は何だったのだ。
「それは、十二年前の約束を守るためだよ。本当の意味ではまだ約束を果たしてなかったから」
ますます腹が立った。
ベンチから立ち上がって、陸の前に回りこむ。
「何なの、好きにしたらいいんだよって。わたしは、わたしの好きにしたから、りっくんをずっと待ってたの。わたしのことを忘れちゃってるりっくんだって、好きだった。大好きだった。だからずるずる一緒にいたの。好きにしてないのはりっくんの方じゃないの?わたしに遠慮しないで、陽子さんとでも誰とでも幸せになったらいいじゃん」
陸はいつもそうだった。わたしのことを一番に考えて、自分のことは後回しだった。だからわたしは歳の差が恨めしくて、早く二年の差が誤差になるくらい歳を取りたかった。陸のことを包みこめるような人間になりたかった。
「何でそこでヨーコが出てくるんだよ」
わたしを見上げて、陸が困ったように尋ねた。この人は自覚していないのだ。
「陽子さんの方がよっぽどりっくんと釣り合ってるよ。綺麗だし、優しいし、同じお医者さんだから話も合うでしょ。わたしの知らないりっくんのことも知ってるし、看病だって、眼鏡だって、名前の呼び方だって……」
途中で首を横に振った。これはただの個人的な嫉妬だ。
「りっくんだって、陽子さんになら気を許せるでしょ。わたしとどっちがいいかなんて、考えなくたって分かるじゃん」
「そんなの、考えなくてもサチに決まってるだろ」
「よく考えなよ」
「どっちだよ。あのなあ」
陸はこめかみを掻いて、目を伏せた。
「俺の言い方が悪かったかな」
俯いてそう呟く。
「ヨーコに俺のことよろしくって言ったらしいけど、俺から断っといたから。あいつはただの大学時代からの同期だ。それ以上でもそれ以下でもない。これからもな。つーか、こんな時にヨーコの話なんかどうでもいい。俺はただ、サチにはもっと良い奴がいるかもしれないのに、俺なんかでいいのかって……」
陸は再びわたしを見上げた。
「サチのことを忘れてた俺のことも好きだったって、本当?」
今わたしが勢いに任せて言ったことを、確かめてくる。
「だからそう言ってるじゃん。ていうか、ズルいよ。りっくんはどうしたいの?」
「それはもちろん、サチと一緒にいたいよ」
即答してきた。
「だったらーー」
「だけど、サチのことを忘れた弱さも、サチに乱暴したのも、全部、俺の一部だよ。昔からサチの前で良い格好をしてただけで、本当の俺はダメな奴なんだ。こんな俺でもサチは、受け入れてくれるの?」
言いながらどんどん声が小さくなって、顔が俯いていく。
さっきから陸の歯切れが悪いのは、怯えているからなのだと気付いた。本気で、わたしに受け入れられるかが不安なのだと。目を合わせることすらできずに、わたしの答えを待っている。
こんな陸を、わたしは知らなかった。陸はいつも自信満々で、昔はそんな陸に憧れていたけど、今、ますます愛おしくなった。
「受け入れてあげる」
陸に向かって、手を差し伸べた。
「だから、ちゃんと言って。わたしと別れたままでいいの?」
陸が再び顔を上げる。
驚いたような表情で目を見開いていたかと思うと、涙がこぼれて頬を伝い落ちた。
慌てたように手の甲で拭って、わたしの手を取って陸も立ち上がった。
「サチ」
まだ潤んだままの目で、わたしのことをまっすぐに見つめた。
「愛してる。何もかも忘れても、俺はまたサチに心を奪われた。俺にはサチしかいないんだ」
わたしのもう片方の手も取って、自分のおでこを押し当ててきた。陸の髪がくすぐったい。
「十二年もの間、ずっと待っててくれてありがとう。たくさんひどいことしたのに、こんな俺のことを受け入れるって言ってくれてありがとう。俺にはもったいないと思うけど、俺のこれからの人生は、サチを幸せにするために捧げるから、だから、俺と結婚してください」
