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シエル
あたしは14歳で職に就いた。
すぐに男に騙される母親が死んだ時。家にはほとんどお金がなかったから。
母さんとおんなじ女給になった。
母さんが勤めてた店より数段綺麗で、客の質もいい。ここに勤められたのは運がよかった。
店主は気のいいおじさんで。その息子は店を継ぐための修業を始めたばかりだった。5つ年上のその人は。
「新人同士、がんばろうぜ」と妹扱いしてくれて。
数年の間、怪しげな客のテーブルにはつけないでくれた。
働きやすかった。
そのせいかもしれないけど。いつのまにか。
店を持ちたい。そう思うようになった。
それを叶えたくて。一生懸命働いていた。
・ ・
くるりとまとめ上げた髪をほどかれて。
ちっ。と思う。
あたしは大分。体つきも女性らしくなってきた。
最近は声を掛けられことも増えた。
でも。安売りする気はないわ。
もしかして。次回デートしてもらえるかも。そう思う男のほうがチップをはずんでいくんだもの。
「すみませんが、仕事しにくいので」にっこりと笑う。
男が外してしまったヘアクリップを。返してもらおうと手を伸ばした。
目に飛び込んできたのは、オレンジの髪。赤茶色ではなく、本当にオレンジ。きれいな色ねぇ。と思ったあたしを見つめるのは、信じられないくらいのイケメンだった。
こんな男なら、こんな店に来なくてもいいでしょうに。
「きれいな髪だな」男の声は低くて。でも聞き取りやすい優しい声で。
あたしは気を引き締めた。女慣れしすぎでしょ。騙されないように気を付けるのよ!シエル!
男はあたしのストレートの髪を一束、大事そうに持ちあげると。
宝物のようにそっと。唇を落とした・・・。
デートのたびに。お金を出すのは彼だった。
彼は決して無体なことはしなかった。
ずっと店をやりたいと思っていたけど。
もしも彼が望んでくれるなら。あきらめて家庭に入ってもいいと思い始めていた。
幸せで幸せで幸せで・・・・。
でも。あたしは目撃してしまった。
ほかの女といる彼を。
その女もストレートの長い髪で。
彼はやっぱり、目を閉じて髪に口づけていた・・・。
髪をなでる時。髪に口づける時。
彼は目を閉じる。
あたしは身代わりなのね。誰かの・・・身代わりなんだわ。
辛くて辛くて辛くて・・・。
あたしはもう結婚しないと決めた。
その日。あたしは彼をそういうお店へ引っ張り込んだ。
あたしは初めてで。
好きだと思ったら経験しておいたほうがいい。いつ襲われるかわからない仕事だよ、と。女給の先輩方は教えてくれていた。
本当に一人で生きていくのなら。経験は糧になる。
・・・彼以外にはじめてはあげたくなかった。
最初は困惑しているようだったけど。
震えながら抱き着くと。・・・彼はあたしにそっとくちづけた。
さいごまで優しくて。宝物のように扱ってくれた。
無理矢理にひどいことをされた女給の話はたくさん聞いた。
あたしは幸せなんだと。
しっかり目をつむったままの彼を見ながら泣いていた。
何も話しかけなかった。
身代わりでいいの。・・・あなたはこんなに大切にその人を抱きたいんだね・・・。
幸せで。辛くて。あたしはただ。彼を見つめていた。一度もあたしを見ない彼を。
ちょうどそのころだったみたい。
ふた月した頃、彼は憔悴してやってきて。「別れたい」と言った。
あたしはにっこりと笑った。彼の眼は見開かれた。
なによ。あたしが泣きわめくと思っていたの?
それともほかの女は、泣きわめいたの?
ねぇ。あたしの笑顔を覚えていて。
ひとつくらいいじわるしたっていいでしょう?