何千回、何万回も思い描いた陸からのプロポーズを、拒む理由などなかった。
「うん。わたしも、りっくんと生きていきたい」
覆い被さるように陸が抱きついてきた。
寒いはずなのに胸が熱くなって、今日の日を迎えるために、今まで生きてきたのだと思った。
「言っとくけど、こんな俺っていうの、禁止だからね」
手を繋いで丘を下りながら、陸と新しい約束をした。
夕食を取り損ねていた陸のために、近くの二十四時間営業のファミレスに入った。
「一緒に働いてる人とご飯食べに行ってたんだ」
オーダーを済ませた後、陸に杉浦さんのことを話した。
ありがたいな、と陸は言った。
「サチのことを親代わりのように思ってくれてるんだったら、俺たちの証人をお願いしてみてもいいかもな」
婚姻届けの証人が二人必要なのだという。陸と結婚する実感が急に湧いてきた。
「相馬幸か」
そう呟いたら、陸は複雑そうな顔をした。
「相馬が良かった?関口じゃダメ?」
「ダメじゃないけど。戻すの?」
「実はもう戻した。相馬さんに頼んで養子縁組を解消してもらったんだ。診療所を継ぐ約束で養子入りしたんだけど、他の人に継いでもらえることになって。学費も返し終わってたから、養子でいる必要もなかったんだ」
ということは、陸にひどいことをした養子先の奥さんとも縁が切れたということか。そう思ってホッとした。
不意に、陸が意味ありげに笑った。
「サチだって関口幸になる気満々だったんだろ?聞いたぜ?ノートの名前んとこに関口幸って書いてたって」
な、何でそれを知っているのだ。
「べ、別に、関口でも相馬でも何でも、横峯だって構わないし」
動揺して口調を尖らせたわたしを見て、陸は優しく微笑んだ。
「本当のことを言うと、願掛けなんだ。サチを幸せにするには、せが要るだろ」
動揺を引きずりながらも、陸の言っていることがすぐに分かってしまった。わたしの名前を漢字で書くと、『幸』。せを足したら、『幸せ』になる。だから、せを含む関口が良かったと言いたいのだろう。
「そんなこと考えてたの?」
「うん。昔から、そんなことばっかり考えてたよ」
くだらない、と一蹴しかけてやめた。その代わりに、陸に笑顔を向けた。
「じゃあ、うんと幸せにしてもらわなきゃね」
「うん。頑張るよ」
わたしも陸をうんと幸せにする。そう、心の中で誓った。
「関口に戻したってことは、お父さんと連絡取ったの?」
そうだったら嬉しいなと思ったのに、陸は否定した。
「養子縁組を解消したら自動的に元の苗字に戻るんだ」
「だとしても報告とかしないの?お互い大好きなんだから、いい加減素直になりなよ」
「す、好きとかじゃねーし」
まだ言うか。せっかく手紙でお父さんの思いを伝えてあげたのに。
「婚姻届、お父さんにも証人になってもらおうね」
陸の顔を覗きこむように言ったら、
「いいけど、親父のところに行く時は、絶対ついてきてくれよ」
と、目を泳がせながら返してきた。
陸のお父さんが陸と同じ町に住んでいたと分かって、呆れを通り越して笑うのは、そう遠くない未来のことである。
「うちに泊ってくでしょ?」
陸のお皿が空になったのを見て何気なく訊いたら、陸は迷いを見せた。
「あ、帰んなきゃいけない?」
「いや……」
歯切れ悪く否定して、陸は水を飲み干した。
わたしと一緒にいたくないのだろうか。思考がいとも簡単にネガティブに落ちていく。
「その、俺」
言いづらそうにお皿の上のフォークとスプーンを揃えたりしている。
「言いたくなかったら別にーー」
「自制できる自信ない」
聞くのが怖くて止めようとしたわたしは、陸の言葉の意味が咄嗟には分からなかった。
「……自制?」
訊き返しながら、じわじわと理解して、顔が熱くなった。
「サチに手を出さない自信がーー」
「分かった」
耳まで赤くなっているのを自覚して、遮った。
「今さらでしょ。もうやったじゃん」
自分にも言い聞かせている。こんなに意識してしまって恥ずかしい。
「ごめん、今さらなんだけど、大事にしたいんだ。もう二度とあんな、本能に任せてシたりしない」
「いいってば、別に。りっくんになら何されても」
「サチがそんなんだから余計心配なんだよ。サチは昔から自分のことに無頓着……あ!」
いきなり大きな声を出したから、心臓が飛び出るかと思った。
「アルバム、捨ててないよな」
何かと思ったら。
「す、捨ててないよ。びっくりしたな、もう」
「ああ、良かった。どうせサチのことだから、自分の写真とか残してなかっただろ」
それはそうだけど。別に残すほどのものでもない。
「大げさなんだよ、りっくんは」
わたしが自分のことに無頓着だったのだとしたら、それは陸が、ありえないくらい大事にしてくれたからだろう。
「そんなに大事にしてくれなくても、わたし、大丈夫だよ」
「何言ってるんだよ」
「それよりも、りっくんと離れたくないよ。手を出されたって何されたって、一緒にいられるんだったらその方がずっといい。だって、離れたらまた会えるか不安になるもん」
陸は何度もわたしの前から姿を消した。心がまだ、完全には安心できていない。
「ごめんね」
申し訳なさそうに、陸は謝った。
「サチがまだ眠くないなら、もうしばらくここにいようか」
しばらくってどれくらい?そう訊きたいけど、きっと困らせてしまう。
だからせめて、その時間を長引かせたくて。
「そうだ、さっきの公園で朝日を見ようよ。いいでしょ?」
それなら、夜が明けるまでは一緒にいられる。
「いいけど」
陸はスマホを取り出した。
「見れんのかな。明日の朝は曇りだった気が」
どうやら気象予報を確認しようとしているようだ。本当に肝心なところで鈍い。
「晴れになってるな。じゃあ、サチは一回家帰って寝たら?夜が明ける頃迎えに行くから」
「馬鹿」
「え?」
驚いたように陸がスマホから目を上げる。
「そうまでして朝日が見たいわけじゃないよ。りっくんと一秒でも長く一緒にいたいだけだって、何で分かってくれないの?」
「俺だって離れたくないよ」
スマホをテーブルの上に置いて、陸は口を尖らせた。
「でも、サチは働いてきて疲れてるだろ。もう日付変わってるし、眠たいだろ」
この人は本当に、わたしのことばかりだ。
わがままばかりの自分が嫌になる。
「全然眠くないよ。だから、もうちょっとここで話さない?」
さっきの陸の提案に立ち戻ったわたしに、陸は優しく微笑みかけてきた。
それから、時間が経つのも忘れていろんな話をした。
仕事の話の流れで、テーブルの端に置かれているアンケート用紙の裏に何気なく絵を描いたら、「うま」と驚かれた。
「美術部だったもんな、サチ」
納得するように何度も頷いている。
「そういえば、高二の時、わたしが描いた油絵が文化祭のパンフレットの表紙に選ばれた」
「すごいじゃん。今度見せてくれよ」
「たぶんもう残ってない」
「マジか」
陸はアンケート用紙をもう一枚取り出して、わたしに差し出した。
「じゃあどんな絵だったか描いて」
「鉛筆で?」
しかも、プラスチックの先に芯がついている安物だ。芯の先が潰れていて、押しつけるように描いても薄い線しか引けない。
「おばあちゃんが死んだの、薬剤師の国家試験が迫ってる時だったんだよね」
仕方なく紙の上で鉛筆を走らせながら、話の隙間を埋めるつもりで言った。