「くすくす。女給と付き合っていて。そんな真剣な顔で別れ話なんて。
コチって思っていたより真面目だったのね」
ちょうどそのころだったみたい。
コチの思い人が、亡くなったのは。
3年ほどして。あたしはまだ同じお店にいた。
何人かと付き合った。
好きな人も。そうでもないけどお金を持った人もいた。
でも、結婚はしなかったし。男に貢ぎもしなかった。
コチは、また。酒を飲みにやってくるようになった。
最初はぎこちなかったけど。
だんだん。楽しい客になってくれた。あたしがいる時には、あたしの客になってくれた。
「シエルはもてるんだな」
その日はあたし目当ての客が立て込んで。
もう帰ったかと思ったら待っていてくれた。
「なによ。今頃気づいたの?」
その日。・・・あたしたちは朝まで一緒にいた。
あたしはまた。何も話しかけなかった。コチは同じように優しくて。同じように目をつむったままだったから。
あんたはまだ。その人が忘れられないのね。
・・・なんだか彼が可哀そうだった。
それから、時々。誘われたら一緒に過ごした。何人かいる恋人のひとり。
あたしにとっても、彼にとっても。・・・ただそれだけの関係。
また2年がたち。
あたしは店の前に立っていた。
裏通りの小さな小さな店のまえ。
・・・あたしの店。
カウンター席は6つ。店には小さいながらも2階があって。寝室に使えた。
オープンのその日。コチは最初の客になってくれた。
小さな鉢植えの花を持ってきてくれて。
これは、あたしの好きな花だわ。
偶然でもうれしくて。
なのに。
「昔、この花が好きだと言っていたから」
覚えていてくれたのだと泣きそうだった。
その日。コチは2階に泊まっていった。
もうあたしはコチを見なかった。部屋は真っ暗で。そのうえあたしはぎゅっと目を閉じていた。
コチはやっぱり大切そうにあたしを抱いたから。
彼の閉じた目を見る勇気がなかった。
あれからまた8年?10年?
あたしの店には常連もできた。
時々会う恋人も数人いる。
・・・でも。この店にはだれも泊めない。
そんな馬鹿なあたしのところに。やっぱりコチは時々やってきていた。
・ ・
その日の彼は少し変で。
若い恋人たちに、あてられたみたいだった。
コチの話は甘くって。
最初の恋、か。
あたしたちみたいな年寄りにはなんだか微笑ましいわよねぇ。
あたしもなんだか楽しくなって。
意地悪で。あたしの好きな甘いお酒を出してやった。
ラベルがあたしの目の色とおなじ赤色。すごく気に入ってる。
でも、男性には受けが悪い。コチも甘いなと文句を言った。
「このラベルに口づけたら、本気で口説いていると思ってもらえるか?」
ぽかんとしてしまう。
そんなことをしたのは、きっとまだ少年なのね。
・・・あたしには、その姿が。
ストレートの長い髪に固執したコチと重なる。
そっと大事そうに髪に口づけていたコチ。
・・・可哀そうで。
でも。
「うらやましいわ」そんな風に思われて。
もう随分と昔。あたしにもそうならいいのにと思う相手がいたのよ。
・・・なんだか泣きそうになって。
伸びてくるコチの手を待つ。
また彼はあたしの髪をほどくんだろう。
また彼は。あたしを身代わりにするんだろう。
それでもいい、と目を閉じようとした時。
コチは。
あたしの頬に手を伸ばした。
「きれいな目だな。このラベルとおなじ色だ」
なによ。今頃気づいたの?
その言葉は口を塞がれたせいで言えなかった。
「シエル。シエル・・・シエル」
後ろからあたしを抱きしめてるコチの低い声が。耳元で聞こえる。
まるで生娘みたいにどきどきとしてしまって。
コチは固まったままのあたしを乱暴にひっくり返した。
「だ、だめ」
つい声が出て。いけない、と思う。
口をつぐむと。コチは軽く口づけてから。
「もっと声が聞きたい」と言った。「いつもの威勢はどうした?小娘みたいに困った声だ」くくっと笑うとじっとあたしの目をのぞき込む。
「あぁ、本当にきれいな目だ」
あたしを見てくれるの?
涙があふれだして。いやだ。まだこんな男に惚れてたのかしらと自分が嫌になる。
「シエル?なんで泣く?」
そう言いながらぐっとあたしの中に入ってきて。
「あぁ」コチの目にも涙が浮かんだ気がして。
「幸せだからだわ」馬鹿な答えを返してしまう。
でも彼は。手をぎゅっと握りしめてくれて。またあたしの瞳をのぞき込む。
「あぁ、俺も。・・・お前がやっと俺を見てくれて嬉しい」
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