「伯父さんたちがさ、早く家を売っちゃいたかったみたいで。家の中のものの処分を業者さんに任せちゃったんだ。パンフレットもその時に捨てられちゃったんじゃないかな。わたしは伯父さんの家で勉強に専念させてもらって、しばらくしておばあちゃんの家に戻ったら、ほとんど空っぽになってた」
陸の反応がないのが気になって、紙から目を上げた。
「それは、つらかったね」
陸は悲しそうな顔をしていて、わたしのために心を痛めてくれたようだった。
それを見て、ああ、あの時つらかったんだな、と思った。そしたら目頭がじんわり熱くなった。
「お父さんの弟だって人の連絡先が出てきたんだよね」
涙を紛らせようと、話を少し逸らした。
「おばあちゃんの遺品の中にメモがあったの。結局連絡してないけど」
おばあちゃんがその人と連絡を取り合っていたのかは分からない。いつかわたしにその連絡先を渡すつもりだったのかも、今となっては分からない。
おばあちゃんは、わたしのお父さんのことを、弱い人だと言って嫌っていた。お母さんを喪ったことで心を病んで、わたしのことを育てられなくなったことを、親の自覚が足りなかったのだと言っていた。わたしを、お父さんはもちろん、その親戚とも一切会わせなかった。
そのメモは、引き出しの奥の方にしまったきり、一度も取り出していない。
「連絡して、お父さんがどこにいるか聞こう」
陸が真剣な眼差しで言った。
「それで、もし会えるんだったら、お父さんに会いに行こう」
そう、わたしに言い聞かせるように言った。
「横峯って、サチのお父さんの苗字でしょ。ばあちゃんがサチの苗字を変えなかったのは、サチがいつかまたお父さんと一緒に暮らせるようにって思ってたからだと思うんだ。俺、サチのお父さんに挨拶したい。サチがいるのはお父さんのおかげだから」
「……そんなの、綺麗事だよ」
陸の優しさを、わたしは飲みこむことができなかった。
「結局、お父さんはわたしを迎えに来なかった。きっとお母さんのこともわたしのことも忘れて生きてるんだよ。それか、もう死んでるのかも。わたし、全然興味ないの。冷たいって思われるかもしれないけど」
陸の目が見れなかった。
せっかく挨拶したいと言ってくれているのに、こんなひねくれた言葉しか返せない自分が嫌いだ。
「そうだね。綺麗事だ」
陸は、わたしのことを咎めなかった。
「サチみたいな可愛い子を手放したんだ。大馬鹿野郎だと思うし、父親の資格ないと思う。だから、サチはお父さんのことを許せないままでいいよ」
わたしの手の上に手を重ねて、そっと握った。
「だけど、ごめん。これは俺のわがままだ。お父さんがどこにいるか、叔父さんに聞いてみてくれないかな」
そんな風に言われたら、断れない。
「まあでも、りっくんに会えたのはお父さんが弱かったおかげかもね」
陸の優しさを素直に受け取れなくて、目を伏せたまま呟いた。
「そんな毒づくなよ、サッちゃん」
陸にそう呼ばれて落ちこんだ。
わたしを子供扱いする時の呼び方だ。わたしは全然大人になれない。
「珍しいな。文化祭のパンフレットにこんなデカデカと人の顔って」
陸の声に我に返った。
手を引っこめた時についていったみたいで、陸 はわたしが描いていた絵を手にしていた。
「……だって、鉛筆で油絵が再現できるわけないし、とっくに諦めてりっくんの顔描いてた」
おい、と陸にツッコまれる。
「そうと知ってたらもっと良い顔してたのに」
「良い顔って?」
陸が突然キリっとした顔をしたから、思わず吹き出した。
せっかく陸と一緒にいるのだ。落ちこんでいたらもったいない。笑ったらそう思えた。
「変か?俺、証明写真とかこんな顔してるんだけど」
「あはは。変じゃないけど、りっくんのそんな顔初めて見た」
「そうか?俺もサチ描く」
そうして陸が描いた絵が、何がどうなったらそうなったのか分からないくらい衝撃的で、昔描いてくれた魚の絵は奇跡の出来栄えだったんだね、なんて懐かしく回想したりした。
そんなことをしているうちに五時を回って、もうここまで来たらと朝日を待つことにした。
日の出の三十分くらい前が、マジックアワーといって朝焼けが一番綺麗に見える時間帯らしい。そう、ネットで調べた陸が言うので、六時前にファミレスを出て、コンビニで使い捨てのカイロを購入してから公園に向かった。
夕日を見る時と反対側のベンチに二人で並んで腰かけた。見下ろした先には住宅街が広がっていて、屋根の端が白み始めている。
かつて日が沈むのを何度も眺めたこの丘で、陸と朝が来るを待つのは、何だか不思議な感じがした。
「文化祭のパンフレットに選ばれた油絵ね、」
濃紫の空に浮かぶ群雲を見上げて、先ほど途中になっていた話を持ち出した。
「ここでりっくんが見せてくれた夕焼けを描いたの」
陸が去って初めての夏だった。来る日も来る日も陸からの連絡を待っていた。何を見ても陸を想った。パレットに色を広げて、陸が教えてくれた色を追い続けていた。
「わたし、色が視えるようになった時の夕焼けの色を、今でもはっきり覚えてる」
色だけでなく、胸が熱くなるほどの感動も、生きている実感も。
陸はわたしを暗い場所から救い出してくれた。
「俺も、覚えてるよ」
隣で陸が、相槌を打って言った。
「俺もあの日、初めて見えるようになったんだ」
わたしを見て、にっこりと笑った。
「知ってるだろうけど、俺、子供の頃、とんでもなく嫌な奴だった」
陸のお父さんもそんなことを言っていた。
「そんなはずないよ。だって、わたしの目のことに気付いてくれたのは、りっくんだけだったじゃん」
反論したわたしに、陸は息だけで笑った。
「それはサチが可愛かったからだよ。何としても気を引きたくてサチのことばかり見てたから、たまたま気付いただけなんだ。あの頃の俺は、本当に自分のことしか考えてなくて、人に何かをしてもらうのが当たり前だと思っているような、どうしようもない奴だったよ」
とても信じられないけど、本人がそう言うのなら黙って聞くしかない。
「それを別に虚しいとも思ってなかった。でも、サチに会って、色が視えなくなっちゃったことを知って、何とかしてやりたいと思った時、自分中心に回ってた世界が大きく変わり出したんだ。
サチが色を取り戻した時、すごく嬉しくて、自分じゃない誰かを想うことが、こんなに温かいんだって初めて知った。
馬鹿な俺は、長いことその気持ちをサチにしか向けることができなくて、サチを怒らせちゃったりもしたけど、間違いなくあの日の感動が今の俺を作ってる。俺の方こそ、それまで白黒の世界で生きてたみたいに、サチが俺に色を教えてくれたんだ」
東の空は雲で覆われながらも淡い紫色を帯び始めて、静かに夜明けが始まっていた。
少しずつ色を増やしていく世界の中で、陸の言葉の余韻に浸りながら、朝焼けをしばらく眺めていた。
雲混じりの茜色の空は、いつしか青白くなって、陸と二人、手を繋いで立ち上がった。
「ところでわたし、りっくんのこと怒ったりしたことなんかあった?」
車の中で陸の言葉を思い返して尋ねたら、陸は、ええ?と笑って、「覚えてないならいいけど」と口ごもった。
睡魔と戦いながら家まで戻って、渋る陸を部屋に上げて、ベッドと布団に分かれて昼まで眠った。
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